44 / 63
第七章 : デジタルの迷宮
第40話 コードネーム・イカロス
しおりを挟む須田和夫さんの無罪判決から数ヶ月が過ぎ、御門法律事務所にはようやく日常と呼べる穏やかな時間が流れていた。
あれほど積み重なっていた須田事件関連の書類も整理され、英里香のデスクの上も久方ぶりに本来の木目が見える面積を増やしていた。
膨大な資料と格闘する日々から解放され、溜まっていた法律専門誌に目を通す余裕すら生まれ始めていた。
午後の柔らかな日差しが大きな窓から差し込み、事務所内を暖かく照らす。
壁の時計が午後三時を指そうとした、その時だった。 受付からの内線が、静寂を破った。
「先生、緊急で面会を希望されている女性がいらっしゃるのですが…かなり、切羽詰まったご様子でして」
事務員の少し緊張した声に、英里香は訝しげに眉を寄せた。 アポイントメントはないはずだ。
「……分かったわ。応接スペースにお通しして」
受話器を置き、軽く身なりを整えて応接スペースへ向かう。ソファには、小柄な女性が深く腰掛けていた。
年の頃は三十代前半だろうか。 シンプルなスーツを着ているが、着こなしには構う余裕がなかったのか、少し乱れている。
何より目を引いたのは、その憔悴しきった表情と、深く落ち窪んだ目の下の隈だった。
まるで何日も眠れていないかのように、彼女の肩は小さく震えていた。
「お待たせいたしました。弁護士の大江戸です」
英里香が名乗ると、女性は弾かれたように顔を上げ、縋るような目で英里香を見つめた。
「あ…大江戸先生……!突然申し訳ありません!私、高村沙織と申します!」
彼女は慌てて立ち上がり、深々と頭を下げた。
その声は震え、今にも泣き出してしまいそうだった。
「どうぞ、おかけください。落ち着いて、お話しいただけますか?」
英里香は穏やかに促し、彼女の向かいに腰を下ろした。
沙織と名乗った女性は、再びソファに腰を下ろすと、震える手で膝の上に置いたハンドバッグを握りしめた。
「あの…先生、弟を…どうか、弟を助けてください……!」
絞り出すような声だった。
「弟さんが、どうかされたのですか?」
「逮捕…されてしまったんです。産業スパイの容疑で…!」
沙織の目から、堪えていた涙がぽろぽろと零れ落ちた。
彼女の話を整理すると、こうだった。
弟の名は高村亮、28歳。急成長中の大手IT企業「ネオ・フロンティア」で働く、将来を有望視されたシステムエンジニア。
その亮が、現在会社が総力を挙げて開発中の最先端AI基幹システム ── コードネーム「イカロス」の設計に関する機密情報を、ライバル企業である「サイバーダイナミクス」に漏洩した疑いで、数日前に逮捕されたというのだ。
「警察は亮のパソコンから、情報が送られた証拠が見つかったって……それに、亮の口座に、事件の直前に大金が振り込まれていた、とも……」
沙織は俯き、消え入りそうな声で続けた。
警察から聞かされた状況証拠は、あまりにも弟に不利なものばかりだった。
彼女自身、その事実に打ちのめされ、絶望の淵に立たされているようだった。
「でも……!信じてください、先生!あの子がそんなことするはずないんです!」
沙織は再び顔を上げ、必死の形相で訴えた。
「亮は……昔から、コンピューターのことしか頭にないような子で。 賞金が出るプログラミングのコンテストで優勝しても、賞金には全然興味を示さなくて、もらったトロフィーの方が嬉しいって笑うような……そんな子なんです!
お金のために、会社を裏切るなんて……!
誰かを陥れるなんて、絶対に、絶対にできる子じゃありません!」
彼女の言葉には、姉としての強い確信がこもっていた。
弟は不器用で、人付き合いは苦手かもしれないが、技術に対しては誰よりも純粋で、誠実な人間なのだと。
「きっと…誰かにはめられたんです!
あの子の才能を妬んだ誰かに……! どうか、先生のお力で、弟の無実を証明してください……!」
英里香は、沙織の言葉に静かに耳を傾けながら、思考を巡らせていた。
「高村亮」……その名前には、どこか聞き覚えがあった。以前、兄の巧か、あるいは姉の明日菜が、雑談の中で口にしていたような気がする。
「ネオ・フロンティアに、面白い若手がいる。まだ若いが、AI分野で突出した才能を持っている」と。
状況証拠は、確かに高村亮を指し示している。しかし、姉が語る人物像と、産業スパイという犯罪の間には、あまりにも大きなギャップがあった。 そして、姉の必死の訴えは、英里香の心を強く打った。この女性は、心の底から弟の無実を信じている。
(状況証拠が揃いすぎている……まるで、彼が犯人であるかのように、お膳立てされているような…)
須田事件の記憶が脳裏をよぎる。
先入観は禁物だが、違和感は拭えない。
デジタル証拠が中心となるであろうこの事件は、これまでの経験とはまた違う難しさがあるだろう。
相手は巨大IT企業とそのライバル企業。 一筋縄ではいかないことは明らかだった。
英里香は、目の前の憔悴しきった女性を真っ直ぐに見据えた。
「お気持ち、お察しします。 お話を聞く限り、非常に困難な事件になることは間違いありません。立証の壁は、相当に高いでしょう」
沙織の顔に、一瞬絶望の色がよぎる。
しかし、英里香は続けた。
「それでも…もし、あなたが心の底から弟さんの無実を信じるのであれば、私たち御門法律事務所が、全力でお力になります」
「…!ほ、本当ですか…?」
沙織の目に、微かな光が宿った。
「ええ。ただし、厳しい戦いになる覚悟はしておいてください。 私たちは、あらゆる可能性を探り、真実を追求します」
「ありがとうございます……!先生、本当にありがとうございます…!」
沙織は再び涙を流し、何度も何度も頭を下げた。
沙織が、少しだけ安堵の表情を取り戻して事務所を後にすると、英里香はすぐにデスクの電話を取った。相手は大江戸グループ中央研究所の兄、巧だ。数回のコールの後、ややぶっきらぼうな兄の声が聞こえた。
『…なんだ、英里香か。珍しいな、昼間に』
「巧兄さん、ちょっと厄介な事件を引き受けることになったの。
兄さんの専門知識が必要なのよ。
デジタルフォレンジックの協力をお願いしたいのだけれど」
『デジタルフォレンジック?
また面倒そうな案件だな…内容は?』
英里香は、先ほどの沙織の話を掻い摘んで説明した。
「……ネオ・フロンティアのシステムエンジニア、高村亮って名前、覚えてる?」
受話器の向こうで、巧が息を呑む気配がした。
『高村亮…ああ、あの若手か。彼が、産業スパイ容疑?……それは、少し妙だな』
巧の反応に、英里香は自分の直感が間違っていなかったことを確信する。
複雑に絡み合ったデジタルの糸を解きほぐし、迷宮の奥に隠された真実を探り出す。
新たな、そして手強い戦いの幕が静かに上がろうとしていた。
0
あなたにおすすめの小説
【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜
一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m
✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。
【あらすじ】
神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!
そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!
事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます!
仕事繁忙期の為、2月中旬まで更新を週一に致します。
カクヨム(吉野 ひな)様にも投稿しています。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます
腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった!
私が死ぬまでには完結させます。
追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
ネグレクトされていた四歳の末娘は、前世の経理知識で実家の横領を見抜き追放されました。これからはもふもふ聖獣と美食巡りの旅に出ます。
旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
アークライト子爵家の四歳の末娘リリアは、家族から存在しないものとして扱われていた。食事は厨房の残飯、衣服は兄姉のお下がりを更に継ぎ接ぎしたもの。冷たい床で眠る日々の中、彼女は高熱を出したことをきっかけに前世の記憶を取り戻す。
前世の彼女は、ブラック企業で過労死した経理担当のOLだった。
ある日、父の書斎に忍び込んだリリアは、ずさんな管理の家計簿を発見する。前世の知識でそれを読み解くと、父による悪質な横領と、家の財産がすでに破綻寸前であることが判明した。
「この家は、もうすぐ潰れます」
家族会議の場で、リリアはたった四歳とは思えぬ明瞭な口調で破産の事実を突きつける。激昂した父に「疫病神め!」と罵られ家を追い出されたリリアだったが、それは彼女の望むところだった。
手切れ金代わりの銅貨数枚を握りしめ、自由を手に入れたリリア。これからは誰にも縛られず、前世で夢見た美味しいものをたくさん食べる生活を目指す。
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
一億円の花嫁
藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。
父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。
もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。
「きっと、素晴らしい旅になる」
ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが……
幸か不幸か!?
思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。
※エブリスタさまにも掲載
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる