醜く美しいものたちはただの女の傍でこそ憩う

ふぁんたず

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第八章 異世界の中の異世界とか、本当に勘弁してほしいです

11.もしも神さまがいるのなら切々と訴えたいことがあります

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 いったい何が起こったんだっけ?

 頭痛がひどくなっている。両手でこめかみをもんでも、ちっとも軽減されない。私は状況を確認しようと目を眇めてあたりを見回す。

 アパートに残されているのは、やや縮んだ状態で、逆さまに天井に座り込んだままの私だけ。

 アレクシスが消え失せてしまった空間を何度見ても、そこには何もない。それでも私はとうてい信じることができなくて、ばかみたいにその一点を見つめ続けた。

 たましいだけの状態では、いずれは消えてしまうというのは拓斗との会話でわかっていた。猫の肉体に入っている拓斗は消えないと言ってもいた。
 拓斗はアレクシスの魂を私に目覚めさせて、連れ帰ろうとしていた。でもアレクシスは消えてしまった。これって単純に時間切れだったのだろうか。私は間に合わなかったの?
 
 状況が呑み込めず、硬直したままぐるぐると考えていると、鳴き声がした。

 のろのろとそちらを見上げると、逆さまの拓斗が上品にフローリングの上を歩いていた。アレクシスが消えたあたりまでやって来て、ゆったりと腰を下ろす。それは私に昔見た映画のワンシーン、伯爵令嬢がディナーの席についた場面を思い出させた。

 ひげを整えるように前足で撫で付けて、おもむろに口を開く。

あるじさま、このたびはたいへんご迷惑をおかけしやした。しかしながらおかげさまで、おいは役目をまっとうすることができそうでやす」

 まっとう。 全うしたということ?
 私はその言葉の意味するところをうまく理解できないまま、待ってと口の中で呟く。

「アレクシスは」
「ですから、おかげさまで万事うまくいきやした。たいへんぎりぎりではあったのですが、不肖の師に綱をくくりつけることができんしたので」
「じゃあ、彼女はスヌキシュに帰れたってこと? その綱を辿って?」

 拓斗はにんまりとした。ひなたぼっこをしながら将棋をするおじいちゃんがうまい手を指したときみたいに。

「さて、おそらくは。あれほど手助けをしておけば、そして師の自らの意思で帰りたいと望んでいたのであれば、うまくいくとは思いやすがねえ」

 うまくいった。アレクシスはスヌキシュのレンガの家、書棚だらけのあの家に帰れた。

 私はようやくそこで理解が追いついて、大きく息を吐きながら大の字に身体を投げ出す。完全に脱力しきった身体が天井に吸い付くみたいにぐったりと重い。
 それからもう一回、大きく息を吸って吐いた。吐く息と一緒に、いろんな気詰まりだとか緊張だとかも出て行った気がした。

「……スヌキシュの家には、アレクシスの肉体があるってことよね。そしてもうすぐ、目を覚ますのね」
「うまくいけば、そうなりやす」
「私は書棚と雑多な品物だらけの部屋しか見てないけど、アレクシスはその近くでずっと寝ていたってことで合ってる?」
「是。主さまの見た部屋はお察しのとおり書庫だと思いやす。師の蔵書は一部屋には収まりきらず、そのような書庫があと数部屋ありやすが、その近くに師の部屋がありやす。肉体は寝台に横たえられているはずでさ」

 あの膨大な書物がまだ倍以上あるのか。大きな家だな。

「きっと、アレクシスの寝台のそばで、たまがやきもきしながら待ってるね」
「目覚めたとたんに小言を言われる師の姿が、目に浮かぶようでさ」

 不機嫌そうに目を開ける肉体に戻ったアレクシス、震えるほど安心したのをごまかすように唇を引き結んで仏頂面を作って、説教を始めるたま。私はちょっと笑ってしまう。偏屈で頑固な師匠と、このマイペースで飄々とした拓斗の間にいるなら、たまのポジションはなんとなく想像できてしまう。

 たまは少なくとも三年、抜け殻になったアレクシスを見ていたはずだ。三年という時間がスヌキシュにおいてどう伸び縮みするかはわからないけど、ずっと師匠が目を覚ますのを待ち続けていたのだ。

