忍びしのぶれど

裳下徹和

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第四章

⑶ 対岸の火事

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 川路利良大警視によって鹿児島に送り込まれた警察官中原尚雄以下二十四人は、若手士族に捕まり、拷問の末、西郷隆盛暗殺計画を自白させられる。本当に暗殺計画があったのかは謎だが、それをきっかけに、戦争は始まってしまった。
 川路利良は陸軍少将に就任し、九州で兵を率いて西郷軍と戦っている。
戦況は新聞によって逐一庶民に対しても報告されている。当初は徴兵で集められた平民が戦いに不慣れなこともあり、政府軍が苦戦を強いられたが、現在は巻き返しているようだ。
 現時点では、兵力で上回る政府軍が優勢のようだが、旧土佐藩などが西郷に呼応し、明治政府に反旗を翻せば、まだどうなるかわからない。
 藤田五郎も警視隊として従軍。新聞に載る程の活躍をしていた。
 そんな中、巷では一つの噂が流れていた。西郷軍が、軍艦で東京を直接攻めてくるという噂だ。
 その噂のなせる業なのか。鹿児島の兵器工場から没収された二十八センチ榴弾砲が、東京へと移され、東京湾へと配備されることとなった。
 西郷軍に軍艦はないはずだし、政府軍の軍艦を強奪するのも至難の業だ。東京に直接攻め入るなんて不可能に近い。それでも、海の守りを固めてしまう程、西郷隆盛には、大いなる威光が残っているのだ。
 跳は配達中に買った新聞を読み終え、鞄にしまう。仕事の続きをしようと歩き出すと、制服姿の石走に出くわした。
 石走が九州での戦争に従軍していないことは知っていた。最初聞いた時、跳は随分と意外に思ったものだった。石走に声がかからないわけがないはずだから、自ら辞退したということになる。妻と子を従軍しない理由とする石走でもないだろう。
「かつての同胞を斬りたくなかったのか?」
 跳が軽妙な口調で声をかけると、石走は何も言わずにらみつけてきた。
 理由がどうあれ戦争にいかなければ、腰抜けとみなされ、警察の中での立場は弱くなりそうだ。そのことで忸怩たる思いに苛まれているのだろうか。
 そのまま何も言わずに石走は去っていった。
 石走を見送りながら、もう一組戦争にいかなかった者がいたことを跳は思い出していた。
 石走だけではなく、葛淵親子も九州の戦争にはいかなかったのだ。
 葛淵は西郷のことを崇拝しているので、自ら参戦を断ったのか、寝返ることを怖れた政府から外されたのかわからないが、東京に残っている。
 息子の葛淵武次郎は父親の妾が営む神楽坂の料亭「美紗門びしゃもん」で、部下も交えて夜な夜などんちゃん騒ぎを繰り広げていると聞く。軍人なのに戦闘には参加出来ず、敬愛する西郷は危機に陥っている。鬱屈する思いがあるのもわかるが、評判は下がる一方だ。

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