醜く美しいものたちはただの女の傍でこそ憩う

ふぁんたず

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第七章 異世界であろうと、夢は見るようです

9.ネハの呪い

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 最後の夢を思い出す。

『終わらせてよ』

 搾り出すようなネハの声。







 ネハはゆっくりと衰弱していった。若いこともあり、祖母のプリャのようには進行は速くはなかったが、すでに身体を起こすこともできなくなっていた。

 ナラ・ガルさんは毎朝欠かさず水や粥を運び続けた。ネハの好む黄色い花も一緒に持ってくるようになり、しまいには手作りのぬいぐるみまで増えていった。

 プリャが教えたのだろう裁縫は、元来器用で辛抱強い性格のナラ・ガルさんにぴったり合ったのだろう。プロのような仕上がりである。モデルとなる動物などそういないから、羊や鳥など身近な生き物ばかりだが、じゅうぶん愛くるしい。

 ネハは決まって背中を向けていた。衰えていく自分を見られるのが嫌だった。そのかわりナラ・ガルさんが部屋を出ていった後で、そっと花びらに触れるときがある。ぬいぐるみを抱きしめるときがある。

 でも言葉はいまだ出てこない。

 だからネハは針を手に取った。
 プリャから教わった、家にだけ伝わる刺繍をひっそりと施し始めた。

 文様には意味がある。燕には自由と健康、スズランには平等と親愛など、その組み合わせ次第で込められる意味は多岐に渡る。

 ネハは真白な布を、寝台の下の奥で埃をかぶった小箱から取り出す。プリャが嫁入り道具に用意したもののひとつだ。私はネハの視点で刺繍がなされていくのをじっと見ていた。

 まるで下書きの線でもあるかのように、精確に糸は縫い込められていく。手は一度も迷うことなく、早送りの映像みたいに動いていく。

 ナラ・ガルさんが部屋に入りそうになるときは、寝台と敷布の隙間にあわてて詰め込む。それからいかにも寝ているのよというふうに欠け布を頭からかぶってごまかすのだ。

 白い布は少しずつ、けど確実に彩られていく。私は細やかに動くネハの指を見て、想いを編んでいるようだと思った。

 けれど完成する前に終わりが来た。

 プリャが死んだときに言っていたように、まずは嘘みたいに身体が軽くなった。ネハは自分がもうすっかり健康で、大好きだった丘の樹まで走っていけるとさえ思った。

 その数時間後にすべてが逆転する。全身をさいなむ激痛が走り、内臓をひとつひとつ、見えない大きな指に潰されているかのような感覚に襲われる。私もまたその痛みから逃れられずに、全身の毛穴から冷たい汗が吹き出るのを感じた。人生で感じたあらゆる痛みが吹き飛ぶくらい絶望的なものだった。

 ナラ・ガルさんが苦しげにそばに座っている。ネハはとうとう脳みそまで握りつぶされるような感覚を覚えながら、ひとつの邪悪な考えに支配された。

 きっと、と思う。

 きっと自分はこの男を愛していたのだ。まるで義務のようにそばにいるこの男、最後まで硝子玉のような視線しか向けない男を、愛して憎んだ。
 きつく頑なな態度をとり続けてきたのは、踏み込んできてほしい気持ちの裏返し。本当はもっと話をしたかった。一緒に羊を追い、花を摘み、手を繋ぎたかった。

 気持ちを伝えたいと、一瞬思った。でもネハは伝える言葉を持たなくて、そんな自分に嫌気が差しながら卑怯に走る。とっておきの呪いをかけた。

『終わらせてほしいの』

 悪魔のささやきだ。ナラ・ガルさんは遠い異国の言葉を聞いたように瞬いた。

『苦しいの、とても苦しい。どうせなら、あんたの手で楽にして』

 ナラ・ガルさんはようやくその言葉が意味するところを理解する。金色の瞳を見開いて、信じられないというように首を横に振った。

 いったい誰がそんなことをできるだろう。いつもとは違い、隠していない生きたその表情に、ネハは仄暗い愉悦を覚える。
 思えばいつも一方的に当り散らしてきたが、純粋な頼みごとなんかしなかった気がするとネハは思う。

『お願いだから。そしてあたしのことを忘れないで』

 あんたを愛したあたしのことを。愛したと言えないあたしのことを。

 ネハはナラ・ガルさんの手を取った。はじめて触れる肌。それを自分の首もとへ導いて、上から力を込めた。乾いた彼の指の感触に胸が熱くなる。そこでナラ・ガルさんは自分が何をさせられているか気づく。弾かれたようにネハの手を払いのける。怯えたように首を振って後ずさる。

 無言で見つめあう二人の間には、途方もない断絶だけがあった。

 ナラ・ガルさんは身体を震わせて部屋から駆け出した。それはネハが死にゆくことへの拒絶か、彼女の残酷な願いからの恐怖かはわからなかった。

 部屋に一人になったネハは目を閉じる。しびれるような痛みが正常な思考を奪っていく。頬を何かが伝って耳に入り込んで不愉快だが、その感覚もすぐに痛みにさらわれる。

 これで彼は、あたしを一生忘れない。







「あれは墓なんだ。俺が殺した許婚の」

 苦々しく吐き出された言葉は、十年以上彼の中で成長し続けた苦渋そのものだった。
 違うと私は思った。ナラ・ガルさんが殺したんじゃない。

「家族だった。嫌われていたけど、姉のようにも妹のようにも思えていた。笑っていてほしかったのに、結局のところ俺の存在が一番あいつを困らせていた」

 それも違う。ネハの夢を見た私は知っている。

「激痛に苦しみながら死ぬというときに俺に頼んだ。殺せと。でも俺は怖くて逃げた。だってあいつが死ねば、俺は本当にひとりになってしまう。そして逃げ出したあとに愕然としたんだ。大切な家族が苦しんでるってときに、俺は自分のことしか考えなかった。自分を哀れんだんだ。これ以上卑怯なことが、世界にあるか?」

 そして部屋に戻れば、すでにすべては終わっていたのだ。

 私はようやくいろいろなことに納得がいった。

 ククルージャで出会ったときから、朗らかな中に鉛のようなものを抱えていたナラ・ガルさん。楽しさを覚えると同時に恥じるようにうつむいていたナラ・ガルさん。

 大切な人の願いよりも、自分の心を優先したことへの罪悪感。それがどんなときでも彼の心に刺さったまま、抜けるどころか日に日に深く食い込んで、抜けないくさびのように苦しめている。

 そんなことない、と私はたまらず口走ってしまう。

「そんなことない、彼女は、」
「頼むから! 知ったような口をきくな……! あなたに何をするかわからない」

 引っぱたくような声。ナラ・ガルさんは頭を抱え込んで独白する。

「生きているべきじゃない。俺が、俺こそが息絶えるべきだったのに。ひとりでのうのうと――死を選ぶ勇気すらもてない木偶でく人形」

 悔恨と慟哭に濡れる瞳。未だかつてない厳しい声だった。彼がずっと飼い殺していた、ナラ・ガルさんの本心だ。それはどれだけつらいことだろう。どんな心であれ彼の一部なのに、それの首を絞め続けてきただなんて。

 ずっと後悔して、ずっと自分を罰している。ネハを見殺しにした自分を許せないから。

 ネハの呪いはいまだ解けずに――。ネハ、と呼びかける。あなたはこれで満足なの。憎むほど好きだったナラ・ガルさんをこんなふうに苦しませ続けることが?

 そう尋ねれば、ネハが答えを返すような気がした。きっと唇を尖らせて、ばつが悪そうに眉を寄せて、聞こえないくらいの声で呟く。違うって囁く。夢で私が彼女の感情の中に座っていたように、今は私の中でネハがつんと澄ましている気がしている。不思議なくらいすんなりと、ネハがそう言うだろうと思った。

 ネハは望んでいないのだ。ナラ・ガルさんがこんなふうに自分を罰しながら生きることなんて。

 じゃあいったい、と私は焦れったくなる。

 いったいどうしてこうなった。どこでこじれた。膝を突き合わせて二人で話をしなさいと説教してやりたい。

「――もう、やっかいすぎる! 暴露してやる。ふたりとも、私を恨むなら恨めばいい!」

 私は叫んだ。上を向いて大きく息を吸う。まったく、言葉足らずのすれ違いもここまで行くと犯罪なみだ!

 ネハさんの夢のこと、彼女の気持ちの移り変わりのこと、私が夢を通して知ったことを、なにもかもナラ・ガルさんに話してやる。

 そう決意すれば、私の中のネハが慌てたように怒ったように目を吊り上げた。余計なことするんじゃないわよと、あんたには関係ないんだから、口を出すんじゃないとまくし立てる。

 私はぴしゃりと言い返す。ごちゃごちゃうるさい、ネハが意地を張ったのが始まりだし、惚れた男のためなんだから黙って聞いてなさいと言えば、悔しそうしながらもに黙るに違いない。

 私は勢いよく彼を見上げる。夕暮れの光のなかでナラ・ガルさんの金色の瞳が揺らめいて、怯えたように一歩後ずさった。

「聞いて、ナラ・ガルさん。私はずっと夢を見ていて」

 ナラ・ガルさんは突然のこの場にふさわしくない言葉に瞬いた。ゆめ、と口を動かす。

「あまりにも突拍子がないから、信じられないかもしれないけど。それはネハさんの記憶なの」
「ネハの?」

 ゆっくりと見開かれる瞳。じっと見つめながらうなずいて、どう伝えればいいかなと俯く。足元で風に揺れる草を見ながら、最初から順番に経験したままを話そうと顔を上げると、そこにナラ・ガルさんはいなかった。

 もう一度言う。ナラ・ガルさんはいなかった。

 は? と呆然として瞬く。それからきょろきょろすると、私の背後、草原を駆け登っていく彼の背中に気づく。どゆこと? とぽかんとしている間にも、みるみる小さくなっていく姿。

(縁子。あの男は逃げたんだぞ。放っておくのか?)

 相変わらず電波の悪いラジオみたいにがざがざのたまの声。魔力をすり減らすだろうに、たまが振り絞って伝えてくれて、ようやく理解する。

 逃げた。どうして? 

 聞きたくないから、知りたくないから。

 ネハを見殺しにしたと――自分が殺したのだと自分で自分を追い込んで、長い月日が経ったいまでもそれに苛まれ。

 そして今もまた、目の前の私にすら向き合えないまま。

「……こっ、子どもかー!」

 私は彼の繊細すぎる心根に思わず叫んだ。そして目を吊り上げて遠ざかる背中を見据える。

 逃がさない。だって私は覚悟を決めたのだ。この世界で関わった彼らととことんまで向き合うって。

「こちとら失うものなんてほとんどないのよ。観念しなさい、ナラ・ガルさん!」

 そして私も駆け出した。

 いい年して大草原で鬼ごっこに興じようとは、本当に人生って、思いもかけないことばかり!




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