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第七章 : デジタルの迷宮
第45話 内部からの声
しおりを挟む高村亮に対する個人的な悪意。
英里香の視点がそこへ定まってから、事件の様相は微妙に変化し始めていた。
デジタルな証拠の海にばかり目を向けるのではなく、人間の感情、特に嫉妬や憎悪といった暗い部分に焦点を当てる。
その中心にいるであろう人物は、やはり亮の上司であり、セキュリティ部門の責任者でもある佐伯だった。
しかし、彼を追い詰めるための具体的な証拠は何一つない。
どうすれば、あの温和な仮面の下に隠された本性を暴けるのか……。
英里香が事務所でひとり、思考の袋小路に入り込みかけていた、その時だった。
チリン、と控えめな通知音が鳴り、英里香の業務用PCの画面隅に新着メールの表示が出た。
差出人の欄は空白。件名もない。本文にも何の記述もなく、ただ一つ、厳重にパスワードでロックされたzipファイルが添付されているだけだった。
(……怪しいわね)
英里香は眉をひそめた。ウイルスやマルウェアの可能性もある。
すぐに巧に連絡を取り、画面を共有しながら指示を仰いだ。
巧は、リモートでメールのヘッダー情報や送信経路を解析し、
『……これは、通常の経路を辿っていない。
複数の匿名サーバーを経由し、高度な暗号化が施されている。
送信元を特定するのは不可能に近い。
だが、ウイルスチェックの結果は陰性だ。
注意深く、スタンドアロンの環境で開いてみよう』と指示を出した。
英里香は巧の指示に従い、ネットワークから切り離した検証用のPCで、添付ファイルの解凍を試みた。
巧から伝えられた、いくつかの解析によって導き出されたパスワードを入力すると、ファイルは音もなく開いた。
中には、一つのテキストファイルと、いくつかの断片的なデータファイルが入っていた。
英里香は、まずテキストファイルを開いた。
そこに記されていたのは、衝撃的な告発だった。
『私は、ネオ・フロンティアの内部の者です。
良心の呵責に耐えかね、このメールを送ります。 高村亮氏は無実です。
彼を産業スパイに仕立て上げ、その未来を奪ったのは、現・セキュリティ部門統括の佐伯です』
文章は、簡潔ながらも強い怒りと恐怖が滲んでいた。
佐伯が高村の突出した才能を異常なまでに妬み、自身の社内での立場が脅かされることを極度に恐れていたこと。
そして、自らが持つセキュリティ責任者としての特権を悪用し、高村のPCへの不正アクセス、機密データの窃取、そしてその罪を高村になすりつけるための巧妙なログ改ざんを行ったこと。
さらに、その見返りとしてライバル企業であるサイバーダイナミクスから多額の金銭を受け取っていたことなどが、内部の人間でなければ知り得ない具体性をもって綴られていた。
『これが、私の言葉が真実であることの証拠の一部です』
テキストファイルに続いて、英里香は他のデータファイルを開いた。
そこには、巧が偽装を疑っていたサーバーログの、改ざん前のものと思われる断片的なデータ。 佐伯が不正アクセスやログ改ざんに使用したと思われる、通常では記録に残らないはずの特殊なコマンドの実行履歴の一部。
そして、佐伯とサイバーダイナミクスの関係者との間で交わされたと見られる、暗号化されたチャットのログの一部が含まれていた。
チャットの内容は断片的で、核心的な部分は伏せられていたが、両者の間に裏取引があったことを強く示唆するものだった。
テキストファイルは、こう締めくくられていた。
『恐ろしくて、私は名乗り出ることはできません。 佐伯の社内での権力、そして彼の背後にいるかもしれない者たちの報復を考えると、身が竦みます。
しかし、前途ある若者が、このような卑劣な罠によって犠牲になるのを見過ごすことは、どうしてもできませんでした。
どうか、この情報が真実を明らかにするための一助となることを願っています』
英里香は、読み終えると、深く息をついた。
匿名ではあるが、この告発には強いリアリティと、告発者の悲痛な覚悟が感じられた。
すぐに巧と嵐に連絡を取り情報を共有した。
巧は送られてきたログの断片データを解析し、興奮した声で報告してきた。
『間違いない、英里香!
このログのフォーマットと内容は、我々が掴んでいた偽装の痕跡と完全に符合する!
これは本物である可能性が極めて高い!』
嵐もまた、告発内容に目を通し、これまでの調査結果と照らし合わせながら言った。
「佐伯の動機、手口…俺たちが掴んでた状況証拠とも一致する。これでターゲットは完全に絞れたな」
匿名情報ではあるが、その信憑性は高い。
手詰まりかと思われた状況に、一条の光が差し込んだのだ。
チームの間に張り詰めた、しかし確かな高揚感が生まれていた。
「よし…」嵐は拳を握りしめた。
「こうなれば話は早い。 佐伯の金の流れ、サイバーダイナミクスとの接触証拠、ギャンブル癖、過去の職場で起こしたトラブル、女関係…洗いざらい、徹底的に洗ってやる。
どんな人間にも、必ず隠したい秘密や弱みがある。そこを突けば、必ずボロを出すはずだ」
嵐はすぐさま情報屋や協力者たちに指示を飛ばし、佐伯に対するローラー作戦とも言える、徹底的な身辺調査を開始した。
英里香は、告発者からのメールをもう一度読み返した。
恐怖と戦いながら、勇気を振り絞って送られてきたであろう「内部からの声」。
それは間違いなく、事件解決に向けた大きな一歩だった。
しかし、課題もまた明確になった。
この告発者は、法廷で証言することは望めないだろう。
提供された証拠も、それだけでは佐伯を断罪するには決定打を欠く。
「内部告発…これは大きな手がかりよ。
でも、法廷で通用する、動かぬ証拠…最後の決定打は、私たち自身の手で掴み取るしかないわね」
英里香は、決意を新たにした。
匿名告発者の勇気を無駄にはしない。
公判を前に、反撃の準備は整った。
あとは、佐伯という男の化けの皮を法廷という舞台で完全に剥ぎ取るための確実な一撃を見つけ出すだけだ。
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