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第一章『旅立ちの朝』
獣の目
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立ち上がるだけの力などとっくに残ってはいないはずだった。生き残るため抵抗する気力すら消え去ったはずだった。にも関わらずクローヴィアは今、正面から大猿に吼えてみせた。
生存を諦めたゆえの自棄ではない。今クローヴィアを支配しているのは大猿への、命を弄ぶ者への純粋な怒りだった。
折れたはずの獲物が再び立ち上がったことに気付き、大猿は拳を振り下ろすのをやめた。
動かなくなった生意気な玩具から、怯えていたはずの瞳に剥き出しの敵意を宿した小さな獲物に興味が移る。
今度はどう叩き潰そうか。遊び方を想像しながら大猿は口をにやりと歪めた。
両者が向き合う。
(僕も馬鹿だな)
クローヴィアは自嘲した。
あの狼はひとりでも逃げられた。なのに自分なんかを助けようとして死んだ。馬鹿だ。そんな死に方なんか間違っている。
そして、自分もまた同じ間違いをした。
立ち上がれたところでそれだけだ。僕がこいつに勝てるはずがない。勝つ以前に、勝負にすらならないんだ。でも、ならばなぜ僕はこんな真似をしたんだろう。
(同じ間違いをした者同士、きっと、同じ気持ちだったんだよね)
こいつが、許せなかった。理屈ではない。ただその怒りだけがクローヴィアを大猿の正面に立たせていた。
大猿は拳を引き、クローヴィアに殴りかかった。大猿にはまだクローヴィアを殺す気はない。敵意の目が光を失い再び震えだすまで、じっくりなぶるつもりでいた。だからその拳は全力ではない。
とはいえ、躱されるつもりも毛頭なかったはずだった。
ゆらり。クローヴィアは前へ身体を倒しながら、寸でのところでその拳を避けていた。最小限の動きで躱した、というわけではない。クローヴィアの反応速度のギリギリと拳の速度が絶妙に噛み合ったに過ぎなかった。
しかし目を向けるべきはクローヴィアが大猿の拳に反応してみせたことそのものである。戦闘経験が皆無のただの子供が、自分よりも巨大な敵を目の前にその拳の軌道を冷静に見極めたことそのものが異常なのだ。
拳が空を切る。大猿は続く攻撃をすぐには繰り出せなかった。もしそこで続く一撃があれば勝負は決していただろう。しかし大猿はそもそも初撃で戦いを終わらせる気だったのである。そこからはただの遊びの時間で戦いではない、はずだったのだ。
ヴゥゥゥゥゥ――。
予定を狂わされたことに不快感を露わにする。獲物の目はまだ光を失っていない。生意気だ、腹が立つ。
そんな怒りに囚われたがために、またも大猿は反応が遅れた。
大猿の顔に黒い影が落ちる。何者かが上を取ったのだ、それも直前まで気が付かないほどの速度で。見上げた大猿の視界に映ったのは、自分よりも大きく真っ白な狼だった。
狼の前肢が大猿の顔を押しつぶす。そのまま大猿を押し倒すと、狼はクローヴィアの服をくわえ後方へ飛び退いた。
「何とか間に合ったな。無事か、クローヴィア」
白い狼、イーシャは大猿から距離を取りクローヴィアを離した。普段は落ち着き払った態度の彼女には珍しく、その声音からは焦りがあったことが窺えた。
「…………うん」
クローヴィアの声は暗い。イーシャはそこに含まれた意味を推し量ろうとして、しかしそれは後に回した。
「何かあったようだが、ひとまずこいつのことは私に任せろ」
イーシャはクローヴィアの前に出る。ここからは獣同士の戦いだ。
イーシャの一撃を受けた大猿が起き上がる。不意を衝かれはしたがたいしたダメージは負っていない。まだまだ戦うには余裕だ。
とはいえ、身体の大きさはそのまま強さの指標になる。自分よりも大きな敵の出現に大猿の警戒は一気に高まった。
大猿は両腕を地面に突き姿勢を低くする。前後左右、どちらへでもすぐに移動できる体勢だ。
イーシャも同様に姿勢を落とす。
「さあどうした。私の縄張りを荒らしてくれたんだ。覚悟はできてるんだろう」
尻尾で地面を叩き挑発するイーシャの、後肢の付け根、腰のあたりが紫色の光を帯びていた。クローヴィアはこれまで気付いていなかったが、イーシャは全身が白い毛に覆われているわけではない。後肢の付け根の部分には黒い毛が模様のようになって生えており、そこが光っているのだ。
イーシャが金の瞳を細める。それと同時に大猿の足元が発火した。青い炎が大猿を包む。予想外の攻撃に大猿は慌てて飛び退いた。
その隙をイーシャは逃さない。飛び退くよりも速く駆け抜け距離を詰めると、大猿の懐に頭を差し込み、下から突き上げるようにして巨体を空に浮かせる。持ち上げられた大猿は無論、空中では制御が利かず無防備だ。そこへ追撃する。
黒い模様が再び光を帯びると、イーシャの口元に青い炎が宿る。やがて大きく成長したそれを、イーシャは空中の大猿向け吐き出した。
今度こそ逃げ場はない。火炎の直撃を受けた大猿は青い炎を纏ったまま地面に転がり、全身が焼ける痛みに悶えている。
が、流石は巨体を誇る獣だった。痛みを堪え立ち上がり、炎に焼かれたままイーシャに殴りかかった。
決死の反撃、しかしそれもイーシャには届かない。イーシャは飛び退くと同時に再び空中で青い炎を吐く。とどめの一撃は巨体を包む炎をより大きくし、大猿はついに動きを止め倒れ込んだ。
燃え盛る蒼炎は断末魔すらその中に飲み込むと、やがて塵のように消えていった。炎が森へと広がることはなく、あとに残ったのは焦げた死体のみだ。
「さて」
動かなくなったことを確認したイーシャはクローヴィアを振り返った。
「改めて問うが、無事だな?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
クローヴィアはほっとしたように微笑んだ。イーシャは影の落ちたその表情を訝しむように見ていたが、やがて首を振った。
「まあいい。まずは飯にしよう。そろそろ腹が空く頃だろう?」
太陽は空の真上に昇っている。
イーシャは大猿の死体を一瞥した。都合よく火の通った獣肉がそこにあったが、昨夜の会話を思い出し、その案は没にした。
生存を諦めたゆえの自棄ではない。今クローヴィアを支配しているのは大猿への、命を弄ぶ者への純粋な怒りだった。
折れたはずの獲物が再び立ち上がったことに気付き、大猿は拳を振り下ろすのをやめた。
動かなくなった生意気な玩具から、怯えていたはずの瞳に剥き出しの敵意を宿した小さな獲物に興味が移る。
今度はどう叩き潰そうか。遊び方を想像しながら大猿は口をにやりと歪めた。
両者が向き合う。
(僕も馬鹿だな)
クローヴィアは自嘲した。
あの狼はひとりでも逃げられた。なのに自分なんかを助けようとして死んだ。馬鹿だ。そんな死に方なんか間違っている。
そして、自分もまた同じ間違いをした。
立ち上がれたところでそれだけだ。僕がこいつに勝てるはずがない。勝つ以前に、勝負にすらならないんだ。でも、ならばなぜ僕はこんな真似をしたんだろう。
(同じ間違いをした者同士、きっと、同じ気持ちだったんだよね)
こいつが、許せなかった。理屈ではない。ただその怒りだけがクローヴィアを大猿の正面に立たせていた。
大猿は拳を引き、クローヴィアに殴りかかった。大猿にはまだクローヴィアを殺す気はない。敵意の目が光を失い再び震えだすまで、じっくりなぶるつもりでいた。だからその拳は全力ではない。
とはいえ、躱されるつもりも毛頭なかったはずだった。
ゆらり。クローヴィアは前へ身体を倒しながら、寸でのところでその拳を避けていた。最小限の動きで躱した、というわけではない。クローヴィアの反応速度のギリギリと拳の速度が絶妙に噛み合ったに過ぎなかった。
しかし目を向けるべきはクローヴィアが大猿の拳に反応してみせたことそのものである。戦闘経験が皆無のただの子供が、自分よりも巨大な敵を目の前にその拳の軌道を冷静に見極めたことそのものが異常なのだ。
拳が空を切る。大猿は続く攻撃をすぐには繰り出せなかった。もしそこで続く一撃があれば勝負は決していただろう。しかし大猿はそもそも初撃で戦いを終わらせる気だったのである。そこからはただの遊びの時間で戦いではない、はずだったのだ。
ヴゥゥゥゥゥ――。
予定を狂わされたことに不快感を露わにする。獲物の目はまだ光を失っていない。生意気だ、腹が立つ。
そんな怒りに囚われたがために、またも大猿は反応が遅れた。
大猿の顔に黒い影が落ちる。何者かが上を取ったのだ、それも直前まで気が付かないほどの速度で。見上げた大猿の視界に映ったのは、自分よりも大きく真っ白な狼だった。
狼の前肢が大猿の顔を押しつぶす。そのまま大猿を押し倒すと、狼はクローヴィアの服をくわえ後方へ飛び退いた。
「何とか間に合ったな。無事か、クローヴィア」
白い狼、イーシャは大猿から距離を取りクローヴィアを離した。普段は落ち着き払った態度の彼女には珍しく、その声音からは焦りがあったことが窺えた。
「…………うん」
クローヴィアの声は暗い。イーシャはそこに含まれた意味を推し量ろうとして、しかしそれは後に回した。
「何かあったようだが、ひとまずこいつのことは私に任せろ」
イーシャはクローヴィアの前に出る。ここからは獣同士の戦いだ。
イーシャの一撃を受けた大猿が起き上がる。不意を衝かれはしたがたいしたダメージは負っていない。まだまだ戦うには余裕だ。
とはいえ、身体の大きさはそのまま強さの指標になる。自分よりも大きな敵の出現に大猿の警戒は一気に高まった。
大猿は両腕を地面に突き姿勢を低くする。前後左右、どちらへでもすぐに移動できる体勢だ。
イーシャも同様に姿勢を落とす。
「さあどうした。私の縄張りを荒らしてくれたんだ。覚悟はできてるんだろう」
尻尾で地面を叩き挑発するイーシャの、後肢の付け根、腰のあたりが紫色の光を帯びていた。クローヴィアはこれまで気付いていなかったが、イーシャは全身が白い毛に覆われているわけではない。後肢の付け根の部分には黒い毛が模様のようになって生えており、そこが光っているのだ。
イーシャが金の瞳を細める。それと同時に大猿の足元が発火した。青い炎が大猿を包む。予想外の攻撃に大猿は慌てて飛び退いた。
その隙をイーシャは逃さない。飛び退くよりも速く駆け抜け距離を詰めると、大猿の懐に頭を差し込み、下から突き上げるようにして巨体を空に浮かせる。持ち上げられた大猿は無論、空中では制御が利かず無防備だ。そこへ追撃する。
黒い模様が再び光を帯びると、イーシャの口元に青い炎が宿る。やがて大きく成長したそれを、イーシャは空中の大猿向け吐き出した。
今度こそ逃げ場はない。火炎の直撃を受けた大猿は青い炎を纏ったまま地面に転がり、全身が焼ける痛みに悶えている。
が、流石は巨体を誇る獣だった。痛みを堪え立ち上がり、炎に焼かれたままイーシャに殴りかかった。
決死の反撃、しかしそれもイーシャには届かない。イーシャは飛び退くと同時に再び空中で青い炎を吐く。とどめの一撃は巨体を包む炎をより大きくし、大猿はついに動きを止め倒れ込んだ。
燃え盛る蒼炎は断末魔すらその中に飲み込むと、やがて塵のように消えていった。炎が森へと広がることはなく、あとに残ったのは焦げた死体のみだ。
「さて」
動かなくなったことを確認したイーシャはクローヴィアを振り返った。
「改めて問うが、無事だな?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
クローヴィアはほっとしたように微笑んだ。イーシャは影の落ちたその表情を訝しむように見ていたが、やがて首を振った。
「まあいい。まずは飯にしよう。そろそろ腹が空く頃だろう?」
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