66 / 97
第六章 異世界は異世界でも、平穏な異世界がいいです
7.泳げるってすごいことだと思うんです
しおりを挟む
男は40前後に見えた。カムグエンの人々とは異なる、明るめの茶色い髪と瞳。ツーブロックに刈り上げた髪はテレビで見る軍人のようだ。
長身で、やはり鍛え抜かれた身体をしている。ナラ・ガルさんに匹敵する堂々とした風体。
印象的なのはその表情だ。私は学生時代の、学年でやんちゃだった男の子たちのグループを思い出す。ハンドボール部だった彼らはよく言えば元気、悪く言えば粗野に過ぎ、問題を起こしては叱られていた。叱られたところでまったく気にしないようなガキ大将の集まりだったが、その中にひとり、異彩を放っていた男がいた。
余裕のある表情、自信を宿した目。輪の中心にいるくせ、いつも静かに笑っているだけだった。上手にまわりを誘導し、常に面白いものを探しているかのようでもあった。よく言えば好奇心旺盛、悪く言えば享楽的な。大人になった彼がやくざの裏でものごとを操っていると言われても違和感がない。
ろくに話したこともないのに、印象だけでものを言って失礼かもしれないが、私は彼が隠す気もない冷淡さが苦手だったのだ。
こんなことを急に思い出したのは、目の前の男が纏う刹那的な空気が似ていたからかもしれない。
「ずいぶん遅かったじゃあないか。お話が長引いたのか?」
「いえ、べつに。ただこの娘が奇妙なことを言ったので、僕は混乱しています」
「へえ? どんな」
「以前、僕に会ったことがあると。僕は覚えていないのに」
「そりゃあ、面白い」
私を見る瞳が、怪我した鼠を見つけた猫のように細められた。言いようのない悪寒が背中を走る。
「やはり僕の名前を知っているようです。兄さん、どうしたらいいと思いますか」
兄さん? 月花に兄がいたのか。
彼らの会話はどんどん進んでいく。私も混乱した。どういうことだ。
(縁子。血の縁はなさそうだぞ。義兄弟という意味ではないか?)
ぎっ、義兄弟! 現代社会で暮らしていればめったなことでは耳にしない言葉だ。あれか、兄弟の杯を交わす、というやつか?
それにしても月花の表情や声はひどく明るい。狐面のせいで下半分しか見えないが、それでもだ。
三人に対してですら、こんなにあからさまに懐いてはいなかった。
「おまえの名を知っているとあっちゃあ、かわいそうだがどうしようもないだろうなあ。きれいに沈めてやりゃあいい」
どうして二人はこんなに月花の名前に固執するのだろう。
ククルージャにいたときは、隠す風情もなかったのに――んん、沈める?
「そこまで、したほうがいいと?」
月花が控えめに確認した。その声は淡々としていて動揺の色はないが、どこか困惑も混じっているように感じた。
「あくまで俺の意見さ。おまえに関わることだろう? おまえが決めたらいい」
なに。これって私を湖に沈めるかどうかって話? 意味がわからない。
「……兄さんは、いつでも正しいですよ」
ではそうしましょう。そう言って私に向き直った月花は、もはや迷いはないようだった。さっきまでの、好き嫌いの話で子どものようだった一面は欠片もない。私はそのことに戸惑う。まるで別人のように冷え切った声で月花は口を開く。というわけでと首を傾けた。
「大丈夫。苦しみのないように心がけますから」
本能的に後ずさる。冗談ではない。こんなところで――しかも月花に――どうして沈められなければならない?
「このあたりの底には、たくさんの長くて大きな藻があります。優しく包んでくれますよ」
手が伸ばされる。どこかのテレビで、鶏の首をぽきりと絞めた料理人の腕が頭をよぎる。
月花の背後では、男は極上のマッサージを受けているような面持ちで静観している。自分の手を動かさずに、けれどすべて彼が仕組み誘導した。それが成功しようとしている、仄暗い優越に浸る瞳。私は直感する。
この男は、こいつは。月花のひび割れた心にするりと入り込み、巧みに痛む箇所を包んだのだ。
そして彼の賢さを、己のために利用しようとしているのではないか。
根拠はない、あくまで勘だ!
