忍びしのぶれど

裳下徹和

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第四章

⑾ 未来がなくても

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 葛淵武次郎は、攘夷思想にかぶれた上に薩英戦争で兄を殺され、大の外国人嫌いだ。その外国人が信仰するキリスト教を、邪教とみなし、忌み嫌っている。来栖村の切支丹を道連れにして逝くつもりかもしれない。
 今すぐにでも横になりたいくらい疲れている。深手は負っていないが体中が痛い。それでも跳は走る。るまがいなくなったら、この世界に生きる意味がなくなる。
 街は浮足立ったままだ。不安な顔つきで街から離れる者、家に閉じこもる者、様々だ。上野戦争の記憶は風化していない。戦争はまだ身近にある。そんな人々の中を、血で汚れた跳が駆け抜けていく。人々の恐怖をあおるだろうが、気にしてはいられない。
 道すがら軍人が逃げてこなかったか尋ねてみる。葛淵武次郎と思われる軍人が、部下を連れて北上した姿が目撃されていた。逃げる先がたまたま来栖村の方角なのだと思いたいが、嫌な予感が的中しそうだ。
 家屋や店が建ち並ぶ街中を抜け、畑や田んぼが広がる地域に足を踏み入れる。千住大橋を越え、跳はさらに走った。日は沈み、街の灯りは届かない。人の姿はないが、戦争の緊張感は、ここまで伝播してきていた。
 田んぼのあぜ道に目をやる。月明かりだけでははっきり見えないが、軍靴の跡らしきものがある。跳は走る速度を上げる。
 舎人村を過ぎ、切支丹達が移住してきた来栖村へとたどり着いた。
 跳の嫌な予感が的中していた。村からは怒鳴り声や悲鳴が聞こえてきている。
 足音を忍ばせ、呼吸を整え、身を隠しながら近付く。暗いが提灯を持った者がいるので、ぼんやりと情景が浮かび上がっていた。
 葛淵武次郎率いる敗残兵達が、嫌がる村人達を、村の中央にある大き目の家に押し込めていた。窓には板が打ちつけられ、家のまわりには藁が敷き詰められている。村人を押し込めて、焼き殺すつもりなのだ。
 助けに行きたいが、兵士は六人か七人いて、皆軍刀をさげ、小銃を手にしている者もいる。弾丸を撃ち尽くした拳銃と、手裏剣数本程度の武器、後は郵便鞄しか持っていない跳とは、戦力差があまりに違う。走るのに邪魔になると、小銃も刀も置いてきたのが悔やまれる。
 また一人、軍人に引きたてられていた村人が、家に押し込まれる。提灯の薄明かりに照らされた顔を見て、跳は息をのむ。るまだ。遠目に見えても、悲しそうな表情をしている。神に疑問を持った彼女に、死は救いではなくなってしまった。死は終焉だ。
 助けを呼びに行く時間はない。
 跳は郵便鞄の中をまさぐる。今あるもので、どうにかしなければならない。
 急いで細工を施し、跳は反乱軍の死角に入り込むべく動き始める。
 郵便配達夫の黒い制服と、顔を汚す血や泥が闇にまぎれ込ませてくれる。息を殺し、距離を詰められるだけ詰めた。
 村人の最後の一人を家に入れ、兵士達が戸に板を打ちつけた。これで家から出ることは出来ない。
 葛淵がマッチを擦り、点火した炎を藁の上に放った。小さな炎が、少しずつ拡大していく。
 突如大きな笛のような音と閃光が暗闇を切り裂き、続けてきらびやかな火の玉が、破裂音と共に反乱兵の顔面で炸裂した。
 桐桑の家から火薬と共に持ち出した花火を、発射筒に入れ横向きに飛ばしたのだ。導火線の調節も上手くいった。
 驚かせることが出来れば上出来だと思っていたが、運良く一人の兵を直撃し、敵の人数が減った。
 直撃しなかった兵士も、盛大な音と飛んできた火に驚き、唖然としている。
 跳は音もなく忍び寄り、小銃を持った男の首に棒手裏剣を突き立てる。男が倒れるより前に小銃を奪い取り、素早く狙いをつけ発砲した。
 銃弾で背中を撃ち抜かれた兵士は、前のめりに倒れ、葛淵率いる兵士達は、ようやく敵襲に気付く。
 葛淵が腰の拳銃を抜こうとするのを見て、跳は先程首を刺した兵を引きずり起こした。
 乱射された銃弾は、兵士の死体が弾除けとなり、跳には届かない。
 兵士二名が刀を抜いて襲いかかってくる。跳は盾にしている死体の陰から、棒手裏剣を続けざまに放つ。手裏剣は一人に一本ずつ命中し、兵士達の動きが止まった。
 跳は盾にしていた兵士の腰から刀を引き抜き、手裏剣で怯んだ兵士二名を斬り捨てた。
 葛淵が残った。燃え上がる炎に照らされた顔は、戦闘で汚れ、悪鬼の様に見えた。
 弾の切れた拳銃を投げ捨て、葛淵は刀を抜き、上段に構え、跳ににじり寄ってくる。
「ただの郵便配達夫ではないと思っていたが、邪教徒の手先だったか。随分と邪魔してくれるものだ」
 言葉を終えると同時に、葛淵が斬り込んできて、跳は間一髪かわす。親の威光をかさに着たただのぼんぼんかと思っていたが、剣の腕は秀でたものがあった。
「文明開化などと耳障りの良い言葉で西洋化を進め、日本人の心を忘れる。挙句の果てに邪教を認めるとは…。日本という形だけ残っても、中身はまるで別物になってしまう。心が乗っ取られていることに気付かんのか?」
 攻撃を仕かけようにもすきがない。含み針でも放ちたいところだが、かなり接近しないと刺さることはない。跳の持つ下級兵士の刀では、葛渕が振り下ろす名刀を受けきれず、へし折られてしまうだろう。射程内まで近付くことが出来ない。
「この国は進む方向を間違えている。今正さねばならんのだ」
「何偉そうなことを言っているんだ。農民と肩を並べて戦うのが嫌で、信仰する仏教が迫害されて、不満を抑え切れなかっただけだろう」
 跳の言葉を聞き、葛淵の表情が憤怒で歪む。
「黙れ! どうせ徳川時代から忍び稼業で汚い仕事ばかりしてきたのだろう。品性下劣なごみが、知ったような口をきくな!」
 葛淵の鋭い攻撃をかわし、跳は刀を振るうが、かすりもしない。剣の腕は大きな開きがある。
「お察しの通り、忍びだったよ。お前らに蔑まれながら、泥水すすって生きてきたぜ!」
 跳は刀で突く振りをして、十字手裏剣を投げるが、軌道を読まれ、かわされた。
「卑しい蛆虫が。邪教徒と共に滅ばしてやる」
 葛淵の刀が跳の体をかすめる。ほんの少し避けるのが遅かったら、死んでいた。
「うるせえ。何が日本の心だ。何が侍魂だ。一割にも満たない特権階級が、日本を操る時代は終わったんだ!」
 跳は刀で突きを入れようとするが、かわされて逆に斬りつけられそうになる。
「世迷言を言うな。百姓や商人に何が出来る。日本を蝕む異人を追い払い、侍がこの国を支配せねば、日本は滅んでしまう」
 戦いを続けている間にも、家にかけられた火は燃え広がり、中にいる村人達をいぶしていく。中からは悲鳴が聞こえていた。
「侍の時代は終わったんだ」
 再び十字手裏剣を放つが、葛淵をとらえることはなかった。
「忍びふぜいが何を言う」
 葛淵の刀が、跳の体を浅く切り裂く。
 このまま正面から戦っても勝ち目はない。
 跳は地面に刀を突き立てると、両手で印を結び始めた。
「どうした。がま蛙でも出すつもりか?」
「忍術は講談の中だけのものだとでも思っているのだろう。だが、本当に実在するんだ」
「臨・兵・闘・者……」
 跳は大きく声を出しながら印を結んでいくと、葛淵の顔に怖れが浮かび始めた。
「皆・陣・列・在・前」
 印を結び終え、跳は大きな気合いと共に手を突き出す。
 跳の手から何か出ていると思った葛淵は、大きく身をかわした。
 それが狙いだった。がむしゃらに戦う振りをして罠を仕かけていた。動きながら黒くて細い紐を地面に落とす。十字手裏剣は避けられる前提で投げ、地面に突き刺さるようにした。印を結んだところで、手の先から何か出ることはない。避ける方向を予測し、足に引っかける為の紐に誘導しただけだ。
 跳が紐を引くと、葛淵は足を絡ませて転んだ。転んだ先には刃を上に向けた十字手裏剣が待ち構えている。地面と体が接触すると同時に、葛淵は苦痛の声を上げた。十字手裏剣の刃が、体に突き刺さったのだ。
 跳は地面に突き立てていた刀を引き抜き、とどめを刺しにいく。
 葛淵は苦痛に苛まれながらも立ち上がり、跳を迎え撃とうとするが、傷を負って動きが鈍い。
 跳は葛淵の刀を持つ腕をなぎ払い、返す刀で胸を切り裂き、最後は体全体で突きを押し込み、胴を貫いた。
 葛淵は刀で刺し貫かれたまま、跳の首に爪を突き立て、途切れ途切れに言葉をもらす。
「この国は…間違えた方に…進んで…いる…」
 血と一緒に最後の言葉を吐き出し、葛淵の手から力が抜け、跳が刀から手を離すと、その場に崩れ落ちた。
 跳は炎に包まれつつある家に駆け寄り、戸に打ちつけられた板をはがしにかかる。
 厳重に固定されていたが、落ちていた刀を使って、どうにかはがすことが出来た。
 戸を開き、中へと踏み込む、壁は焦げ、煙がたちこめているが、身を低くした村人達は、まだ生きていた。跳は急いで村人達を縛りつける縄を断ち切り、屋外へ解放する。
 最後に残ったるまの縄を切り、二人一緒に煙がたちこめる家の中から脱出した。
 外に出てみると、煙を吸ってむせている者が多数いたが、命に別状はなく、次第に生きのびた喜びに笑顔を見せ始める。
 皆の無事を確かめてから、跳とるまは村人達から離れて村外れの方へ歩いた。
 燃え上がる炎が空を照らし、灯りのない農村の夜が明るい。
 家屋から離れたところまで来た時、跳は郵便鞄から最後の花火を取り出し、発射筒に入れ、導火線に着火した。
 長めにとった導火線を火が伝っていく中、二人は小走りで花火から離れ、打ち上げの時を待った。
 今日のところはどうにか生きのびたが、この先大きな幸せなど訪れないだろう。容赦なく流れ込む文化の波に乗ることも出来ず、ただ流され、取り残され、死なないだけの人生を送ることだろう。それでも、その中で小さな幸せをみつけ、我々は生きていくのだ。
「るまさん。この世界がどう変わったとしても、俺達は低いところであえぎながら生きていくだろう。明るい未来なんてないかもしれない。でも一緒に生きよう」
 火の玉が音を立てて夜空に上がり、大きくはじけた。
 桐桑が作った花火は、どこまでもあでやかで、照らし出された跳とるまは、血や泥や煤で汚れきっている。社会の底辺から、手の届かない上層部を眺める二人を象徴したような光景だ。それでも、二人は束の間幸せを感じていた。
「あなたに愛を思っている」

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