君もいた春に

織子

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命の落とし物

人生を渡す

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 「実は、僕の病院から幸のアパートが見えるんだ。よく屋上で寂しそうに黄昏てたでしょ?病院からいつも見てた」

 そう言った後に秀平は「あの日は本当にたまたま、君に近く出会いたくなったから会いに行ったんだ。それがまさかこんな風になるとは思わなかったよ」と、本当に悲しそうな顔で言った。

 あの日、たまたま外出許可が下りた秀平は本当にたまたま、いつも病室の窓から見かける私になぜか近く出会いたくなったからあのアパートの屋上に来てみたら、これまたたまたま私がフェンスの外に出ていたので咄嗟に襟を掴んで止めたのだと言う。

 「だって目の前で死なれたら後味悪すぎるでしょ」

 先ほどのしおらしさなんて感じさせないほどあっさりとそう言い切った秀平は呑気に手を挙げて店員に新しくホットミルクを注文していた。

 「前から私のこと知られてたなんて気恥ずかしいね」
 「幸はわざわざ毎朝同じ車両に乗ってる人を意識したりするの?」
 
私は話の話の要領を掴めずに「へ?」と間抜けな声を出してしまった。

 「僕にとって幸は毎日変わらない景色の一部だってこと」
 「ああ、そういうことね。まあ確かにそうだよね」
 「なに、気にかけてもらえてうれしいとか思ってるわけ」
 「別にそういうのじゃないけど、ううん、いやそうだったのかも。ごめん」
 「なんで謝るの?」
 「ええ?それは、何か勘違いしてたみたいだから」

 謝罪の理由を問われて、その答えに自信が持てず尻すぼみな返事をする私をしばらく秀平は何も言わずに眺めていたところでホットミルクが届いた。秀平はホットミルクには手を付けず、その後もしばらく私を見つめた後、静かに口を開いた。

 「そうか、幸は今までずっとそうやって生きてきたんだね」

 気まずくて目線を下げていた私が、その静かな声に顔を上に向けると、可哀想なものを見るような目とは違った、本当に可哀想な目をしていた。

 「なんでそんな目で私を見るの」
 「理由はわからないし、きっと幸も無意識なんだろうけど、幸があまりにも自分に自信がないというか、自分の意思がないというか。そうやってずっと人生を過ごしてきたんだと思うと、幸も幸の人生も本当に心の底から可哀想。ねえ、そんなに人生が退屈なの?」

 秀平のその問いかけに私はむすっとした顔で頷いた。実際そうなのだけれど、真実を直に突かれると、人間は誰しも気分がよろしくない。私が頷いたのを確認した秀平は、何か心を決めたかのような表情を一瞬だけ見せ、また口を開いた。

 「そんなに退屈なら、僕の中で生きればいい」

 その言葉がなにを意味するかくらいは、これまでの会話からもう十分に理解できた。しかしその選択を迫られると途端に威勢のなくなった私の姿を見て「なんだ、そんなものか。君の死ぬ覚悟は」と、低く怒ったような声で言い放った秀平は、すくっと立ち上がり、「次死にたくなるようなことがあったら連絡して。それまでは真剣に生きていたほうがいい。生きれるなら」と、いう言葉と、まだ湯気が出ている飲みかけのホットミルクを残し、去って行った。
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