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1.離縁することになったので
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「離縁することになった」
「そうですか、わかりました」
「……いや、お前。もっと言う事があるだろ」
久しぶりに、部屋に招いたライオネル・ウィノグラードは、夫のグレンに言われた言葉を大人しく飲み込んだようだった。
その事に、思わずグレンは頭を抱えてしまう。
「……すみません、あの、……」
「ああ、いい。いや、俺が悪い。順を追って説明するからわからない事があったら言ってくれ」
「はい」
シャンパンゴールドの短い髪をガリガリとかきながら、グレンは大きなため息をついた。6歳年下の伴侶は、グレンがついたため息の意味がわからないらしい。
(コイツ……やっぱりちょっとボケてるよな)
伴侶を迎え入れる、と父親に言われた時、それをグレンは断れなかった。
この国随一の侯爵家に生まれた以上、次男とは言え、その責任は重い。兄と、姉二人も、皆、順に家に必要な相手との婚姻を結んでいる。
ちょうどその頃、騎士団に名を連ねていて、王太子の親衛隊をしていたグレンからすれば、ただの『順番』が来ただけの事だった。兄姉ともに誰も結婚に異を唱えなかったし、皆それなりの結婚生活を送っている。結婚して、子を為して、この家を大きくする。それが貴族の子として生まれた使命だった。
『ほら、お前のお相手だ』
『……お。…………いや、これ、男じゃん』
『その通り、お前は男と結婚するんだ』
『……はぁ?』
貴族の婚姻は直系男子が後を継ぐのが当たり前だ。勿論、長男に何かあった時に、次男が継ぐことはある。けれどこの家は幸いにも兄は健全で健康で、おそらくこのまま問題なく後を継ぐことになる。問題はその兄の後で、この家を誰が継いでいくかだ。
『お前もよく知る通り、お前の兄のドミニクにはもう男が4人も生まれている。跡継ぎには困っていない』
『いや、だとして、俺が男と結婚する理由が……』
『跡目争いに発展して家が衰退することを避けたいのだ』
父親の代は、跡目争いで親族同士、醜い争いがあったのだと聞いている。グレンが幼い頃に大体は解決したとの事だが、いまだにグレンが父方の親戚に会った事がないのはそう言う事だ。いや、それはそうとして、グレンは兄のドミニクとは仲が良い。跡目争いにはならないだろう。
『念には念を入れて、だ。それに、この間クロムウェル卿と話してな。良い取引が出来そうなのだ』
『……妹たちは?』
百歩譲って、男がこの家に縁組するというのなら、相手は妹二人のどちらかでも良いはずだった。
『お前の妹たちにはすでに別の縁組を考えていて、今、相手としてはお前が適任だ』
『……相手が可哀想だろ』
釣書に挟まれた姿絵からは、男と言うには、グレンの側にいる男たちとは違って、綺麗な顔立ちの男が描かれている。チョコレートのようなブラウンの髪に、ボルドーの瞳。唇の端にあるほくろが妙に色気を感じさせる。騎士団の男たちの中にはいない男だ。
『ああ、相手は納得しているそうだから大丈夫だ』
そんな経緯で、四年前に嫁いで来たライオネルは大人しい性格の男だった。
父親に与えられた屋敷でふたりで暮らす事になったが、男同士と言う事もあって初夜は同じベッドで眠るだけで終わった。当時グレンは二十二歳で、ライオネルは十六歳だった。六歳も年下の、初対面の男に食指が動くわけもなかった。そもそも見知らぬ男で、騎士団にいないような男相手に何を話せば良いかもわからなかった。
気まずい朝を迎えてから、四年。ずっと気まずい。
これが女性相手だったならと思わない事もなかったが、女性が相手で妻だと言われてもそれもまた困っただろう。同僚の様子を見ていれば、やれ祝い事だ、やれ贈り物だ、約束があるだのと大変そうだった。そういう意味では、ライオネルの相手は楽だ。時間が合えば食事を共にするくらいで、後は別行動ばかりだ。家での仕事は家主がやる仕事も含めて、ライオネルに任せていた。
というのも、そのような書類仕事は得意だと言ったので、任せてみたら、執事に大喜びされたのだ。
書類仕事など向いてないことだけはわかるグレンに代わって、殆どすべてをライオネルが代行してくれている。季節の挨拶の手紙も、丁寧な内容と筆跡で、相手方からも好評だ。必要があれば夜会へ連れて行くことはあったが、基本的にパートナーが必須とならなければ連れて行くことはなかったし、ライオネルもそういった交流は苦手そうだった。だから本当に、ふたりきりで過ごす事は少なかった。
時々、仕事をしてくれている御礼にと菓子を城下町で買って贈ることもあったが、それも喜ばれていたかどうかもわからない。
いつも物静かな声で、少しだけ口端をあげて「ありがとうございます」と言うだけだ。
一緒に寝たのも最初の日だけで、あとはお互い私室にあるベッドを使って眠る。
世で言う夫婦とは、随分とかけ離れた形だったが、それでも、多少気まずいのを除けば、おおよそこの結婚生活にグレンは満足していた。問題となる事はほぼ無かった。
妙に気を遣う事も無い。ライオネルが何かを欲しがることは無かったし、何かを求める事も無かった。
都合の良い存在だったのだ。
だから違和感に気がつかなかった。
ある日、王太子殿下に同席しろと呼ばれた席に隣国の皇女殿下がいた。
セシリア・フロイデンタール。武力が自慢の国の皇女で、次の代の女帝になるのだと言われている。良い事も悪い事も、物事を正しく見ている商才のある女性だと聞いている。
『……御前失礼いたします。スチュアート卿が第二子、グレン・ウィノグラードです』
『ああ、いい男じゃないか。その男で良い』
パチン、と扇子を畳む音がして、訝し気に顔をあげてしまった。不敬だが、言われている言葉が自分にぶつけられているのだとしたら違和感がある。
『頭の回る男だし、彼は適任ですよ。セシリア様』
普段使えている王太子の言う言葉の意味もわからない。
『……あの……?』
『ああ、お前に頼み事がある。グレン』
にこり、と笑った二人の笑顔は良くない種類のものだとすぐに察せられたが、逃げられるわけもない。
事の発端は西の国で起こった争い事だった。
当初は、ただの領地間での小競り合いかと見られていた争い事だったが、調査を進めるうちにそれが反体制派によるものだったという事がわかって来たと言う。
『我が国は、私が女帝となり治める治世に満足できないと宣う阿呆が多いのだ。つまり私の身の回りがあぶない』
『……なるほど』
『それで我が国と同盟を結びたいと相談を受けたのだ。反体制派の調査を進めるうちに、それなりの勢力を持っていくつかの国に潜伏しているらしいことがわかってな。それでお前を推薦した』
『俺を』
『素手でも強いだろ、お前』
にこにこと笑って言う我が国の王太子・アルベルトは、とても悪い顔をしている。親衛隊として側に仕えて、数年。随分と気安い関係になったものだ。
『我が王家はすでに皆、婚約者が決まっている。それでお前なら、と思ったわけだ』
『…………私も、伴侶がおりますが』
『相手は男だっただろう。どうだ? 目の前にいる美女と婚約しないか? お前の伴侶には、俺が適切な次の相手を見つけてやろう』
常識的に考えれば伴侶のいる相手に、このような事を持ちかける事は言語道断だ。
『……はぁ、申し訳ないな。この国で腕に自信があって、私の伴侶になり得るものを、と聞いたのだが、既婚者を持ち出してくるとは思わなくてな。お前が、嫌なら断って良い。他の相手を出させよう。それが筋というものだ』
セシリアはため息をつきながら、向かい合うアルベルトの足を蹴った。
『ただ強いだけではダメなんだ。それなりの地位と、女帝の側で武器を持っていなくとも守れる相手で、それから口が堅くて、強欲な男がいい』
アルベルトが説明する条件は、やや不可解だった。
『何だそれは』
『実はセシリアには内密に婚姻関係を結んでいる男がいてな。いわばそのダミーの婚姻なんだ。相手は今のところ身分が低くてな、まぁそのうち身分が上がる予定なので、結婚できるほどになれば婚姻は解消になる。その時はお前には婚姻解消の代償に、望むものをある程度、何でも進呈しよう』
『”何でも”』
それはまるで夢のような提案だった。
数年か、はたまた数十年かはわからないが、反体制派から皇女を守りつつ、婚姻関係を装うことが出来れば何でも手に入るのだと言う。
『悪くない話だろう? グレン』
スチュアート侯爵家としては、この上ない名誉だ。どう考えても、ライオネルとの婚姻関係を破棄したとしてもお釣りが来るほど条件が良い。
それなりにリスクはあるだろうが、それでも、得られるものは今後を見据えれば大きすぎるくらいだ。そもそも何かを得られると言う事以上に、王家に貸しができることになる。それも、我が国だけではなく、大国である隣国に対しても。
『…………一度、伴侶に話をします。父にも相談しますが、謹んで拝命します、王太子殿下、皇女殿下』
恭しく、手を胸に当てて、頭を下げる。この国での最上位の挨拶の形式だ。
『伴侶殿にはくれぐれも丁寧に説明をして欲しい。欲しがるものならこちらもある程度のものなら用意しよう』
『ええ、ですが、それはさすがに私が用意しますよ』
『……それもそうか。まぁ、何かあれば言え』
離縁を申し出た経緯はこんなところだ。
どう考えてもライオネルと離縁したほうが、得になる。元来、スチュアート侯爵家は、欲しいものは何でも手に入れてきた強欲の一家だ。
生来家族の誰もが『欲しい』と口にしたものを諦めない。手に入れる為なら努力をするし、策を練る。何かを手に入れたいと口にする事を恥じないし、手に入れたいと口にした以上は、それを諦めることを良しとしない、そういった家系だった。グレン自身も沢山のものを手に入れてきた。
自分で選ばないで手にしたものは、ライオネルくらいのものだ。それ以外は大抵自分で選んで手に入れてきた。
(だから扱いがわからないのかもしれない)
自分を支える執事も、召使も、基本的にはグレンが目を通して選んできた人間ばかりだ。だからこそ納得のいく仕事をして貰えている。
ライオネルだけが異質なのだ。父親に与えられた伴侶。グレンが欲しいと思った相手ではない。けれどスチュアート侯爵家には必要だった相手だ。婚姻相手は親の選ぶものだと思っていたから、自分で選ぶと言う事はしなかったが、自分で選ぶならおそらくはライオネルは選ばなかっただろう。選ぶとすれば男でも、女でも、もっと意志の強い、自分で何もかも選び取るような相手を選んでいた。
「……と言うわけで、まぁ、詳細は話せないが、俺は隣国の皇女殿下に婿入りする」
「なるほど」
「…………お前は、俺と離縁することになる」
「はい」
普通の相手なら怒り狂うところだろう。
普通は、四年も続いた婚姻関係を破談にするなどと言われれば、腹が立つはずだ。そもそも、四年も婚姻関係を続けてしまえば、次の婚姻がむずかしい。
アルベルトが手配すると言っていたが、それでもなかなか見つからないはずだ。スチュアート侯爵家以上の家はそれほどないし、上級貴族で二十歳のライオネルを引き取ろうと言う家があるだろうか。女の代わりとして嫁いだライオネルを、新たに男として迎え入れる家は少ない気がする。それとも年老いた貴族に娶られて、慰みものにされるのか。
(いや、そんな事はさせない)
「俺と離縁した後の、お前の再婚相手は王太子殿下と、俺が探すから心配するな」
「はい」
表情を見ても、落ち込んでいるのか、悲しんでいるのか、腹が立っているのかもわからない。真摯に話を聴く姿勢は正しいが、今ここでグレンが求めている態度ではない。てっきり怒鳴られるか、殴られるかされるかと思っていたのだ。けれどまぁ、そんなことをする相手でもない。
「……それで、さすがに俺も、お前に申し訳がないと思っている。一度は婚姻関係を結んで、もう四年も経つわけだし、それで離縁となるとお前の立場も良くない。相手は世話をするつもりではいるが、それでも足りないくらいだろう。だから、お前の欲しいものがあるなら、何でも用意しよう」
たとえ相手が悲しんでいなくとも、腹が立っていても、決まった事実は曲げられない。
謝罪しろというのならいくらでもするし、要求があるのならある程度のことまでは吞むつもりでいた。今まで何かをライオネルに要求された事はないが、こういえばさすがに何か欲しい物を言うだろう。嗜好品を欲しがりそうにはないが、服、宝飾品、金、その他何だって用意をする準備はあった。
目の前に座るライオネルの姿をじっと見据える。
チョコレートの色のブラウンの髪は、ゆるくウェーブがかかっていて、首筋を隠している。口元を覆っている指先は、男にしては細くて、白い。そもそもが、線の細い男だ。戦場になどはとてもじゃないが連れて行けない。学校に通っていて、頭は良いと聞いていたが武芸はあまりしたことが無さそうだ。馬には乗れると言っていたが、一度も乗っているところを見たことが無い。
何度か口を開いては、閉じてを繰り返していることに気が付いて、ホッとする。何か言いたい事があるに違いない。
「ライオネル、遠慮はするな。お前は本来経験する筈の無い、酷い事をされているのだから、望むことは何でも要求する権利がある」
要求されることが何であれ、要求を叶えてやって、それで心置きなく婚姻関係を解消する。それから隣国へ行く準備をしなければならない。隣国は冬の時期の長い国だと聞くので、寒さ対策も必要だろう。素手で皇女を護れるようにと言われていたので、改めて鍛えなおさなければいけない。最近は武器を使用しての訓練ばかりだった。
「あの……」
「ああ」
ようやくライオネルが決意をしたのか顔をあげた。
「……あの、いらないです」
「……ん?」
「ええと、あの、欲しい物が無いので」
「そうですか、わかりました」
「……いや、お前。もっと言う事があるだろ」
久しぶりに、部屋に招いたライオネル・ウィノグラードは、夫のグレンに言われた言葉を大人しく飲み込んだようだった。
その事に、思わずグレンは頭を抱えてしまう。
「……すみません、あの、……」
「ああ、いい。いや、俺が悪い。順を追って説明するからわからない事があったら言ってくれ」
「はい」
シャンパンゴールドの短い髪をガリガリとかきながら、グレンは大きなため息をついた。6歳年下の伴侶は、グレンがついたため息の意味がわからないらしい。
(コイツ……やっぱりちょっとボケてるよな)
伴侶を迎え入れる、と父親に言われた時、それをグレンは断れなかった。
この国随一の侯爵家に生まれた以上、次男とは言え、その責任は重い。兄と、姉二人も、皆、順に家に必要な相手との婚姻を結んでいる。
ちょうどその頃、騎士団に名を連ねていて、王太子の親衛隊をしていたグレンからすれば、ただの『順番』が来ただけの事だった。兄姉ともに誰も結婚に異を唱えなかったし、皆それなりの結婚生活を送っている。結婚して、子を為して、この家を大きくする。それが貴族の子として生まれた使命だった。
『ほら、お前のお相手だ』
『……お。…………いや、これ、男じゃん』
『その通り、お前は男と結婚するんだ』
『……はぁ?』
貴族の婚姻は直系男子が後を継ぐのが当たり前だ。勿論、長男に何かあった時に、次男が継ぐことはある。けれどこの家は幸いにも兄は健全で健康で、おそらくこのまま問題なく後を継ぐことになる。問題はその兄の後で、この家を誰が継いでいくかだ。
『お前もよく知る通り、お前の兄のドミニクにはもう男が4人も生まれている。跡継ぎには困っていない』
『いや、だとして、俺が男と結婚する理由が……』
『跡目争いに発展して家が衰退することを避けたいのだ』
父親の代は、跡目争いで親族同士、醜い争いがあったのだと聞いている。グレンが幼い頃に大体は解決したとの事だが、いまだにグレンが父方の親戚に会った事がないのはそう言う事だ。いや、それはそうとして、グレンは兄のドミニクとは仲が良い。跡目争いにはならないだろう。
『念には念を入れて、だ。それに、この間クロムウェル卿と話してな。良い取引が出来そうなのだ』
『……妹たちは?』
百歩譲って、男がこの家に縁組するというのなら、相手は妹二人のどちらかでも良いはずだった。
『お前の妹たちにはすでに別の縁組を考えていて、今、相手としてはお前が適任だ』
『……相手が可哀想だろ』
釣書に挟まれた姿絵からは、男と言うには、グレンの側にいる男たちとは違って、綺麗な顔立ちの男が描かれている。チョコレートのようなブラウンの髪に、ボルドーの瞳。唇の端にあるほくろが妙に色気を感じさせる。騎士団の男たちの中にはいない男だ。
『ああ、相手は納得しているそうだから大丈夫だ』
そんな経緯で、四年前に嫁いで来たライオネルは大人しい性格の男だった。
父親に与えられた屋敷でふたりで暮らす事になったが、男同士と言う事もあって初夜は同じベッドで眠るだけで終わった。当時グレンは二十二歳で、ライオネルは十六歳だった。六歳も年下の、初対面の男に食指が動くわけもなかった。そもそも見知らぬ男で、騎士団にいないような男相手に何を話せば良いかもわからなかった。
気まずい朝を迎えてから、四年。ずっと気まずい。
これが女性相手だったならと思わない事もなかったが、女性が相手で妻だと言われてもそれもまた困っただろう。同僚の様子を見ていれば、やれ祝い事だ、やれ贈り物だ、約束があるだのと大変そうだった。そういう意味では、ライオネルの相手は楽だ。時間が合えば食事を共にするくらいで、後は別行動ばかりだ。家での仕事は家主がやる仕事も含めて、ライオネルに任せていた。
というのも、そのような書類仕事は得意だと言ったので、任せてみたら、執事に大喜びされたのだ。
書類仕事など向いてないことだけはわかるグレンに代わって、殆どすべてをライオネルが代行してくれている。季節の挨拶の手紙も、丁寧な内容と筆跡で、相手方からも好評だ。必要があれば夜会へ連れて行くことはあったが、基本的にパートナーが必須とならなければ連れて行くことはなかったし、ライオネルもそういった交流は苦手そうだった。だから本当に、ふたりきりで過ごす事は少なかった。
時々、仕事をしてくれている御礼にと菓子を城下町で買って贈ることもあったが、それも喜ばれていたかどうかもわからない。
いつも物静かな声で、少しだけ口端をあげて「ありがとうございます」と言うだけだ。
一緒に寝たのも最初の日だけで、あとはお互い私室にあるベッドを使って眠る。
世で言う夫婦とは、随分とかけ離れた形だったが、それでも、多少気まずいのを除けば、おおよそこの結婚生活にグレンは満足していた。問題となる事はほぼ無かった。
妙に気を遣う事も無い。ライオネルが何かを欲しがることは無かったし、何かを求める事も無かった。
都合の良い存在だったのだ。
だから違和感に気がつかなかった。
ある日、王太子殿下に同席しろと呼ばれた席に隣国の皇女殿下がいた。
セシリア・フロイデンタール。武力が自慢の国の皇女で、次の代の女帝になるのだと言われている。良い事も悪い事も、物事を正しく見ている商才のある女性だと聞いている。
『……御前失礼いたします。スチュアート卿が第二子、グレン・ウィノグラードです』
『ああ、いい男じゃないか。その男で良い』
パチン、と扇子を畳む音がして、訝し気に顔をあげてしまった。不敬だが、言われている言葉が自分にぶつけられているのだとしたら違和感がある。
『頭の回る男だし、彼は適任ですよ。セシリア様』
普段使えている王太子の言う言葉の意味もわからない。
『……あの……?』
『ああ、お前に頼み事がある。グレン』
にこり、と笑った二人の笑顔は良くない種類のものだとすぐに察せられたが、逃げられるわけもない。
事の発端は西の国で起こった争い事だった。
当初は、ただの領地間での小競り合いかと見られていた争い事だったが、調査を進めるうちにそれが反体制派によるものだったという事がわかって来たと言う。
『我が国は、私が女帝となり治める治世に満足できないと宣う阿呆が多いのだ。つまり私の身の回りがあぶない』
『……なるほど』
『それで我が国と同盟を結びたいと相談を受けたのだ。反体制派の調査を進めるうちに、それなりの勢力を持っていくつかの国に潜伏しているらしいことがわかってな。それでお前を推薦した』
『俺を』
『素手でも強いだろ、お前』
にこにこと笑って言う我が国の王太子・アルベルトは、とても悪い顔をしている。親衛隊として側に仕えて、数年。随分と気安い関係になったものだ。
『我が王家はすでに皆、婚約者が決まっている。それでお前なら、と思ったわけだ』
『…………私も、伴侶がおりますが』
『相手は男だっただろう。どうだ? 目の前にいる美女と婚約しないか? お前の伴侶には、俺が適切な次の相手を見つけてやろう』
常識的に考えれば伴侶のいる相手に、このような事を持ちかける事は言語道断だ。
『……はぁ、申し訳ないな。この国で腕に自信があって、私の伴侶になり得るものを、と聞いたのだが、既婚者を持ち出してくるとは思わなくてな。お前が、嫌なら断って良い。他の相手を出させよう。それが筋というものだ』
セシリアはため息をつきながら、向かい合うアルベルトの足を蹴った。
『ただ強いだけではダメなんだ。それなりの地位と、女帝の側で武器を持っていなくとも守れる相手で、それから口が堅くて、強欲な男がいい』
アルベルトが説明する条件は、やや不可解だった。
『何だそれは』
『実はセシリアには内密に婚姻関係を結んでいる男がいてな。いわばそのダミーの婚姻なんだ。相手は今のところ身分が低くてな、まぁそのうち身分が上がる予定なので、結婚できるほどになれば婚姻は解消になる。その時はお前には婚姻解消の代償に、望むものをある程度、何でも進呈しよう』
『”何でも”』
それはまるで夢のような提案だった。
数年か、はたまた数十年かはわからないが、反体制派から皇女を守りつつ、婚姻関係を装うことが出来れば何でも手に入るのだと言う。
『悪くない話だろう? グレン』
スチュアート侯爵家としては、この上ない名誉だ。どう考えても、ライオネルとの婚姻関係を破棄したとしてもお釣りが来るほど条件が良い。
それなりにリスクはあるだろうが、それでも、得られるものは今後を見据えれば大きすぎるくらいだ。そもそも何かを得られると言う事以上に、王家に貸しができることになる。それも、我が国だけではなく、大国である隣国に対しても。
『…………一度、伴侶に話をします。父にも相談しますが、謹んで拝命します、王太子殿下、皇女殿下』
恭しく、手を胸に当てて、頭を下げる。この国での最上位の挨拶の形式だ。
『伴侶殿にはくれぐれも丁寧に説明をして欲しい。欲しがるものならこちらもある程度のものなら用意しよう』
『ええ、ですが、それはさすがに私が用意しますよ』
『……それもそうか。まぁ、何かあれば言え』
離縁を申し出た経緯はこんなところだ。
どう考えてもライオネルと離縁したほうが、得になる。元来、スチュアート侯爵家は、欲しいものは何でも手に入れてきた強欲の一家だ。
生来家族の誰もが『欲しい』と口にしたものを諦めない。手に入れる為なら努力をするし、策を練る。何かを手に入れたいと口にする事を恥じないし、手に入れたいと口にした以上は、それを諦めることを良しとしない、そういった家系だった。グレン自身も沢山のものを手に入れてきた。
自分で選ばないで手にしたものは、ライオネルくらいのものだ。それ以外は大抵自分で選んで手に入れてきた。
(だから扱いがわからないのかもしれない)
自分を支える執事も、召使も、基本的にはグレンが目を通して選んできた人間ばかりだ。だからこそ納得のいく仕事をして貰えている。
ライオネルだけが異質なのだ。父親に与えられた伴侶。グレンが欲しいと思った相手ではない。けれどスチュアート侯爵家には必要だった相手だ。婚姻相手は親の選ぶものだと思っていたから、自分で選ぶと言う事はしなかったが、自分で選ぶならおそらくはライオネルは選ばなかっただろう。選ぶとすれば男でも、女でも、もっと意志の強い、自分で何もかも選び取るような相手を選んでいた。
「……と言うわけで、まぁ、詳細は話せないが、俺は隣国の皇女殿下に婿入りする」
「なるほど」
「…………お前は、俺と離縁することになる」
「はい」
普通の相手なら怒り狂うところだろう。
普通は、四年も続いた婚姻関係を破談にするなどと言われれば、腹が立つはずだ。そもそも、四年も婚姻関係を続けてしまえば、次の婚姻がむずかしい。
アルベルトが手配すると言っていたが、それでもなかなか見つからないはずだ。スチュアート侯爵家以上の家はそれほどないし、上級貴族で二十歳のライオネルを引き取ろうと言う家があるだろうか。女の代わりとして嫁いだライオネルを、新たに男として迎え入れる家は少ない気がする。それとも年老いた貴族に娶られて、慰みものにされるのか。
(いや、そんな事はさせない)
「俺と離縁した後の、お前の再婚相手は王太子殿下と、俺が探すから心配するな」
「はい」
表情を見ても、落ち込んでいるのか、悲しんでいるのか、腹が立っているのかもわからない。真摯に話を聴く姿勢は正しいが、今ここでグレンが求めている態度ではない。てっきり怒鳴られるか、殴られるかされるかと思っていたのだ。けれどまぁ、そんなことをする相手でもない。
「……それで、さすがに俺も、お前に申し訳がないと思っている。一度は婚姻関係を結んで、もう四年も経つわけだし、それで離縁となるとお前の立場も良くない。相手は世話をするつもりではいるが、それでも足りないくらいだろう。だから、お前の欲しいものがあるなら、何でも用意しよう」
たとえ相手が悲しんでいなくとも、腹が立っていても、決まった事実は曲げられない。
謝罪しろというのならいくらでもするし、要求があるのならある程度のことまでは吞むつもりでいた。今まで何かをライオネルに要求された事はないが、こういえばさすがに何か欲しい物を言うだろう。嗜好品を欲しがりそうにはないが、服、宝飾品、金、その他何だって用意をする準備はあった。
目の前に座るライオネルの姿をじっと見据える。
チョコレートの色のブラウンの髪は、ゆるくウェーブがかかっていて、首筋を隠している。口元を覆っている指先は、男にしては細くて、白い。そもそもが、線の細い男だ。戦場になどはとてもじゃないが連れて行けない。学校に通っていて、頭は良いと聞いていたが武芸はあまりしたことが無さそうだ。馬には乗れると言っていたが、一度も乗っているところを見たことが無い。
何度か口を開いては、閉じてを繰り返していることに気が付いて、ホッとする。何か言いたい事があるに違いない。
「ライオネル、遠慮はするな。お前は本来経験する筈の無い、酷い事をされているのだから、望むことは何でも要求する権利がある」
要求されることが何であれ、要求を叶えてやって、それで心置きなく婚姻関係を解消する。それから隣国へ行く準備をしなければならない。隣国は冬の時期の長い国だと聞くので、寒さ対策も必要だろう。素手で皇女を護れるようにと言われていたので、改めて鍛えなおさなければいけない。最近は武器を使用しての訓練ばかりだった。
「あの……」
「ああ」
ようやくライオネルが決意をしたのか顔をあげた。
「……あの、いらないです」
「……ん?」
「ええと、あの、欲しい物が無いので」
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Fランク冒険者ののんきな妻(夫)×国宝級魔法使いの激重旦那様。
すれ違っていた二人が、甘々な「週末冒険者夫婦」になるまでの、勘違いと溺愛のハッピーエンドBL。
【番外編追加中】王女が捨てた陰気で無口で野暮ったい彼は僕が貰います
卯藤ローレン
BL
「あなたとの婚約を、今日この場で破棄いたします!」――王宮の広間に突然響いた王女の決別宣言。その言葉は、舞踏会という場に全く相応しくない地味で暗い格好のセドリックへと向けられていた。それを見ていたウィリムは「じゃあ、僕が貰います!」と清々しく強奪宣言をした。誰もが一歩後ずさる陰気な雰囲気のセドリック、その婚約者になったウィリムだが徐々に誤算が生じていく。日に日に婚約者が激変していくのだ。身長は伸び、髪は整えられ、端正な顔立ちは輝き、声変わりまでしてしまった。かつての面影などなくなった婚約者に前のめりで「早く結婚したい」と迫られる日々が待っていようとは、ウィリムも誰も想像していなかった。
◇地味→美男に変化した攻め×素直で恐いもの知らずな受け。
『君を幸せにする』と毎日プロポーズしてくるチート宮廷魔術師に、飽きられるためにOKしたら、なぜか溺愛が止まらない。
春凪アラシ
BL
「君を一生幸せにする」――その言葉が、これほど厄介だなんて思わなかった。
チート宮廷魔術師×うさぎ獣人の道具屋。
毎朝押しかけてプロポーズしてくる天才宮廷魔術師・シグに、うんざりしながらも返事をしてしまったうさぎ獣人の道具屋である俺・トア。
でもこれは恋人になるためじゃない、“一目惚れの幻想を崩し、幻滅させて諦めさせる作戦”のはずだった。
……なのに、なんでコイツ、飽きることなく俺の元に来るんだよ?
“うさぎ獣人らしくない俺”に、どうしてそんな真っ直ぐな目を向けるんだ――?
見た目も性格も不釣り合いなふたりが織りなす、ちょっと不器用な異種族BL。
同じ世界観の「「世界一美しい僕が、初恋の一目惚れ軍人に振られました」僕の辞書に諦めはないので全力で振り向かせます」を投稿してます!トアも出てくるので良かったらご覧ください✨
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