26 / 59
第三章:亀千代の危機
第二十五話:千代の行動
しおりを挟む伊達屋敷を覆う一触即発の空気は、日増しに重く千代の心にのしかかっていた。
夫である左近が、この騒動の渦中に身を投じていることは、もはや疑いようもなかった。
夜ごと深まる彼の眉間の皺、時折見せる虚空を睨むような鋭い眼差し、そして何よりも、彼が纏うようになった得体の知れない緊張感。
それら全てが、千代の胸を締め付け、安らかな眠りを奪っていた。
(左近様……わたくしに何かできることはないのでしょうか……)
夫の身を案じるあまり、食事も喉を通らない日が続く。
しかし、左近の前では決してそんな素振りは見せず、いつもと変わらぬ笑顔で彼を支えることだけを心掛けていた。
彼が「昼行灯」の仮面を被り続けるためには、自分がしっかりとしなければならない。 そう自分に言い聞かせる毎日だった。
ある日の昼下がり、左近が珍しくまとまった時間、厨房の仕事で屋敷を離れることになった。
千代は、夫が少しでも心安らげるようにと、彼の部屋の念入りな掃除を始めた。畳を拭き清め、文机の埃を払い、乱れた書物を整える。そんな些細なことでしか、今の自分は夫の力になれないのだという無力感が、彼女の胸をかすめる。
ふと、文机の一番奥の引き出しが、僅かに開いているのに気づいた。
いつもはきちんと閉まっているはずなのに。 何気なくそれを直そうとした千代の手が、引き出しの奥に隠すように置かれた古い帳面に触れた。
それは、左近が時折何かを書きつけていた、あの帳面だった。
(これは……左近様の……)
見るべきではない。 そう頭では理解していた。夫の秘密を暴くような真似はしたくない。
しかし、彼を心配するあまり、そして何か少しでも彼の力になりたいという切なる思いが、千代の指を動かした。
千代は、吸い寄せられるように、その帳面をそっと手に取った。
帳面を開くと、そこにはびっしりと、左近の几帳面な筆跡で伊達家の家臣たちの名が書き連ねられていた。
それぞれの名前の横には、所属する派閥を示すかのように赤や青の墨で印がつけられ、「要注意」「甲斐派」「兵部派」といった書き込みや、人物評のような短い記述も見える。中には、伊達亀千代毒殺未遂事件に関すると思われる記述や、原田甲斐、伊達兵部の名前も、ひときわ大きく記されていた。
千代は、息を飲むほどの衝撃を受けた。
これは、単なる料理人の覚え書きなどではない。伊達家の内情を探るための、詳細な調査記録そのものだった。
夫が、これほどまでに深く、そして危険なことに関わっているという事実を改めて突きつけられ、全身の血の気が引くのを感じた。
震える手で頁を繰っていくと、不意に、見慣れた名前が目に飛び込んできた。
「兄さん……?」
そこには、兄である今川徳松の名前があった。
そして、その名前の横には、他の家臣たちとは違う、特別な印がつけられている。さらに、左近の筆跡で、「猫」「情報源?」「純粋故、巻き込むべからず」といったような、短い言葉が添えられていた。
(兄さんまで……左近様の何かに…… ?
でも、「巻き込むべからず」…… ?)
千代の心は、激しく揺れ動いた。
兄が左近の活動に何らかの形で関わっている、あるいは関わる可能性があることを知り、兄の身の安全も案じられた。
しかし同時に、左近が兄を「信頼できる」存在として認識しつつも、「巻き込みたくない」と案じていることに複雑な安堵と、そして自分だけが何も知らされず蚊帳の外に置かれているような、ほんの少しの寂しさを感じずにはいられなかった。
(左近様は、わたくしだけでなく、兄さんのことも守ろうとしていらっしゃるのね……)
その事実は、夫への深い愛情と信頼を再確認させると同時に、左近の背負う秘密のあまりの重さに、千代の胸を押し潰さんばかりだった。
自分は、こんなにも無力で、ただ夫の身を案じることしかできないのか。
しばらくの間、千代はその場に立ち尽くしていた。 帳面を元の場所に戻すべきか、それともこのまま左近に問いただすべきか。
しかし、問い詰めたところで、左近はきっと何も語ってはくれないだろう。
そしてそれは、左近をさらに苦しめるだけかもしれない。
やがて、千代は静かに帳面を閉じ、元の引き出しの奥へとそっと戻した。
そして、何事もなかったかのように、部屋の掃除を再開した。
千代は、何も見なかったことにしようと決めたのだ。 夫が自分に語ってくれるまでは、ただ黙って彼を信じ支え続ける。
それが、今の自分にできる唯一のことなのだと。
しかし、千代の心には新たな決意が芽生え始めていた。
ただ待つだけでなく、自分にも何かできることがあるのではないか。
夫や兄が巻き込まれているこの騒動の渦の中で、たとえ小さな力でも、彼らを守るために何かできることがあるはずだと。
その思いは、まだ漠然としたものだったが、千代の瞳の奥に、これまでにない強い光を灯らせ始めていた。
伊達屋敷の闇は深く、夫の戦いは過酷だ。
だが、自分は決して無力ではない。 そう信じたいと、千代は強く願った。
12
あなたにおすすめの小説
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
アガルタ・クライシス ―接点―
来栖とむ
SF
神話や物語で語られる異世界は、空想上の世界ではなかった。
九州で発見され盗難された古代の石板には、異世界につながる何かが記されていた。
同時に発見された古い指輪に偶然触れた瞬間、平凡な高校生・結衣は不思議な力に目覚める。
不審な動きをする他国の艦船と怪しい組織。そんな中、異世界からの来訪者が現れる。政府の秘密組織も行動を開始する。
古代から権力者たちによって秘密にされてきた異世界との関係。地球とアガルタ、二つの世界を巻き込む陰謀の渦中で、古代の謎が解き明かされていく。
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
あまりさんののっぴきならない事情
菱沼あゆ
キャラ文芸
強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。
充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。
「何故、こんなところに居る? 南条あまり」
「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」
「それ、俺だろ」
そーですね……。
カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。
剣術科の私と魔術科の冴えない僕
ノン・タロー
恋愛
冒険者ギルドの支援を受けた私立グレイス学園の剣術科で学ぶ一人の少女こと「レオナ・ラルクス」は、長年陰キャで冴えない見た目の魔術科の生徒、「ハルト・アーヴェル」に秘めた想いを抱いていた。
その始まりはまだ幼い頃、レオナが野良犬に襲われそうになった時、ハルトが勇気を振り絞って必死に彼女を守ってくれた瞬間かから彼女はずっとハルトに片思いをし続けていた。
しかし、一方のハルトはレオナをただの仲のいい女友達としか思っておらず、レオナもまた一歩を踏み出す勇気が持てずにいたため、二人の関係は未だにただの幼馴染のまま……。
そんなある日、レオナはハルトが誰かに告白するという噂を耳にする。
結果的にはハルトはフラれ、レオナは内心ホッとするも、このままではいつか彼は本当に誰かのものになってしまうかもしれないと言うそんな焦りが彼女の胸を締め付ける。
そして、魔物討伐やギルドからの課題をこなす日々の中で、レオナの恋心は次第に溢れ出していく。
学園から下されるクエストをこなしていくの最中で訪れる小さな変化――ハルトとの距離が少しずつ近づき、時には離れるなど未だ不安定で揺れる関係。
トラブルや様々な試練を乗り越えるうちに、レオナはついに「ただの幼馴染で終わるわけにはいかない」と決意する。
二人は関係を進め両思いとなれるのか、はたまた幼馴染のままで終わるのか……。
この夏、抑えていた恋心が動き出そうとしていた。
200万年後 軽トラで未来にやってきた勇者たち
半道海豚
SF
本稿は、生きていくために、文明の痕跡さえない200万年後の未来に旅立ったヒトたちの奮闘を描いています。
最近は温暖化による環境の悪化が話題になっています。温暖化が進行すれば、多くの生物種が絶滅するでしょう。実際、新生代第四紀完新世(現在の地質年代)は生物の大量絶滅の真っ最中だとされています。生物の大量絶滅は地球史上何度も起きていますが、特に大規模なものが“ビッグファイブ”と呼ばれています。5番目が皆さんよくご存じの恐竜絶滅です。そして、現在が6番目で絶賛進行中。しかも理由はヒトの存在。それも産業革命以後とかではなく、何万年も前から。
本稿は、2015年に書き始めましたが、温暖化よりはスーパープルームのほうが衝撃的だろうと考えて北米でのマントル噴出を破局的環境破壊の惹起としました。
第1章と第2章は未来での生き残りをかけた挑戦、第3章以降は競争排除則(ガウゼの法則)がテーマに加わります。第6章以降は大量絶滅は収束したのかがテーマになっています。
どうぞ、お楽しみください。
お茶をしましょう、若菜さん。〜強面自衛官、スイーツと君の笑顔を守ります〜
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
陸上自衛隊衛生科所属の安達四季陸曹長は、見た目がどうもヤのつく人ににていて怖い。
「だって顔に大きな傷があるんだもん!」
体力徽章もレンジャー徽章も持った看護官は、鬼神のように荒野を走る。
実は怖いのは顔だけで、本当はとても優しくて怒鳴ったりイライラしたりしない自衛官。
寺の住職になった方が良いのでは?そう思うくらいに懐が大きく、上官からも部下からも慕われ頼りにされている。
スイーツ大好き、奥さん大好きな安達陸曹長の若かりし日々を振り返るお話です。
※フィクションです。
※カクヨム、小説家になろうにも公開しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる