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第一話:春香の章「桜の褥(しとね)と、ほどけぬ絆」
しおりを挟む外は、冬を追い出すための「催花雨」が静かに降り続いていた。
桃華の家の和室には、立派な七段飾りが鎮座している。緋毛氈の赤が目に鮮やかで、お内裏様とお雛様は、何事も悟りきったような無機質な笑みを浮かべていた。
「……ねえ、これ、本当に甘酒?」
私は手元の猪口を見つめ、微かに首を傾げた。喉を通る時、とろりとした甘さの奥に、鼻に抜けるような熱い刺激がある。
「そうよ。蔵元から取り寄せた、特別な『白酒』。春香、顔が赤いけれど大丈夫?」
桃華が、いつものおっとりとした仕草で、私の猪口に並々と白い液体を注ぎ足した。
「大丈夫、なはず……なんだけど」
私は視線を落とした。目の前の小皿には、食べかけの桜餅が一つ。塩漬けされた桜の葉の香りが、いつもより強く鼻腔をくすぐる。
「……和真くん、雨で練習休みになったって」
ポツリとこぼれた言葉は、自分でも驚くほど湿り気を帯びていた。
和真くん。
家が隣で、物心ついた時から一緒にいた。
彼は私にとって、空気のように自然で、けれど片時も忘れることのできない存在だ。
『春香はさ、本当にお雛様みたいだよな。お淑やかで、見てるだけで安心するっていうか』
先週、図書室で彼に言われた言葉が、白酒の熱と一緒に胸の奥で疼き出す。
彼は褒めてくれたつもりなのだろう。
けれど、その言葉の裏側には「手出ししにくい聖域」のような壁を感じてしまう。
彼は私を「女」としてではなく、「壊してはいけない置物」か、あるいは「聞き分けの良い妹」として見ている。
「……和真くんのバカ」
無意識に口から漏れた言葉に、隣で蓬餅を頬張っていた美春が「おっ、春香が毒吐いた!」と茶化す声が聞こえる。
「……だって、そうでしょう?
あのマネージャーの子に告白されそうだって、私に相談してくるなんて。
私がどんな顔で『和真くんなら、きっと上手くいくよ』って言ったか、あいつ、全然わかってない」
二杯目の猪口を飲み干すと、視界がわずかに揺れた。
いつもなら、こんなことは絶対に言わない。
私は「しっかり者の春香」でいなければならないから。和真くんの隣で、一番の理解者として微笑んでいなければならないから。
でも、今日は雛祭りだ。
女の子が主役の日で、雨が降っていて、そしてこの白酒が、私の理性を少しずつ、桜の花びらのように散らしていく。
「私……お雛様みたいに、座って笑ってるだけなんて嫌なの。……ねえ、桃華。私、今日だけは『いい子』をやめてもいいかな?」
桜餅の葉を指先でなぞりながら、私は自分でも見たことがないような熱い視線を、雨に煙る庭へと向けた。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
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