 あとはアレクシスが、少しでも人と関っていけるようになればいい。

 私はようやく人心地ついて、伸びをしながら口を空けて、ふわあああと声を出す。
 なんだか合わせていろんなことが解決したようにも思えたが、天井に逆さまに寝そべっている自分の状況に思い至って首をぶんぶんと振り、慌てて拓斗を見上げる。

「……ところで、私はどうなるの? このまま重力を逆にして、肉体を持ってきて、縮んだサイズを戻してもらいたいもんだけど」

 言いながら、そんなことにはならないんだろうなあと思いながら、でもうっかりそんな都合のいいことが起こってくれたりしないかなと期待する。

「否だ、主さま。主さまには入るべき肉体が足りませんでな」

 たまねぎないからカレー作れません、みたいな感覚で言わないでほしい。

 知ってた。知ってたよ。でも言いたかったんだ、それで解決するってちょっと一瞬夢見たっていいじゃないか。

 私はため息を吐きながらちょっと考えた。ええと、私の肉体は穴(ボラミニ)に投げ出される前の、つまりはスヌキシュにあるということで合ってるのかな。ナラ・ガルさんといたルガジラからスヌキシュまでは、身体ごと転移させられたはずだから。

 たまのやつ、ちゃんと私の身体を丁重に扱ってるかな。あのまま砂の地面にほったらかしにしてたら、いよいよ怒るぞ。

 私は穴の開いた右手をひらひらと振りながら、拓斗に訴えかける。

「で、私はどうなるわけ。まさかここでほったらかしにして縮んで消えるのはごめんだけど」
「それについてですが、おいには主さまの悩みを解決する考えがないんでさ」

 私の悩みを解決する考えがない。
 解決できない?

「はあ!?」
「おいからすれば、主さまはある日この家から肉体ごと、忽然と消え失たわけでやす。そうして魂だけでここへ戻っていらっしゃった。肉体なしの魂けのものをどう扱うか、おいには未知の分野でさ」
「未知の分野」
「左様で。どちらかというと、弟弟子の得手とする分野でさ」
「じゃ、じゃあどうしたらいいっていうのよ」

 家庭科が得意な子に数学を質問するようなものだが、聞かずにはいられない。すると拓斗はご安心なされというように尻尾をゆらした。太陽の光を反射して輝く毛。猫の尻尾とは実にいろいろなことを物語ることができるのだ。

「師がある手段を残していってくれやした。それを用いれば、まあ何とか」

 何とか。なるのかならんのかどっちだ。

「なるかはわかりやせんが、まあ、それしかないのでねえ。試してみやしょう」
「もうちょっと前髪切ってみますか、と同じテンションで言われても困る! こっちは本気の意味の生死が関わっているんだよね、高級ささみもたくさんあげてたでしょ、なんとかしてよ拓斗!」

 アレクシスと違って、三年いっしょに暮らしてきた拓斗が相手だ。私は見栄も外聞もなくぎゃあぎゃあわめいた。冷蔵庫に入っているチューハイだって拓斗のもふもふだって、肉体がなければ一生味わえないじゃないか!

「師のことでは世話になりやした。たいへん美味なものも与えてもらっておりやした。おいもついていくつもりですんで、気張ってくだせえ」
「ついていくってどこへ。スヌキシュ?」
「そうできたら話は早いんですがねえ。おいはともかく主さまには遠すぎる」
「遠い」
「申し上げたでしょう。おいはいわば綱をつけて溟渤めいぼつを潜ってきたようなものだと。綱を辿ればなんとか戻れるでしょうが、主さまにはそれがないんでさ」
「その綱に私もおまけでくっつけてよ」
「重くて千切れてしまいやさあ」

 失礼な! と思いながらも、そういうものなのかもしれないと私は途方に暮れる。if関数だってエラーは起こる。想定外には関数の組みなおしが必要だし、それと同じで魔法の組み換えをしなくちゃならないんだろう。そして拓斗はそれが得意ではないということだ。たまのほうが得意って言ってたしな。たま、助けて!

 私が一人でわたわたしてるのを尻目に、拓斗は立ち上がって伸びをした。お尻を高く上げてきゅうっと目を閉じる。かと思えば毛づくろいをし始めた。めちゃくちゃかわいい。

「とにかくまあ、試してみやしょうよ。なに、おいは世話になった恩もあるわけで、見捨てたりはしやせん」
「お腹を舐めながら言われても」
「ああそれと、瑣末なことではありますが訂正を。主さまは師を彼女と呼んでらしたが、それは誤りでさ」
「は」

 それってつまり……え?

