すべてはてのひらで踊る、きみと

おしゃべりマドレーヌ

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4.失いたくない物

目が覚めるたびに、眠る度に、枕元の箱を開ける癖がついていた。

 そこには何も入っていない。そのうち父親が手配した模造品がそこに収まることになるだろう。

 別に長く所有していた物でもない。思い出がある物かと聞かれればそんなことはない。けれど、あの日、リネーに似合うと言って渡された懐中時計を手にした時、時計のふちの部分に名前が刻まれているのを見て以来ずっとその光景が忘れられない。あの時計は確かにリネーだけのものだった。リネーを想って贈られた、リネーだけの物だった。

(それが手元にないのは、……寂しい)

 きっと次に父に会う時には偽物の懐中時計が用意されているだろう。偽物は本物に似せて精巧に作られているだろうか。

 できれば少しの違いもなく、そっくりそのままの姿で返ってきてほしい。

「……起きよう」

 目が覚めるたびに、父親からの手紙が届いていると言われることに怯えてる。ベッドから身体を起こすのも億劫だ。

 きっとあの懐中時計だって、アルベルトが時間を掛けて選んでくれたに違いない。丁寧で美しい意匠は未だに細部まで記憶に刻まれている。

 まさか贈って数日で売り払われてるなんて思いもしないに違いない。懐中時計は本来持ち歩いてもいいはずのものだ。一度もアルベルトの目に触れないものおかしいだろう。模造品が届いたら、一度くらいはどこかで身に着けている姿を見せたほうがいいかもしれない。

「リネー様、お手紙です」

「……ありがとう」

 父親から届いた手紙は、マグヌスが持ってきた。

 手紙にはリネーを気遣う言葉など一言も書かれていない。羅列されているのは今週リネーがするべき事の一覧だ。

 物品を追加で購入する手配をすること、できれば宝石の原石と金銀が良いと言う事。それから屋敷の管理する資料を一部改ざんする事。不正な資金の流れを作り出すことが目的だ。それから屋敷にいる使用人を使って、アルベルトの不貞の噂を流す事。次々とリネーへの要求が高まっていく。アルベルトが家を留守にする時間が長い事も功を奏して、リネーの工作は上手く行ってしまうのだろう。

 この屋敷の主人であるアルベルトが全幅の信頼をリネーに置くせいで、この家の使用人たちも無条件にリネーに全幅の信頼を置いている。

「リネー、少しいいですか」

「アルベルト」

 呼ばれて顔をあげると、手招きされて、それからアルベルトの執務室へと連れて行かれる。

 そこで教えられたのは、アルベルトの部屋にある金庫の開錠方法だった。

「これは特殊な鍵なので、開け方を知っている人は俺と、貴方だけです」

「…………私に、教えるのにはまだ早いのでは?」

「いいですよ。リネー、この数カ月で貴方の働きぶりはよく見ていましたから」

 ここを開ければ、ほら、と開けられた金庫にはこの家の全ての決定を出来る家印が入っていた。黄金のそれは見るからに最重要な物だとわかる。

「大変申し訳ないんですが、これから俺がしばらく忙しくなってしまうので、ある程度のこの家の決定はリネーに任せたいのです」

「…………いきなり、そんな大きな権限を持たされても」

「大丈夫。信頼してるので」

 好きに使ってください、と肩に手を添えられて、それはきっと信頼の証で胸が暖かくなるはずなのに、リネーの背筋には冷汗が流れていく。

 このことを父親が知れば大喜びだろう。父親の望む書類の改ざんだって、何だって出来てしまう。

「……わかった、ありがとう」

 他になんと言えただろうか。

(まるで泥船にでも乗っているかのようだ……)

 一歩進むたびに足が泥に沈んでいくかのような心地だ。

 前に進んでも、後ろに進んでも、行く先に安全な道はない。嫌な汗をかいている。

 自分自身はどうしたいのかと本心を問うてみても、リネー自身ももうどうしたいのかがわからない。示されている道はいばらの道しかない。かと言って自分から別の道を進むような気力もない。父親からもアルベルトからも逃げたって、リネーには『オメガ』という性別が付きまとう。

 運良く誰もリネーを知らない場所へ逃げ出せたとしても、結局はいずれ発情期が来て、知らない男と番うことになるか、人身売買の業者に捕まるのだろう。

 いくつもの地獄の中で、どの地獄が一番マシかというだけだ。

(私の言うことなんか何も聞かないで欲しい)

 心を許さないで欲しい、信用しないで欲しい。信頼せずに、突き放して、お前なんかこの家にいる価値がないと言われたい。

 嫌われたいと思うのに、優しくされたいと願ってしまう。優しくされて嬉しいと思ってしまう。



(ああ、それでも)



 一つ目の策略はそれから程なくして実行に移された。

 リネーの言った言葉を信じて、宝飾店にリネーのオーダーした宝石を取りに行ったアルベルトは、その店で偶然マリアンヌに出会う。リネーが渡した地図は『偶然』宝飾店ではない、ただの出会いを求める男女の集う酒場で、そこでマリアンヌがアルベルトに身体を寄せた瞬間、運悪く偶然にも彼女の夫がその現場に踏み込んだ。

 醜聞と言うには随分と陳腐な醜聞だった。多くの人が一部始終を見ていた。そして口を揃えて証言したのだという、『アルベルトに非は無い』と。

 店先で戸惑った様子のアルベルトを見つけたのはマリアンヌだし、アルベルトに身体を寄せ、アルベルトの制止を無視して離れなかったのは彼女だ。確かにこの事実だけであれば、アルベルトに不定の事実はない。

 けれど、では、なぜ、既婚者であるはずのアルベルトが『その店にいたのか』という点は、誰もが知らない。知る由もない。

 帰って来たアルベルトに、リネーはわざとらしく渡す地図を間違えた。その地図は使用人が持っていたもので、間違えて取り違えてしまったのだと謝った。アルベルトもそれほど気にはしておらず、たまたま酔っぱらった客に絡まれただけですよと笑っていたが、そうしている間にもアルベルトの噂話は尾ひれを付けて流布されていた。

 その噂には、父親の雇った人間ががさらに情報をでっちあげた噂が付け足されて『清廉潔白なアルベルトも、男のオメガだけでは満足できず、美しい女を探しているのだ』という噂がまことしやかに流されていた。いくらアルベルトの無実を信じている人間でも、火の無いところに煙は立たないと、多少の猜疑心が植え付けられてしまっていた。

 

「リネー、すみません」

 すっかり噂が貴族界に行き渡った頃、ようやくアルベルトは事態に気が付いたのか、リネーに頭を下げてきた。あらぬ噂を立てられている事は事実無根で、リネーも知っての通りあの店には偶然たどり着いただけで、産まれてこの方そのような店に行った事ないのだと懇切丁寧に説明された。

「……いや、もとはと言えば、私が地図を渡し間違えたせいで……謝るのは私の方」

「いえ、もっと早くに俺が噂に気が付いていれば対応の方法もあったのに。申し訳ありません」

 アルベルトはどこまで行ってもリネーに誠実だった。

 こうして手を握られて、目と目を合わせていると、いかにその瞳が透き通っているのか思い知らされる。

 そのアルベルトの握る指先が、今日、書類の捏造をしていただなんて夢にも思わないのだろう。隠し場所を教えて貰った家印で、大きな金額の小切手を作成して、父親に渡したことなどこれっぽっちも知らない。

「……謝ってくれてありがとう、アル」

(胸がはりさけそうだ。いっそのこと張り裂けてくれたらいいのに)

 息を吸うのがつらくて、無理矢理に笑顔を作った。



 それから少しして、今度は王室にアルベルトの他国との密通の証拠が届けられた。

 それはありもしない、偽証の書類だったが、それでもアルベルトの筆跡に、アルベルトの執務に使うサインが添えられた書類が提出されたのだという。アルベルトは王室に事実無根だと訴えたとの事だが、書類を見れば他国と密通していたことは明らかだった。証拠を届けた人物は、身元は秘匿されているのだという。密通の事実を報告したことを理由に報復される可能性もあるからだ。

「申し訳ありません、リネー。こんな……本当に、俺は」

 弱弱しい声で、リネーの部屋を訪ねて来たアルベルトは可哀想なくらいに憔悴しきっていた。

 けれどそうしたのは、リネーだ。

 他国との密通の書類を作成して父親に渡した。すべては父親の指示だったが、それでもそれは、リネーがしたことだった。

「……しばらく、この屋敷で待機になります。私は自室にいます」

「アル……」

「…………婚約して早々に、本当に申し訳ない。なるべく事態の収束を速やかに図ります。証拠として提示された物は捏造された資料でしょう。どうにかそれを疎明できればと思いますが、王室に届けられた資料は誰からのものなのかもわからない今、どこまで……、いや、とにかく、リネー。困った事があれば何でも言ってください。一時的に実家に帰りたいというのならそれでも……」

「私はここにいたい」

 考えるよりも先に出た言葉に、驚いたのはリネー自身だった。

「…………そうですか、わかりました」

 少しだけ息を呑んだアルベルトが、目を細めて笑顔を浮かべた。あまりに声が優しくて、居た堪れなくって思わず顔を逸らしてしまう。

 アルベルトが部屋を出て行くのを見送って、それからソファへと腰を下ろす。実家に帰りたいとは思わない。実家に帰ったって、リネーの居所は無い。

 だから、家に帰りたくないと言うのは本音だ。

 けれど「帰りたくない」ではなくて、「ここにいたい」と言う言葉が出たことに、驚いた。

(ここにいたいと思ってるのか)

 目をゆっくりと閉じる。この家にいたところで、アルベルトは優しくて、使用人も優しくて、ラニだって幸せそうで、けれどどうあってもリネーを支配しているのは父親だった。父親の望む通りにしなければ生きてはいけない。事実、こんなにも優しくされているにも関わらず、アルベルトを裏切っている。一度ならず、もう数えきれないほどに。

 リネーの手は罪に染まってしまって、こんな手ではもうあんなにも純粋なアルベルトに触れられないだろう。

 アルベルトが弱っている姿を見て可哀想だと思った。いつだって朗らかに笑っている姿が似合う男なのに。穏やかで、人に囲まれて、暖かい陽の光の当たる場所にいるのが似合う男だ。とてもじゃないがリネーの隣に立つのに相応しくない。

(これ以上優しくしないで欲しい……)

「俺はお前を苦しめるばかりなのに」
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