白の無才

ユウキ ヨルカ

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第64話「夏休みについて(30)」

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この教室内にいる学生の中で、真柳教授の口から発せられた言葉に驚かずにいられた者は1人としていなかった。

真柳教授が紹介した『バーバラ・ブラハム』という女性。
この女性を俺はてっきりどこかの国の女性大統領か、有名な作家なのだとばかり思っていた。

どちらにせよ真柳教授が取り上げて紹介するような人物なのだから、きっと素晴らしい功績を後世に残した人物に違いない。


おそらく教室内の学生のほとんども、俺と同じような考えを持っていたのだろう。

その証拠が今のこの表情である。


まさか、そのバーバラ・ブラハムという女性が国のリーダー的存在でもなく、有名な作家でもなく、ましてや偉人でもない元死刑囚だというのだから、驚いて当然だろう。


これは完全なる俺個人の考えだが、『死刑囚』という言葉を耳にした時、まず最初に多くの人が連想するワードは『悪人』だと思う。

さらに言えば、『悪人』の中でも決して許されない罪を犯してしまった『悪人』。

すなわち、命をもって償う以外に罪を晴らす方法が残されていないほどの『極悪人』というイメージがある。


実際に死刑囚にあったことはないため事実は分からないが、少なくとも善良な人間ではないように思える。


そんな死刑囚……今はすでに処刑が実行されているため元死刑囚であったバーバラ・ブラハムという女性が残した言葉が、この授業と一体どんな関係があるのか。



教壇に立つ真柳教授は、俺たちがこういった反応をすることがあらかじめ分かっていたかのように、「あははっ!」と笑うと、俺たちの疑問に答えるかのように口を開き、


「それじゃあまず、バーバラさんがどういう人だったのかについて軽く説明しよう」


そう言って、元死刑囚、バーバラ・ブラハムについて語り出した。


「バーバラさんは1923年、アメリカのカリフォルニア州で生まれました。彼女が2歳の時、当時まだ10代だった彼女のお母さんは、幼いバーバラさんを残して感化院に送られてしまいます。……その後、バーバラさんは見知らぬ人たちや祖父母を含めた大家族の中で育つことになり、わずかな教育した受けることが出来ない状態でした」


真柳教授が語り始めた途端、教室内の空気がガラッと変わり、全員が教授の話に真剣に耳を傾けている。


「そうして10代になったバーバラさんは浮浪の罪で逮捕され、自分のお母さんがかつて収容されていたのと同じ感化院へ送られることになります。……1939年に感化院から釈放されたバーバラさんは、新しい人生を生きる為に努力をしました。愛する人と結婚したり、ビジネス学校へ入学したり、子供を授かったり……」

俺は、バーバラ・ブラハムと言う女性の半生を映像としてイメージしながら話を聞いていく。

周りより少し不幸で、それでも懸命に努力して幸せをつかみ取ろうとした彼女が、どうして死刑囚になってしまったのか。

そんな疑問を解消するかのように、真柳教授が口も開く。


「……しかし、そんな幸せな日々は長くは続きませんでした。その後バーバラさんは離婚と結婚を繰り返し、精神的ストレスから売春に手を染めるようになりました。その過程で、彼女は違法薬物やギャンブルの罪を重ねるようになり、彼女の周りには重罪人や無法者の知り合いが多くなっていきました」

淡々と話を進める真柳教授の言葉が、少しだけ寂しそうに聞こえた。

「そして、バーバラさんはそこでヘンリーという犯罪者と知り合い、彼と三度目の結婚をすることになります。ヘンリーを通じて、バーバラさんは彼の犯罪仲間とも知り合いました。そうして、彼の犯罪仲間はバーバラさんにとある話を持ち込みます。……それは、カリフォルニア州で大金を貯め込んでいる男の家に押し入り、大金を盗み出そうという話でした。バーバラさんはその話に乗ってしまい、1953年3月、ついに計画を実行することになりました」

クライマックスが近いと感じた俺たちは、息を呑んで真柳教授の話に耳を傾ける。

「バーバラさんたちは男の家に押し入ると、銃を突きつけて『金を出せ』と脅します。しかし、男性がその要求はねつけたために、バーバラさんはその男性の頭を銃で殴りつけ、殺害してしまいます。……しかしこれらの企ては全て無益な骨折りでした。男性の家で金目のものは一切見つけられず、彼女たちは結局手ぶらで戻ることになりました。皮肉な話ですが実はこの時、男性の遺体の近くにあったクローゼット内に15000ドル相当の宝石などがしまいこまれていたんです。彼女らはこのことを逮捕されてから知ることとなりました」

続けて真柳教授が口を開く。

「そうして、警察に逮捕された彼女らは法廷で強盗罪及び殺人罪で死刑判決を宣告されました。1955年、バーバラさんは刑が執行される直前に『善良な人たちは、常に正しいのですとも』という言葉を残し、ガス室で処刑されました。…………これが、バーバラ・ブラハムという女性が生きた人生の話です」


真柳教授がバーバラ・ブラハムについて話し終えると、教室内には何とも言えない雰囲気が漂った。

決して明るい話とは言えず、ましてやただの学生である俺たちとはあまりにも違いすぎる人生を歩んだ女性の話だ。

彼女が残したと言われる言葉が、今の俺たちに一体何を与えるのか。


俺は俯き、机の上についた僅かな傷跡をジッと眺めながらそんなことを考えていると、真柳教授がクスクスと笑いながら口を開いた。


「みんなそんなに暗くならないで。本題はこれからだから」

教授の声で俺は顔を上げる。

「今日、僕がみんなに伝えたいのは、そんな彼女が生前に残した、とある言葉についてなんだよ」

「教授。その言葉ならさっきの話で出てませんでしたか? ……えっと、確か『善良な人たちはー』……ってやつですよね?」


教室のど真ん中に座る茶髪の先輩が、真柳教授に疑問を投げかける。

その疑問は俺も持っていたものだ。

てっきり、刑が執行される前に言ったあの言葉が今日の本題なのかと思っていた。


真柳教授は茶髪の先輩の疑問に答えるように口を開く。


「まぁ、たしかに彼女の最期の言葉も有名なんだけど、今日僕がみんなに伝えたいのは彼女が生前に残したもう1つの言葉なんだ」


もう1つの言葉……

真柳教授は俺たちの方に向けてニコリと微笑むと、バーバラ・ブラハムが残したと言われる、そのもう1つの言葉を声に出した。


「 『大抵の人は本当に何が欲しいのか、心の中でわかっています。人生の目標を教えてくれるのは直感だけ。ただ、それに耳を傾けない人が多すぎるのです』……これが、僕が今日の授業でみんなに伝えたかった言葉です」


その言葉を聞いて、大学生たちが「おぉー」と感心する中、俺だけはそれとは違った思いを持っていた。


『大抵の人は本当に何が欲しいのか、心の中で分かっている』


それを聞いてようやく、真柳教授がなぜ俺をこの講義に誘ったのかを理解した。


教室の中で唯一、他の学生とは違う表情をする俺に対し、真柳教授は一瞬だけ優しさに溢れた瞳をして微笑みかけたように見えた。

そして、真柳教授は再び話を続ける。


「今の時代、やらなくちゃいけない事があまりにも多すぎると、みんなは思わないかな?
僕は思う。仕事だったり、勉強だったり、家事やバイトだったり……。そもそも、『やりたい事』と『やらなくちゃいけない事』は全く別のものなんだ。『これをやりたいけど、その前にこれをやらなくちゃ』。大人になるにつれて、そういったことはどんどんと増えていきます。……みんな、思い返してみてごらん? みんながまだ小さかった子供の頃を」


真柳教授の言葉に応えるように、俺は目を閉じて、自分の幼い頃の記憶を呼び起こす。


子供の頃……

俺がまだ『才能』に執着する前の記憶……


「おそらく、みんながまだ小さい子供の頃は、世の中の理屈だとか義務だとかルールだとか、そんなことに縛られずに毎日を楽しく過ごしていたんじゃないかな?時にはワガママを言ってみたり、駄々をこねてみたり……多少周りの人に迷惑をかけながらも、自分の心に正直で、世界が色鮮やかに見えていたんじゃないかな?」

真柳教授は優しく問いかける。


「でも、大人になるにつれて感性よりも理性が強くなっていって、僕たちは心の声を次第に無視するようになっていってしまうんだよね。どんなに疲れていても、具合が悪くても、仕事だからやらなくちゃいけない。……そうやって心を声を無視し続けることで、人は鬱になってしまう。……よく、『頭』が王様で『心』が付き人なんて言う人もいるけど、これって逆だよね。本当は『心』が王様で、『頭』が付き人。理性で物事を考えるのはもちろん大切だよ。でも、時には自分の心に正直にならないと、僕たちの世界は色の無い、モノクロ写真のようになってしまう」

そして、真柳教授は言葉を続ける。


「心はね、自分の全てを知っているんだ。何を楽しいと感じるのか、何を苦しいと感じるのか、何が好きで何が嫌いなのか、そして……自分が今、本当は何を欲しているのか——」


俺が本当に欲しているもの……


「みんなにはまだまだたくさんの可能性が秘められていて、これから先の人生を鮮やかに彩ることができる。だから、どうか自分の人生を後悔しないように、心の声に耳を傾けてあげてください。……これにて、僕の授業を終わりにしたいと思います。今日はみんな、夏休みなのに来てくれてありがとう!明日からは貴重な夏休み、後悔がないように過ごしてね」

話を終えた真柳教授に対して、教室内の学生たちから盛大な拍手が送られた。

俺も教壇に立って照れ臭そうに笑みを浮かべる真柳教授に対し、同じように拍手を送った。

***

こうして、約60分に渡る真柳教授の講義は幕を閉じたのだった——。
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