 私の考えがごちゃごちゃなまま、拓斗はにんまりと笑う。それからふっと真面目な表情、真剣そうに目を伏せた。凛々しくてすごくかっこいいと見とれていると、視界が少しずつ歪み出した。たまの転移は瞬間的だったけど、それとは違う。不思議な気分だ。見慣れたベッドやテーブル、カーテンがコーヒーとミルクを混ぜたときのようにマーブルになっていく。拓斗すら歪んでいる。右手を持ち上げてみてみると、外国のアメみたいにとぐろを巻いている。混乱する間もないまま次の瞬間、有無を言わさず掃除機に吸い込まれるように頭から引き寄せられた。全身の細胞が押しつぶされる。布団の圧縮袋の中に入れられる息苦しさ――







 香ばしいにおいが胃を刺激している。

 このにおいはよく知っている。魚をこんがりと焼いたときのにおいだ。大根おろしと醤油が欲しくなるような。
 でもおかしい。いつもよりもずっと強く脳に届く。そのにおいがどの方向からきているのかすらわかるのだ。ああでも、おなかが空いた。

 私はそこでぱちりと目を開く。視界いっぱいに映ったのは密集する小さな葉。
 ちょっと硬直したけど、しばらくしてから察しがつく。おそらく茂みの中とかに倒れている状態なのかな。視界にはほかにも何か黒いものも映りこんでいるようだけど、むせ返る草の匂いでそれどころではない。青々とした植物のにおいだ。初夏……夏のころに漂う、濃い木々の香り。

 私はそこでおかしいことに気づく。気温から察するにどうやら朝か昼のようだけど、視界に移る色はというと、なぜか白黒っぽいのだ。目がかすんでいるのかな。

 そう思って私は目をごしごしと……ごしごしとしようとして、強烈な予感に全身を硬直させる。

 右手を持ち上げる。黒っぽいふさふさの毛が生えた前足がそこにある。

「……。……!?」

 ぎゅっと力をこめてみると、爪がぴくぴくと動いた。黒くとがった鋭い爪。土を掘るのに獲物を切り裂くのにぴったりの。

 そしてようやく気づいたけど、視界の下のほう、さっきからずっと見えている黒いものは、これは……鼻?

 ぶわっと全身の毛がふくらむのがわかった。私はものすごく、ものすごく嫌な予感にぷるぷる震えていると、近くで人の足音が聞こえた。

 数秒硬直してから、おそるおそる顔だけを茂みから出して様子を伺う。林の中、まるでたてあな式住居のような古代めいた小屋がぽつんとそこにあった。屋根は合掌造りに似ていて、材質は古典的な萱葺きだ。屋根はほとんど地面にめり込みかけている。その合掌したすき間に、何か盆のようなものが置かれていた。

 いいにおいの正体はそれだ。焼き魚に漬物と、何かの穀物だろうか。
 相変わらず視界は白黒だし、目が悪くなったかのように鮮明には見えないけど、においが物語っている。さっきの足音は、それを置いた人が遠ざかっていくものだったのかも。

 私は空腹に耐えかねて、一歩だけ茂みから身体を乗り出す。こんな空腹は生まれて初めてだ。飢餓という言葉がふさわしい。そして視界に移る鼻をひくつかせて、もう一歩近づく。
 おいしそうな食物に理性が崩壊しかけたとき、小屋から声がした。

「――今度の相手は畜生か? あるいは刺客か」

 その声に戦慄した私は硬直して小屋の奥、暗がりに目を凝らす。太い木でできた頑丈そうな格子の向こう。氷のように冷ややかな、興味の薄い視線を投げているのは。

「どちらにしても、あまりに貧弱。みすぼらしいたぬきであることだ」

 高い太陽の光が差し込む檻。その奥、壁に半身を預けるようにして片膝を立てて、目を細めている男性がいる。無感動で冷ややかで、海の底に沈んだ月みたいに冷徹な瞳の――阿止里あとりさんが。

 遠くに小川のせせらぎを聞きながら、目の前の焼き魚に胃袋を刺激されながら、そして毛むくじゃらの全身をぷるぷる震わせながら、私は祈った。

 どうか神さま、もしいるのならば、これを最後の受難にしてください、と。




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