「じょっ、冗談じゃない! 月花、しっかりして。思考とか判断は他人に任せちゃいけない! どんなに辛くても、それだけは――」
私がそう気色ばんだとき、小舟のへりを掴んでいた手がずるりと滑った。
嫌な浮遊感は一瞬だった。後ろ手に体重を預けていた私は体育の授業のように後転し、湖にばちゃんと落ちた。
さいごに目にしたのは月花の無防備に空いた唇。魚眼レンズで見上げたかのような溢れる星空。
そのあとはゆらめく暗闇と水の音が私を包んだ。
落下した水中は、私が経験したどの暗闇よりも奥深く不気味だった。
いったいどちらが水面で、どちらが水底なのかもわからない。目を開けていられないのだ。
泳げないも同然の私は本能のまま手足をばたばたさせたが、徒労に終わる。
泳げる友達は「人は身体の力を抜けば浮くようにできている」と言っていたが、それができれば苦労はしない。
口に含んだ酸素がなくなっていく。まとわりつく服が悪意を持つ碇(いかり)のよう。耳に入り込んだ水が気持ち悪い。
打つ手がない。空気が、空気がほしい。
そう思ったとき、背中を大きな手のひらが押し上げた。
ちがう。手のひらではない。おそるおそる背後に手を回して、当たっているものの正体を探ってみると、それはたくさんの魚たちだった。
(逆らわずにいろ)
たま? ではこの魚たちは。
私は目をぎゅっとつぶって息を止め続けた。左手で口と鼻をふさぎ、右手で腰の巾着の中の頭輪を握り締めた。相変わらず苦しいが、身体を動かさなくてもいいぶん先ほどよりもずっと楽だ。
たくさんの魚が私の背中じゅうにその顔を押し当てるようにして身体を運んでいく。上昇してくれないのは、上に月花とあの男がいるからだろうか?
ああでも、そろそろ息がもたない――
突然足のすね辺りに硬いものが当たり、反射的に身体に力を入れた。同時に上半身が湖岸に打ち上げられる。
そこには渇望した空気が当たり前のように満ちていて、呼吸ができて、私は大きくえづきながら飲み込んでしまった水を吐き出した。生臭い水のにおいで吐き気が止まらず涙がにじむ。
プールで失敗したときのように鼻がつんとしている。耳の中がとぷんと波打ち、めまいがするほど気持ちが悪い。
「あっ……う、あ……」
大きく胸を上下させながら湖岸に仰向けになる。自分の身体がトドかセイウチになったかのように重かった。肩や髪が泥だらけになったが、それもどうでもいい。
「たま、ありが……と」
ようやく息が整ってきて、腰の巾着に触れながらお礼を言う。
(礼など……)
ばつの悪そうなたまの声。私はそれを不思議に思う。
確かにこういう状況になったのはたまのせいだけど、たまの声には申し訳なさというよりは、迷いだとか、自己嫌悪のような響きがあった。
その理由を聞こうと思ったとき、やや遠くの水面を滑る小舟の影が見えた。反射的に息を潜める。
草むらにうずくまりながら様子を伺うと、どうやら月花と男の乗った小舟のようだった。
魚たちはわりと離れたところに打ち上げてくれたらしい。
「……月花に、何があったんだろう」
髪から滴る水を絞って遠ざかる彼らを見つめる。
賢い少年だった。三人と過ごす日々は、彼らの意見に自分の意思をきちんと伝え、年若いながらもひとりの人間として自立していたように見えた。
けど今は違う。あれはほとんど服従する勢いだ。
あの男がイルカだと言えば、たとえカブトムシですらイルカだと答えるだろう。それもあくまで、本当はカブトムシだとわかった上で従うのではないか。
それは理性をきちんと持ち合わせた上での妄信だ。
(頭の回る人間ほど、いちど信じ込むと離れられぬものでは? 自分が心を預ける相手に認められることほど心地のよいものはない。自分の思考を放棄して唯々諾々と動くこともあるだろう)
そういうものかな。
私はちょっと思い返してみた。確かに学校の生徒会や会社の課でも「あの人にほめてほしい」と動いていた人たちはいた。
その気持ちはわからないではない。私だって尊敬する上司に数字が見やすいといわれたときは素直に嬉しかった。次はさらに工夫としようとも思ったものだ。
けれどそれは場合によっては危険なことだ。もしその上司が、実は裏で不正をしていて、幻滅したとする。私は次から書類に工夫をしなくなるだろう。あんな人のために業務の合間を縫って仕上げたなんてと、いやな気持ちになるだろう。
それはいけないと思うのだ。仕事に工夫をするのもがんばるのも、ぜんぶ自分のためであるべきではないか? 相手あっての努力の不思議な空々しさは、誰でも一度は感じたことがあると思う。
ぶるりと身体が勝手に震えた。私は意識を目の前の水面に戻す。
熱帯地域といえども、夜の冷えた湖の中をツアーさせられるとこたえる。
「ひ、ヒルダたちのとこに帰りたい……! たま、魚に助けてくれるように頼めたんでしょ? 私を助け合いの家まで飛ばしたりとかできないの?」
いつも好き勝手に人を転移させるのだ。こういうときくらい、有意義に使ってほしい。
(あいにく魔力は枯渇気味だ。先ほどだって鍋底にこびりついたスープをなめるようにして集めた魔力なんだぞ。無茶言うな)
ほんっと、肝心なときに使えないんだから!
※
夜中までかかって、何とかカムグエンの集落に戻ることができた。
湖岸をぐるりと、えんえん歩いてきたのだが、これがものすごく疲れた。
道なき道なのは知ってのとおりだが、胸のあたりまでの茂みを掻き分け、見えない足場を確かめながらの行程だった。
ぬかるみに滑ってしまえば湖に落ちてしまうし、岩や石などを踏んでも危険なので注意しながら進まなければならない。
舟着場に止められていたそまつな小舟を慣れない櫂でひたすら漕ぎ、なんとか助け合いの家に着いたときは、身も心もぼろぼろだった。
広間の囲炉裏には、白っぽくなった石炭があきらめ悪そうに燃えている。みんなござのようなものを敷いて雑魚寝をしていた。
部屋の隅にある物干しスペースに乾いた衣服がいくつかあったので、拝借することにした。だぼっとゆるゆるのポンチョみたいな上着とスカートのようなもの。べちゃべちゃの服を代わりに物干しにかけておく。朝になって乾いていれば着替えればいい。
乾いた清潔な衣服を着るだけで、ほっと一息だ。
ヒルダはどこだろうと見渡すが、石炭の消えかけているほの赤い光だけでは見つけることができない。
真っ暗な部屋に非常灯の光があるだけみたいな状況だ。私は思考を早々に放り投げ、手ごろな床に横になる。砂袋を詰めたように身体が重い。
まだ濡れている髪を、寝やすいようによけて丸くなる。目を閉じれば意識が泥のように沈んでいくのがわかった。いろいろなものが頭をよぎった。それはイメージでもあった。煌々と燃える石炭、洞窟に埋められた赤子、湖の底の骨、それから月花の狐面。その下にあるはずの緑の瞳……。
何かが振動するような衝撃に、私は鉛のような瞼を少しだけ開いた。
目の前をたくさんの足が行き交っている。不規則な踊りのようだなと思ったとき、不愉快な音が脳に届いた。
硬い植物どうしがぎゅっぎゅっと擦れあう音だ。らっきょを食べたときにも似た、ちょっと鳥肌の立つ感じ。
耐え切れず頭をもたげれば、みんなが慌しく動き回る、その足の振動が竹を束ねた床を揺らしている音だと気づく。内部が空洞だから、床を通して信じられないほど音が響いたのだろう。
「いや、何事?」
硬い竹の床で身を縮こませて寝たせいで、疲労がすごく残っている。くどいようだがアラサーだ。日付けが変わってから寝たり、油っぽいものを食べたりすると翌日しんどい。昔とはあらゆるところで変化を感じるのだ。
「ユカリコ! こっち」
まだちょっと湿っているごわごわの髪を、手ぐしで直しながら立ち上がったとき、入り口にヒルダが走りこんできた。そのまま私のところに来て手を取り舟へ引っ張られる。
「これ、何? なんかのお祭りとか」
「ユカリコのそういうほけほけしたところって、貴重よね」
ヒルダは足を止めてまじまじと私を見つめ、褒めたのかけなしたのかわからないことを言った。
ほけほけとは失礼な。これでもいろいろ考えているんだぞ。そう思ったが、まあいいやと開き直る。
「そうなの。貴重でしょ?」
そう言って微笑めば、ヒルダも仕方ないように笑った。それから再び私の手引っ張って舟へ飛び乗る。櫂をぐんぐん漕いで湖の中心へ向かう。
人々のざわめきがすごい。まわりを見るまでもなく、たくさんの舟が出ている。一様に同じ方向へ舟を進める様子は壮観で、まるで何かの儀式かと思ってしまう。
だがそれにしては人々の表情が硬い。
建物の合間を縫っていくと湖の中心に出た。そこはそれこそ広場のような空間になっていて、水上の交差点ともいえる。
すでに集まっていた、おびただしい数の舟の上には武装した男たちが居並んでいる。
広場の中心にぽつんと浮かぶ塔のような建物。その上に立つ壮年の男性が何事か叫んでいる。その声に呼応するように、集まった人たちが一斉に声を上げた。
まだ状況を把握できていない私の耳元でヒルダが囁いた。
「今朝がた、さいごの使者が来たの。カムグエンから私たちが出て行くか、さもなければ剣を取るか。二者択一を伝える白狐が」
戦いになるわ。
そう言うヒルダの言葉に、私はぽかんと口を開けた。
これが火星の月の石だよ、と手渡されたような、どうにも理解できないその塊を、私はただもてあました。
長身で、やはり鍛え抜かれた身体をしている。ナラ・ガルさんに匹敵する堂々とした風体。
印象的なのはその表情だ。私は学生時代の、学年でやんちゃだった男の子たちのグループを思い出す。ハンドボール部だった彼らはよく言えば元気、悪く言えば粗野に過ぎ、問題を起こしては叱られていた。叱られたところでまったく気にしないようなガキ大将の集まりだったが、その中にひとり、異彩を放っていた男がいた。
余裕のある表情、自信を宿した目。輪の中心にいるくせ、いつも静かに笑っているだけだった。上手にまわりを誘導し、常に面白いものを探しているかのようでもあった。よく言えば好奇心旺盛、悪く言えば享楽的な。大人になった彼がやくざの裏でものごとを操っていると言われても違和感がない。
ろくに話したこともないのに、印象だけでものを言って失礼かもしれないが、私は彼が隠す気もない冷淡さが苦手だったのだ。
こんなことを急に思い出したのは、目の前の男が纏う刹那的な空気が似ていたからかもしれない。
「ずいぶん遅かったじゃあないか。お話が長引いたのか?」
「いえ、べつに。ただこの娘が奇妙なことを言ったので、僕は混乱しています」
「へえ? どんな」
「以前、僕に会ったことがあると。僕は覚えていないのに」
「そりゃあ、面白い」
私を見る瞳が、怪我した鼠を見つけた猫のように細められた。言いようのない悪寒が背中を走る。
「やはり僕の名前を知っているようです。兄さん、どうしたらいいと思いますか」
兄さん? 月花に兄がいたのか。
彼らの会話はどんどん進んでいく。私も混乱した。どういうことだ。
(縁子。血の縁はなさそうだぞ。義兄弟という意味ではないか?)
ぎっ、義兄弟! 現代社会で暮らしていればめったなことでは耳にしない言葉だ。あれか、兄弟の杯を交わす、というやつか?
それにしても月花の表情や声はひどく明るい。狐面のせいで下半分しか見えないが、それでもだ。
三人に対してですら、こんなにあからさまに懐いてはいなかった。
「おまえの名を知っているとあっちゃあ、かわいそうだがどうしようもないだろうなあ。きれいに沈めてやりゃあいい」
どうして二人はこんなに月花の名前に固執するのだろう。
ククルージャにいたときは、隠す風情もなかったのに――んん、沈める?
「そこまで、したほうがいいと?」
月花が控えめに確認した。その声は淡々としていて動揺の色はないが、どこか困惑も混じっているように感じた。
「あくまで俺の意見さ。おまえに関わることだろう? おまえが決めたらいい」
なに。これって私を湖に沈めるかどうかって話? 意味がわからない。
「……兄さんは、いつでも正しいですよ」
ではそうしましょう。そう言って私に向き直った月花は、もはや迷いはないようだった。さっきまでの、好き嫌いの話で子どものようだった一面は欠片もない。私はそのことに戸惑う。まるで別人のように冷え切った声で月花は口を開く。というわけでと首を傾けた。
「大丈夫。苦しみのないように心がけますから」
本能的に後ずさる。冗談ではない。こんなところで――しかも月花に――どうして沈められなければならない?
「このあたりの底には、たくさんの長くて大きな藻があります。優しく包んでくれますよ」
手が伸ばされる。どこかのテレビで、鶏の首をぽきりと絞めた料理人の腕が頭をよぎる。
月花の背後では、男は極上のマッサージを受けているような面持ちで静観している。自分の手を動かさずに、けれどすべて彼が仕組み誘導した。それが成功しようとしている、仄暗い優越に浸る瞳。私は直感する。
この男は、こいつは。月花のひび割れた心にするりと入り込み、巧みに痛む箇所を包んだのだ。
そして彼の賢さを、己のために利用しようとしているのではないか。
根拠はない、あくまで勘だ!
「じょっ、冗談じゃない! 月花、しっかりして。思考とか判断は他人に任せちゃいけない! どんなに辛くても、それだけは――」
私がそう気色ばんだとき、小舟のへりを掴んでいた手がずるりと滑った。
嫌な浮遊感は一瞬だった。後ろ手に体重を預けていた私は体育の授業のように後転し、湖にばちゃんと落ちた。
さいごに目にしたのは月花の無防備に空いた唇。魚眼レンズで見上げたかのような溢れる星空。
そのあとはゆらめく暗闇と水の音が私を包んだ。
落下した水中は、私が経験したどの暗闇よりも奥深く不気味だった。
いったいどちらが水面で、どちらが水底なのかもわからない。目を開けていられないのだ。
泳げないも同然の私は本能のまま手足をばたばたさせたが、徒労に終わる。
泳げる友達は「人は身体の力を抜けば浮くようにできている」と言っていたが、それができれば苦労はしない。
口に含んだ酸素がなくなっていく。まとわりつく服が悪意を持つ碇(いかり)のよう。耳に入り込んだ水が気持ち悪い。
打つ手がない。空気が、空気がほしい。
そう思ったとき、背中を大きな手のひらが押し上げた。
ちがう。手のひらではない。おそるおそる背後に手を回して、当たっているものの正体を探ってみると、それはたくさんの魚たちだった。
(逆らわずにいろ)
たま? ではこの魚たちは。
私は目をぎゅっとつぶって息を止め続けた。左手で口と鼻をふさぎ、右手で腰の巾着の中の頭輪を握り締めた。相変わらず苦しいが、身体を動かさなくてもいいぶん先ほどよりもずっと楽だ。
たくさんの魚が私の背中じゅうにその顔を押し当てるようにして身体を運んでいく。上昇してくれないのは、上に月花とあの男がいるからだろうか?
ああでも、そろそろ息がもたない――
突然足のすね辺りに硬いものが当たり、反射的に身体に力を入れた。同時に上半身が湖岸に打ち上げられる。
そこには渇望した空気が当たり前のように満ちていて、呼吸ができて、私は大きくえづきながら飲み込んでしまった水を吐き出した。生臭い水のにおいで吐き気が止まらず涙がにじむ。
プールで失敗したときのように鼻がつんとしている。耳の中がとぷんと波打ち、めまいがするほど気持ちが悪い。
「あっ……う、あ……」
大きく胸を上下させながら湖岸に仰向けになる。自分の身体がトドかセイウチになったかのように重かった。肩や髪が泥だらけになったが、それもどうでもいい。
「たま、ありが……と」
ようやく息が整ってきて、腰の巾着に触れながらお礼を言う。
(礼など……)
ばつの悪そうなたまの声。私はそれを不思議に思う。
確かにこういう状況になったのはたまのせいだけど、たまの声には申し訳なさというよりは、迷いだとか、自己嫌悪のような響きがあった。
その理由を聞こうと思ったとき、やや遠くの水面を滑る小舟の影が見えた。反射的に息を潜める。
草むらにうずくまりながら様子を伺うと、どうやら月花と男の乗った小舟のようだった。
魚たちはわりと離れたところに打ち上げてくれたらしい。
「……月花に、何があったんだろう」
髪から滴る水を絞って遠ざかる彼らを見つめる。
賢い少年だった。三人と過ごす日々は、彼らの意見に自分の意思をきちんと伝え、年若いながらもひとりの人間として自立していたように見えた。
けど今は違う。あれはほとんど服従する勢いだ。
あの男がイルカだと言えば、たとえカブトムシですらイルカだと答えるだろう。それもあくまで、本当はカブトムシだとわかった上で従うのではないか。
それは理性をきちんと持ち合わせた上での妄信だ。
(頭の回る人間ほど、いちど信じ込むと離れられぬものでは? 自分が心を預ける相手に認められることほど心地のよいものはない。自分の思考を放棄して唯々諾々と動くこともあるだろう)
そういうものかな。
私はちょっと思い返してみた。確かに学校の生徒会や会社の課でも「あの人にほめてほしい」と動いていた人たちはいた。
その気持ちはわからないではない。私だって尊敬する上司に数字が見やすいといわれたときは素直に嬉しかった。次はさらに工夫としようとも思ったものだ。
けれどそれは場合によっては危険なことだ。もしその上司が、実は裏で不正をしていて、幻滅したとする。私は次から書類に工夫をしなくなるだろう。あんな人のために業務の合間を縫って仕上げたなんてと、いやな気持ちになるだろう。
それはいけないと思うのだ。仕事に工夫をするのもがんばるのも、ぜんぶ自分のためであるべきではないか? 相手あっての努力の不思議な空々しさは、誰でも一度は感じたことがあると思う。
ぶるりと身体が勝手に震えた。私は意識を目の前の水面に戻す。
熱帯地域といえども、夜の冷えた湖の中をツアーさせられるとこたえる。
「ひ、ヒルダたちのとこに帰りたい……! たま、魚に助けてくれるように頼めたんでしょ? 私を助け合いの家まで飛ばしたりとかできないの?」
いつも好き勝手に人を転移させるのだ。こういうときくらい、有意義に使ってほしい。
(あいにく魔力は枯渇気味だ。先ほどだって鍋底にこびりついたスープをなめるようにして集めた魔力なんだぞ。無茶言うな)
ほんっと、肝心なときに使えないんだから!
※
夜中までかかって、何とかカムグエンの集落に戻ることができた。
湖岸をぐるりと、えんえん歩いてきたのだが、これがものすごく疲れた。
道なき道なのは知ってのとおりだが、胸のあたりまでの茂みを掻き分け、見えない足場を確かめながらの行程だった。
ぬかるみに滑ってしまえば湖に落ちてしまうし、岩や石などを踏んでも危険なので注意しながら進まなければならない。
舟着場に止められていたそまつな小舟を慣れない櫂でひたすら漕ぎ、なんとか助け合いの家に着いたときは、身も心もぼろぼろだった。
広間の囲炉裏には、白っぽくなった石炭があきらめ悪そうに燃えている。みんなござのようなものを敷いて雑魚寝をしていた。
部屋の隅にある物干しスペースに乾いた衣服がいくつかあったので、拝借することにした。だぼっとゆるゆるのポンチョみたいな上着とスカートのようなもの。べちゃべちゃの服を代わりに物干しにかけておく。朝になって乾いていれば着替えればいい。
乾いた清潔な衣服を着るだけで、ほっと一息だ。
ヒルダはどこだろうと見渡すが、石炭の消えかけているほの赤い光だけでは見つけることができない。
真っ暗な部屋に非常灯の光があるだけみたいな状況だ。私は思考を早々に放り投げ、手ごろな床に横になる。砂袋を詰めたように身体が重い。
まだ濡れている髪を、寝やすいようによけて丸くなる。目を閉じれば意識が泥のように沈んでいくのがわかった。いろいろなものが頭をよぎった。それはイメージでもあった。煌々と燃える石炭、洞窟に埋められた赤子、湖の底の骨、それから月花の狐面。その下にあるはずの緑の瞳……。
何かが振動するような衝撃に、私は鉛のような瞼を少しだけ開いた。
目の前をたくさんの足が行き交っている。不規則な踊りのようだなと思ったとき、不愉快な音が脳に届いた。
硬い植物どうしがぎゅっぎゅっと擦れあう音だ。らっきょを食べたときにも似た、ちょっと鳥肌の立つ感じ。
耐え切れず頭をもたげれば、みんなが慌しく動き回る、その足の振動が竹を束ねた床を揺らしている音だと気づく。内部が空洞だから、床を通して信じられないほど音が響いたのだろう。
「いや、何事?」
硬い竹の床で身を縮こませて寝たせいで、疲労がすごく残っている。くどいようだがアラサーだ。日付けが変わってから寝たり、油っぽいものを食べたりすると翌日しんどい。昔とはあらゆるところで変化を感じるのだ。
「ユカリコ! こっち」
まだちょっと湿っているごわごわの髪を、手ぐしで直しながら立ち上がったとき、入り口にヒルダが走りこんできた。そのまま私のところに来て手を取り舟へ引っ張られる。
「これ、何? なんかのお祭りとか」
「ユカリコのそういうほけほけしたところって、貴重よね」
ヒルダは足を止めてまじまじと私を見つめ、褒めたのかけなしたのかわからないことを言った。
ほけほけとは失礼な。これでもいろいろ考えているんだぞ。そう思ったが、まあいいやと開き直る。
「そうなの。貴重でしょ?」
そう言って微笑めば、ヒルダも仕方ないように笑った。それから再び私の手引っ張って舟へ飛び乗る。櫂をぐんぐん漕いで湖の中心へ向かう。
人々のざわめきがすごい。まわりを見るまでもなく、たくさんの舟が出ている。一様に同じ方向へ舟を進める様子は壮観で、まるで何かの儀式かと思ってしまう。
だがそれにしては人々の表情が硬い。
建物の合間を縫っていくと湖の中心に出た。そこはそれこそ広場のような空間になっていて、水上の交差点ともいえる。
すでに集まっていた、おびただしい数の舟の上には武装した男たちが居並んでいる。
広場の中心にぽつんと浮かぶ塔のような建物。その上に立つ壮年の男性が何事か叫んでいる。その声に呼応するように、集まった人たちが一斉に声を上げた。
まだ状況を把握できていない私の耳元でヒルダが囁いた。
「今朝がた、さいごの使者が来たの。カムグエンから私たちが出て行くか、さもなければ剣を取るか。二者択一を伝える白狐が」
戦いになるわ。
そう言うヒルダの言葉に、私はぽかんと口を開けた。
これが火星の月の石だよ、と手渡されたような、どうにも理解できないその塊を、私はただもてあました。
0
あなたにおすすめの小説
私が美女??美醜逆転世界に転移した私
鍋
恋愛
私の名前は如月美夕。
27才入浴剤のメーカーの商品開発室に勤める会社員。
私は都内で独り暮らし。
風邪を拗らせ自宅で寝ていたら異世界転移したらしい。
転移した世界は美醜逆転??
こんな地味な丸顔が絶世の美女。
私の好みど真ん中のイケメンが、醜男らしい。
このお話は転生した女性が優秀な宰相補佐官(醜男/イケメン)に囲い込まれるお話です。
※ゆるゆるな設定です
※ご都合主義
※感想欄はほとんど公開してます。
【完結】異世界に転移しましたら、四人の夫に溺愛されることになりました(笑)
かのん
恋愛
気が付けば、喧騒など全く聞こえない、鳥のさえずりが穏やかに聞こえる森にいました。
わぁ、こんな静かなところ初めて~なんて、のんびりしていたら、目の前に麗しの美形達が現れて・・・
これは、女性が少ない世界に転移した二十九歳独身女性が、あれよあれよという間に精霊の愛し子として囲われ、いつのまにか四人の男性と結婚し、あれよあれよという間に溺愛される物語。
あっさりめのお話です。それでもよろしければどうぞ!
本日だけ、二話更新。毎日朝10時に更新します。
完結しておりますので、安心してお読みください。
美醜逆転世界でお姫様は超絶美形な従者に目を付ける
朝比奈
恋愛
ある世界に『ティーラン』と言う、まだ、歴史の浅い小さな王国がありました。『ティーラン王国』には、王子様とお姫様がいました。
お姫様の名前はアリス・ラメ・ティーラン
絶世の美女を母に持つ、母親にの美しいお姫様でした。彼女は小国の姫でありながら多くの国の王子様や貴族様から求婚を受けていました。けれども、彼女は20歳になった今、婚約者もいない。浮いた話一つ無い、お姫様でした。
「ねぇ、ルイ。 私と駆け落ちしましょう?」
「えっ!? ええぇぇえええ!!!」
この話はそんなお姫様と従者である─ ルイ・ブリースの恋のお話。
黒騎士団の娼婦
イシュタル
恋愛
夫を亡くし、義弟に家から追い出された元男爵夫人・ヨシノ。
異邦から迷い込んだ彼女に残されたのは、幼い息子への想いと、泥にまみれた誇りだけだった。
頼るあてもなく辿り着いたのは──「気味が悪い」と忌まれる黒騎士団の屯所。
煤けた鎧、無骨な団長、そして人との距離を忘れた男たち。
誰も寄りつかぬ彼らに、ヨシノは微笑み、こう言った。
「部屋が汚すぎて眠れませんでした。私を雇ってください」
※本作はAIとの共同制作作品です。
※史実・実在団体・宗教などとは一切関係ありません。戦闘シーンがあります。
この世界、イケメンが迫害されてるってマジ!?〜アホの子による無自覚救済物語〜
具なっしー
恋愛
※この表紙は前世基準。本編では美醜逆転してます。AIです
転生先は──美醜逆転、男女比20:1の世界!?
肌は真っ白、顔のパーツは小さければ小さいほど美しい!?
その結果、地球基準の超絶イケメンたちは “醜男(キメオ)” と呼ばれ、迫害されていた。
そんな世界に爆誕したのは、脳みそふわふわアホの子・ミーミ。
前世で「喋らなければ可愛い」と言われ続けた彼女に同情した神様は、
「この子は救済が必要だ…!」と世界一の美少女に転生させてしまった。
「ひきわり納豆顔じゃん!これが美しいの??」
己の欲望のために押せ押せ行動するアホの子が、
結果的にイケメン達を救い、世界を変えていく──!
「すきーー♡結婚してください!私が幸せにしますぅ〜♡♡♡」
でも、気づけば彼らが全方向から迫ってくる逆ハーレム状態に……!
アホの子が無自覚に世界を救う、
価値観バグりまくりご都合主義100%ファンタジーラブコメ!
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
【完結】タジタジ騎士公爵様は妖精を溺愛する
雨香
恋愛
【完結済】美醜の感覚のズレた異世界に落ちたリリがスパダリイケメン達に溺愛されていく。
ヒーロー大好きな主人公と、どう受け止めていいかわからないヒーローのもだもだ話です。
「シェイド様、大好き!!」
「〜〜〜〜っっっ!!???」
逆ハーレム風の過保護な溺愛を楽しんで頂ければ。
【美醜逆転】ポジティブおばけヒナの勘違い家政婦生活(住み込み)
猫田
恋愛
『ここ、どこよ』
突然始まった宿なし、職なし、戸籍なし!?の異世界迷子生活!!
無いものじゃなく、有るものに目を向けるポジティブ地味子が選んだ生き方はーーーーまさかの、娼婦!?
ひょんなことから知り合ったハイスペお兄さんに狙いを定め……なんだかんだで最終的に、家政婦として(夜のお世話アリという名目で)、ちゃっかり住み込む事に成功☆
ヤル気があれば何でもできる!!を地で行く前向き女子と文句無しのハイスペ醜男(異世界基準)との、思い込み、勘違い山盛りの異文化交流が今、始まる……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる