【バレンタインデー記念】ビター・チョコレート・アンサンブル ~傷跡とリボン、そして甘い約束 ~

月影 流詩亜

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第1話 女王の憂鬱と最高級のベルギーチョコ

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【 視点:逢坂貴子おうさか たかこ 】


​ 二月十四日の朝、私の部屋はひどく静かだった。
​ 広すぎる洋室の窓からは、冬の澄んだ空が見える。足元の床暖房が効いているはずなのに、指先は氷のように冷たい。
 私はドレッサーの前に座り、鏡の中の自分を品定めするように見つめた。
​ 一分の隙もなく整えられた黒髪、計算されたナチュラルメイク、そして海外ブランドのツイードのセットアップ。
 どこに出しても恥ずかしくない、県議会議員・逢坂の娘としての「完璧な私」がそこにいた。

​「……悪くないわ」

​ 独り言が、吸音性の高い壁に吸い込まれて消える。
 この家には、生活音というものが欠けている。父は選挙の準備でホテル住まい、母も付き添いで不在。家政婦が淹れた紅茶の香りが微かに漂うだけで、人の気配がしない。

​ けれど、今日はそんな孤独を嘆く日ではない。
 私はドレッサーの横に置いた、小さな紙袋に視線を移した。
​ 黒地に金色の箔押しがされた、重厚なパッケージ。

 『ルビー・ロワイヤル』

 ベルギー王室御用達のショコラティエが、このシーズンのためだけに作った限定品だ。たった四粒で、普通の高校生のお小遣い一ヶ月分が吹き飛ぶ値段。

​ 父のコネを使って手に入れたこの宝石のようなチョコレートこそが、能美奏太のうみ かなたくんにふさわしい。

​ 奏太くんは、特別だ。

 成績優秀で、スポーツも万能。クラスの誰からも好かれるリーダーシップを持ちながら、決して驕ることもない。

 彼のような人間こそが、将来私のような「選ばれた人間」の隣に立つべき存在なのだ。

​ それなのに……

​「……どうして、あの子なのよ」

​ ふいに湧き上がった苛立ちが、私の唇を歪ませた。
 青山詩乃あおやま しの

 地味で、要領が悪くて、いつも何かに怯えているような小動物のような女。
​ 小学校の頃、彼女はいつも薄汚れた三毛猫のぬいぐるみを抱えていた。

 『ミケ』とかいう、名前すら安直なその人形に話しかけ、自分の殻に閉じこもる姿は、私には到底理解できなかった。

​ 弱さは罪だ。

 自分の足で立てない人間が、他人に甘えるなんて許されない。

 だから私は、彼女に「現実」を教えてあげたのだ。人形遊びなんて恥ずかしいことだと、何度も、何度も。

​ それなのに、高校生になった今、奏太くんの隣にいるのは私ではなく、あの青山詩乃だった。

​ 間違いだわ。

 世界がバグを起こしているとしか思えない。

 あんな、ぬいぐるみがなきゃ息もできないような依存心の塊が、奏太くんを支えられるはずがない。彼が彼女を選んだのは、きっと一時的な同情か、魔が差しただけ。

​ ブブッ、とスマートフォンが震えた。

 画面には『羽田』の名前。私の取り巻きの一人だ。

​『貴子様、おはようございます!
 情報入りました。青山詩乃、昨日の夕方にスーパーで製菓材料を買っていたそうです』

『あと、百均でラッピング袋も買ってたみたいです。笑っちゃいますよね』

​ 続いて、古淵からもメッセージが入る。

​『奏太くん、今日は駅前の時計台広場で誰かを待ってるみたいです。まだ一人です!』

​ 私は画面を見て、ふんと鼻を鳴らした。

​「スーパーの材料に、百均の袋……?」

​ 想像するだけで頭痛がする。

 衛生管理も怪しい手作りチョコなんて、ただの自己満足の押し付けだ。温度管理(テンパリング)も知らない素人が作った泥団子を、大切な奏太くんの口に入れさせるわけにはいかない。

​ これは、私の恋路のためだけじゃない。

 奏太くんを守るための、正義の行動なのだ。

​ 彼には「本物」が必要だ。

 一流の味、一流の品格、そして一流のパートナー。

 それを理解させてあげられるのは、私しかいない。

​「……行きましょう」

​ 私は立ち上がり、『ルビー・ロワイヤル』の入った紙袋を手に取った。

 ずしりとした重みが、私の正当性を証明しているようだった。

​ 部屋を出て、広い玄関ホールへ向かう。

 運転手が「お車を出しましょうか」と声をかけてきたが、私は首を横に振った。

​「いいえ、今日は電車で行くわ」

​「は? しかし……」

​「いいのよ。今日はそういう日だから」

​ 運転手が困惑するのを尻目に、私はハイヒールを鳴らして外へ出た。

 冷たい二月の風が頬を刺す。

​ 黒塗りの高級車で乗り付けるのは簡単だ。でも、今日は違う。

 私は「同じ目線」で、けれど「圧倒的な格の違い」を見せつけなければならない。

 庶民的なデートスポットである時計台広場に、この私が自らの足で降り立つ。その行為そのものが、奏太くんへの最大の贈り物になるはずだ。

​ カツ、カツ、カツ

​ アスファルトを叩くヒールの音が、心地よいリズムを刻む。

​ 待っていて、奏太くん。

 そして、覚悟しなさい、青山詩乃。

​ 今日、あなたのその安っぽいおままごとを終わらせてあげる。

 ミケとかいう薄汚れた人形も、手作りの不格好なチョコも、私のこの「完璧な愛」の前では、ゴミ同然だということを思い知らせてあげるわ。

​ 私は胸を張り、戦場へと向かう女王のように、駅への道を歩き出した。
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