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第一章『旅立ちの朝』
白い森の獣
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まだ陽も昇りきっていない早朝に車は出発した。
御者台にはゴーレムの錬成士が座り、黒くてごつごつしたゴーレムに車を引かせている。窓のない車内にはクローヴィアひとりだけだった。
昨日までは家柄に相応しい仕立ての良い服を着ていたが、今日用意されていたのは庶民のそれと変わらないものだ。それも当然だろう。欲を捨て、慎ましく生きることが魂の穢れを払う第一歩なのだから。
とはいえ、クローヴィアにはこの服が家との縁が切れた証のようにも思えて胸が苦しかった。そこに車内の閉塞感と見知らぬ地へと送られる不安とが追い打ちをかけ、ただ座っているだけで呼吸がわずかに荒くなっていた。
クローヴィアは隣に置いた布袋のひとつから、燻製にした魚のひらきを取り出しかじりついた。昨日は部屋に運ばれた食事もろくに喉を通らなかったが、夜が明けてようやく食欲が仕事を始めたか、あるいは口に何かを入れることで無意識のうちに不安を紛らわせようとしたのかもしれない。
がつがつと、しかし時間をかけて一匹を飲み干すと、ようやく心が落ち着いたようだった。
これから自分は死後にきちんと天に昇れるよう身を清めるのだ。そう思えば何も絶望することなどない。クローヴィアは自身をそう鼓舞し、背もたれに身を預け目を瞑った。
耳にはゴーレムが車を引くごろごろという音が心地よく響いている。きっとゴーレムの車輪は綺麗な円を描いているのだろう。
優れた錬成士かどうかは車輪を作らせればわかる。前に父がそう言っていたのを思い出し、また悲しくなった。父と再び顔を合わせることも、おそらくはもうない。
(寂しくても耐えなきゃ。来世でちゃんと、人間に生まれ変われるように)
車体が揺れる。左にわずかに傾いたかと思えば、今度は右に。曲道だろうか。生まれ育った都市を出たことがなかったクローヴィアには、隣の都市までの道のりはわからない。それでもこんなに曲がることがあるだろうかと違和感はあった。
それに左右に加えて車輪が何かに乗り上げるような揺れも始まった。都市から離れ道が悪くなったのだろう。ヘリッジは辺境の都市だというから、きっとこれからもこういう道は少なくないはずだ。
慣れなくては。クローヴィアは目を瞑ったまま、ただ静かに座っていた。
やがて揺れは収まり、ごろごろという音も止んだ。車が停まったのだ。
クローヴィアは眼を開けた。
次の都市に着くには流石に早過ぎる。何かあったのだろうか。
獣と出くわした、真っ先に思いつく可能性はそれだが、どうやら違うらしい。もしそうなら外はもっと騒がしいはずだろう。
では錬成士の休憩だろうか。ゴーレムにはスタミナという概念がない。錬成士が魔力を補給し続ける限り足を止めることはないのだが、見方を変えれば錬成士の魔力量を実質的なスタミナと見なすこともできる。しかし錬成士が魔力切れを起こすにしても早い気がした。
ということは最も現実的な線はトイレだろう。道の外れで用を足しているのかもしれない。
待てばすぐに出発するはずだ。クローヴィアは再び瞼を閉じ、車が動き始めるのを待った。
(おかしいな。流石に長い……よね?)
待てども車が動き出さない。この長さなら用を足しに行ったわけではないのだろう。では魔力切れか。いや、それもおかしい。父お抱えの錬成士がその程度のはずがない。
疑問を覚えたクローヴィアは車の扉を開け外へ出た。錬成士に何かあったのだろうか。
「…………へ?」
視界に広がる光景にクローヴィアは言葉を失った。そこは予想だにしなかった場所だったのだ。
整備された街道などではない。四方を白い幹の巨大な木々に囲まれた森の中だ。
「嘘でしょ……ねぇ! どこに行ったの!」
車を引いていたゴーレムはいなかった。錬成士も姿を消していた。なぜ、なにが起きた、どうしてこうなった――。
慌てふためく十歳の頭でも理由は想像に難くなかった。都市へのルートに獣と出くわす可能性の高い森を設定するはずがない。とすれば自分は、この森の中に捨てられたのだ。
でも、なぜ。御者である錬成士は当然、行き先がヘリッジだと知っていたはずだ。もっといえばクローヴィアが獣の神に魅入られていたことも知らされていただろう。
しかし、だからだというのか。不浄な獣たちの領域に一人取り残していったのは、自分の魂が穢れているからだというのか。
「そんな……やめてよ……どうして……」
思わずその場にへたり込む。
クローヴィアの周囲を天を衝く大木が囲っている。深緑の葉が傘を作り、辺り一帯は昼でも薄暗かった。木々の間は先を見通せず、道らしき道は見当たらない。
車の正面と反対の方向が森の出口ではないかと予想はできる。だが、クローヴィアは覚えていた。この場所に停止するまでの道中、車は何度も進路を変え蛇行していたのだ。それが大木を避けるためか、あるいは帰る方向をわからなくするためかは不明だが、おかげで唯一の希望にも影が落ちていた。
「お父様、僕は……どうしたらいいの……」
クローヴィアの瞳に涙が浮かぶ、その寸前で、事態は順当に悪化した。
オオオオオオオォォォォォォ――――。
「ひっ――」
背後から獣の唸りが聞こえる。クローヴィアは獣の声を聞くのは初めてだったが、邪神の眷属だというのも納得だ。聞くだけで全身を内側から震わせるようなおぞましい気を放っている。
クローヴィアがおそるおそる振り返ると、そこには大木の枝に片手でぶらさがる巨大な獣がいた。
クローヴィアは獣の種類について、大雑把にだが教育を受けている。学んだ記憶を辿ったなかでは、目の前にいるあれは"猿"という種に近かった。身体のほとんどが毛に覆われているが、四肢の先と顔の部分は毛が薄い。樹上で生活をするという話も枝を掴んでいることに合致する。
しかし話に聞いていた猿とは違う点も多い。
まずは体型。猿は一般に、腰の曲がった子供のような体型をしているという。しかし目の前の獣は丸い身体から四肢と長い尻尾が生えており、人間とは形が大きく異なっていた。
また、顔のつくりも違った。目があるべき場所は毛で覆われており、つぶれた鼻と身体に対してあまりに大きな口が特徴的だ。並んだ平たい歯は嚙合わせるたびにぎりぎりと音を立てていた。
巨大な口の大猿が枝から手を離し着地する。三メートルはあろうかという巨体の衝撃は、まだいくらか距離のあるクローヴィアの足元さえもぐらりと揺らした。
「あ……うわ…………」
大猿は長く太い腕を地面に突きながらのそのそと近寄ってくる。そして腕を伸ばし、クローヴィアの乗って来た車を掴んだ。
車を持ち上げ揺らすと、開いたままだった扉からクローヴィアが持ってきた食料の袋が落ちた。大猿は大きな指で器用に袋を摘まむと、つぶれた鼻に近づけ匂いを嗅ぎ、袋ごと一口に飲み込んだ。
この間に逃げるという選択肢は確かにあったかもしれない。しかし幼いクローヴィアにこの状況で正常な判断を下せという方が酷なのだろう。
事実クローヴィアは目の前の猿の一挙一動に対し、少しも目を逸らせず足を震わせることしかできずにいた。
逃げ遅れた弱者の運命はひとつである。
大猿の巨体は摘まめる程度の食料袋ひとつでは満足しない。次なる獲物は、クローヴィア本人だ。
オオオオォォォ――。
先ほどよりも短く、しかし小さな獲物を震え上がらせるには充分な雄たけびを上げる。
クローヴィアは全身をがくがくと震わせていた。自身の辿る運命を想像し、両目から大粒の涙を流した。
穢れを祓い終えていない魂はここで喰われれば天に昇れず、自身もまた獣に生まれ変われるのだろう。しかし今のクローヴィアにそこまで思い至る余裕もない。もっと原始的な恐怖に染められていたのだ。
またも事態は一変した。
「おや、こんな深くにしては珍しい客がいるじゃないか」
クローヴィアは振り返った。確かに背後から女の声がしたのだ。助けてもらえるかなど、そういったことまでは頭が回っていない。ただこの地獄に人間という仲間を見つけることができたという、それだけだった。
しかし期待は最悪の形で裏切られる。
クローヴィアの背後にいたのは全身を白い毛に覆われた獣だった。四足で立ち、長い口からは鋭い牙を覗かせ、その体は目の前の猿より大きい。
オオオオオオオオオオオオォォォォォォォォ!!!!
闖入者に対し猿は咆哮で応える。
二頭の巨獣の出現に加え、音圧の暴威を間近に受けたクローヴィアの意識はそこで限界を迎えた。
猿は両腕で胸を叩き威嚇する。しかしそれには一瞥もくれず、気絶し倒れたクローヴィアを白い獣は好奇の目で見つめていた。
御者台にはゴーレムの錬成士が座り、黒くてごつごつしたゴーレムに車を引かせている。窓のない車内にはクローヴィアひとりだけだった。
昨日までは家柄に相応しい仕立ての良い服を着ていたが、今日用意されていたのは庶民のそれと変わらないものだ。それも当然だろう。欲を捨て、慎ましく生きることが魂の穢れを払う第一歩なのだから。
とはいえ、クローヴィアにはこの服が家との縁が切れた証のようにも思えて胸が苦しかった。そこに車内の閉塞感と見知らぬ地へと送られる不安とが追い打ちをかけ、ただ座っているだけで呼吸がわずかに荒くなっていた。
クローヴィアは隣に置いた布袋のひとつから、燻製にした魚のひらきを取り出しかじりついた。昨日は部屋に運ばれた食事もろくに喉を通らなかったが、夜が明けてようやく食欲が仕事を始めたか、あるいは口に何かを入れることで無意識のうちに不安を紛らわせようとしたのかもしれない。
がつがつと、しかし時間をかけて一匹を飲み干すと、ようやく心が落ち着いたようだった。
これから自分は死後にきちんと天に昇れるよう身を清めるのだ。そう思えば何も絶望することなどない。クローヴィアは自身をそう鼓舞し、背もたれに身を預け目を瞑った。
耳にはゴーレムが車を引くごろごろという音が心地よく響いている。きっとゴーレムの車輪は綺麗な円を描いているのだろう。
優れた錬成士かどうかは車輪を作らせればわかる。前に父がそう言っていたのを思い出し、また悲しくなった。父と再び顔を合わせることも、おそらくはもうない。
(寂しくても耐えなきゃ。来世でちゃんと、人間に生まれ変われるように)
車体が揺れる。左にわずかに傾いたかと思えば、今度は右に。曲道だろうか。生まれ育った都市を出たことがなかったクローヴィアには、隣の都市までの道のりはわからない。それでもこんなに曲がることがあるだろうかと違和感はあった。
それに左右に加えて車輪が何かに乗り上げるような揺れも始まった。都市から離れ道が悪くなったのだろう。ヘリッジは辺境の都市だというから、きっとこれからもこういう道は少なくないはずだ。
慣れなくては。クローヴィアは目を瞑ったまま、ただ静かに座っていた。
やがて揺れは収まり、ごろごろという音も止んだ。車が停まったのだ。
クローヴィアは眼を開けた。
次の都市に着くには流石に早過ぎる。何かあったのだろうか。
獣と出くわした、真っ先に思いつく可能性はそれだが、どうやら違うらしい。もしそうなら外はもっと騒がしいはずだろう。
では錬成士の休憩だろうか。ゴーレムにはスタミナという概念がない。錬成士が魔力を補給し続ける限り足を止めることはないのだが、見方を変えれば錬成士の魔力量を実質的なスタミナと見なすこともできる。しかし錬成士が魔力切れを起こすにしても早い気がした。
ということは最も現実的な線はトイレだろう。道の外れで用を足しているのかもしれない。
待てばすぐに出発するはずだ。クローヴィアは再び瞼を閉じ、車が動き始めるのを待った。
(おかしいな。流石に長い……よね?)
待てども車が動き出さない。この長さなら用を足しに行ったわけではないのだろう。では魔力切れか。いや、それもおかしい。父お抱えの錬成士がその程度のはずがない。
疑問を覚えたクローヴィアは車の扉を開け外へ出た。錬成士に何かあったのだろうか。
「…………へ?」
視界に広がる光景にクローヴィアは言葉を失った。そこは予想だにしなかった場所だったのだ。
整備された街道などではない。四方を白い幹の巨大な木々に囲まれた森の中だ。
「嘘でしょ……ねぇ! どこに行ったの!」
車を引いていたゴーレムはいなかった。錬成士も姿を消していた。なぜ、なにが起きた、どうしてこうなった――。
慌てふためく十歳の頭でも理由は想像に難くなかった。都市へのルートに獣と出くわす可能性の高い森を設定するはずがない。とすれば自分は、この森の中に捨てられたのだ。
でも、なぜ。御者である錬成士は当然、行き先がヘリッジだと知っていたはずだ。もっといえばクローヴィアが獣の神に魅入られていたことも知らされていただろう。
しかし、だからだというのか。不浄な獣たちの領域に一人取り残していったのは、自分の魂が穢れているからだというのか。
「そんな……やめてよ……どうして……」
思わずその場にへたり込む。
クローヴィアの周囲を天を衝く大木が囲っている。深緑の葉が傘を作り、辺り一帯は昼でも薄暗かった。木々の間は先を見通せず、道らしき道は見当たらない。
車の正面と反対の方向が森の出口ではないかと予想はできる。だが、クローヴィアは覚えていた。この場所に停止するまでの道中、車は何度も進路を変え蛇行していたのだ。それが大木を避けるためか、あるいは帰る方向をわからなくするためかは不明だが、おかげで唯一の希望にも影が落ちていた。
「お父様、僕は……どうしたらいいの……」
クローヴィアの瞳に涙が浮かぶ、その寸前で、事態は順当に悪化した。
オオオオオオオォォォォォォ――――。
「ひっ――」
背後から獣の唸りが聞こえる。クローヴィアは獣の声を聞くのは初めてだったが、邪神の眷属だというのも納得だ。聞くだけで全身を内側から震わせるようなおぞましい気を放っている。
クローヴィアがおそるおそる振り返ると、そこには大木の枝に片手でぶらさがる巨大な獣がいた。
クローヴィアは獣の種類について、大雑把にだが教育を受けている。学んだ記憶を辿ったなかでは、目の前にいるあれは"猿"という種に近かった。身体のほとんどが毛に覆われているが、四肢の先と顔の部分は毛が薄い。樹上で生活をするという話も枝を掴んでいることに合致する。
しかし話に聞いていた猿とは違う点も多い。
まずは体型。猿は一般に、腰の曲がった子供のような体型をしているという。しかし目の前の獣は丸い身体から四肢と長い尻尾が生えており、人間とは形が大きく異なっていた。
また、顔のつくりも違った。目があるべき場所は毛で覆われており、つぶれた鼻と身体に対してあまりに大きな口が特徴的だ。並んだ平たい歯は嚙合わせるたびにぎりぎりと音を立てていた。
巨大な口の大猿が枝から手を離し着地する。三メートルはあろうかという巨体の衝撃は、まだいくらか距離のあるクローヴィアの足元さえもぐらりと揺らした。
「あ……うわ…………」
大猿は長く太い腕を地面に突きながらのそのそと近寄ってくる。そして腕を伸ばし、クローヴィアの乗って来た車を掴んだ。
車を持ち上げ揺らすと、開いたままだった扉からクローヴィアが持ってきた食料の袋が落ちた。大猿は大きな指で器用に袋を摘まむと、つぶれた鼻に近づけ匂いを嗅ぎ、袋ごと一口に飲み込んだ。
この間に逃げるという選択肢は確かにあったかもしれない。しかし幼いクローヴィアにこの状況で正常な判断を下せという方が酷なのだろう。
事実クローヴィアは目の前の猿の一挙一動に対し、少しも目を逸らせず足を震わせることしかできずにいた。
逃げ遅れた弱者の運命はひとつである。
大猿の巨体は摘まめる程度の食料袋ひとつでは満足しない。次なる獲物は、クローヴィア本人だ。
オオオオォォォ――。
先ほどよりも短く、しかし小さな獲物を震え上がらせるには充分な雄たけびを上げる。
クローヴィアは全身をがくがくと震わせていた。自身の辿る運命を想像し、両目から大粒の涙を流した。
穢れを祓い終えていない魂はここで喰われれば天に昇れず、自身もまた獣に生まれ変われるのだろう。しかし今のクローヴィアにそこまで思い至る余裕もない。もっと原始的な恐怖に染められていたのだ。
またも事態は一変した。
「おや、こんな深くにしては珍しい客がいるじゃないか」
クローヴィアは振り返った。確かに背後から女の声がしたのだ。助けてもらえるかなど、そういったことまでは頭が回っていない。ただこの地獄に人間という仲間を見つけることができたという、それだけだった。
しかし期待は最悪の形で裏切られる。
クローヴィアの背後にいたのは全身を白い毛に覆われた獣だった。四足で立ち、長い口からは鋭い牙を覗かせ、その体は目の前の猿より大きい。
オオオオオオオオオオオオォォォォォォォォ!!!!
闖入者に対し猿は咆哮で応える。
二頭の巨獣の出現に加え、音圧の暴威を間近に受けたクローヴィアの意識はそこで限界を迎えた。
猿は両腕で胸を叩き威嚇する。しかしそれには一瞥もくれず、気絶し倒れたクローヴィアを白い獣は好奇の目で見つめていた。
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