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第七章 : デジタルの迷宮
第46話 法廷での攻防
しおりを挟む202X年、初夏の陽光が差し込む東京地方裁判所、第XXX号法廷。産業スパイ事件として注目を集める、高村亮の第一回公判が開廷された。
傍聴席は、事件の異例な展開を報じるメディア関係者と、固唾を飲んで成り行きを見守る一般傍聴人で埋め尽くされていた。
最前列には、ハンカチを握りしめ、祈るように被告人席を見つめる姉・沙織の姿があった。
被告人席に座る高村亮は、逮捕からの数ヶ月でやつれ、表情には深い疲労と不安の色が滲んでいた。
しかし、その瞳の奥には自身の潔白を信じる強い意志の光が宿っており、背筋を伸ばしてまっすぐに前を見据えている。
隣には、弁護人である大江戸英里香が落ち着いた様子で座っていた。
「開廷します」
裁判長の厳かな声が響き、法廷は静まり返る。
検察官がすっくと立ち上がり、起訴状を朗読した後、冒頭陳述を開始した。
「被告人、高村亮は大手IT企業ネオ・フロンティア社のシステムエンジニアとして、最先端AI『イカロス』の開発という重要なプロジェクトに従事しておりました。
しかし被告人は、その職務上の地位を悪用し、自己の技術に対する過信と金銭欲から極めて機密性の高い『イカロス』の設計情報を不正に取得。
ライバル企業であるサイバーダイナミクス社に漏洩し、その見返りとして多額の金銭を受け取ったものであります」
検察官は、よどみない口調で続けた。
「被告人の社用パソコンからは、サイバーダイナミクス社に関連するサーバーへ機密情報が送信された明確なログデータが検出されております。
さらに、事件直後、被告人の個人口座には、追跡困難な方法で一千万円もの大金が振り込まれておりました。
これらの客観的かつ動かし難い証拠は、被告人の犯行を明確に示しております」
自信に満ちた声で、検察官は状況証拠の強さを強調し、高村亮を「自らの才能に溺れ、社会の信頼を裏切った犯罪者」として断罪した。
罪状認否で、亮はか細いながらもはっきりとした声で「やっていません」と述べ、無罪を主張。
続いて、英里香が弁護側の冒頭陳述に立った。
「検察官が指摘された状況証拠、すなわちデジタルデータと金の流れですが、これらはいずれも極めて曖昧であり、容易に第三者による操作・偽装が可能なものです」
英里香は、裁判官と、そして傍聴席全体を見渡し、落ち着いた、しかし強い意志のこもった声で語り始めた。
「デジタルデータは、その客観性とは裏腹に、専門的な知識があれば改ざんや偽装が可能です。
また、匿名性の高い送金手段を用いれば、あたかも本人が受け取ったかのように見せかけることも不可能ではありません。
弁護側は本件において、被告人・高村亮が、何者かによって周到に仕組まれた悪意ある罠にはめられた可能性が極めて高いと考えております。
今後の審理において、その点を明らかにしてまいります」
証拠調べが始まり、検察側は送信ログのデータや銀行の取引記録などを次々と提出し、その証拠能力を主張した。
そして、弁護側の証拠調べ。英里香は、専門家証人として大江戸巧の尋問を申請し許可された。
白衣姿の巧が、落ち着いた足取りで証言台に進み出る。
英里香の主尋問に対し、自身の経歴とデジタルフォレンジックの専門家としての立場を述べた後、本題に入った。
「検察側が提出された、高村氏のPCからのデータ送信ログですが、詳細な解析の結果、いくつかの極めて不自然な点が発見されました」
巧は、法廷内に設置された大型モニターに、解析データを分かりやすく可視化したグラフや図を表示させながら説明を始めた。
「第一に、ログの記録形式です。
この種の重要なデータ送信であれば、通常記録されるはずの関連システムログが不自然なほど欠落しています。
第二に、送信プロセスそのものが、高村氏の過去のプログラミングスタイルや行動パターンと比較して、著しく単純かつ稚拙です。
そして第三に、データ送信があったとされる時刻とほぼ同時に、外部の匿名サーバーから、高村氏のアカウントを用いた基幹サーバーへの不正アクセスが記録されています。
しかし、この不正アクセスログ自体にも、後から誰かが意図的に追記したような不自然な痕跡が見られます」
巧は難解な専門用語を避け、裁判官や傍聴人にも理解できるよう、丁寧な言葉を選びながら続けた。
「これらの複数の不自然な状況を合理的に説明するためには、単なる操作ミスや偶然では不可能です。
我々の分析によれば、これは第三者が高度な技術を用いて意図的にログデータを改ざん、あるいは偽装し、『高村氏が犯人であるかのように見せかけようとした』可能性を強く、強く示唆しています」
法廷内が、ざわめきに包まれた。
巧の証言は、検察側が「動かぬ証拠」として提示したデジタルデータの信頼性を根底から揺るがすものだった。
すかさず、検察官が鋭い目つきで反対尋問に立った。
「証人は、あくまで『可能性』を指摘されているに過ぎませんね?
偽装工作があったと断定できるのですか?」
「外部からの不正アクセスがあったとしても、それが高村氏の無実を直接証明するものにはならないのではないですか?」
「そもそも、証人は被告人弁護士の実兄である。その解析結果には、被告人に有利な結論を導こうとするバイアスがかかっている、とは考えられませんか?」
検察官は、専門的な角度から次々と厳しい質問を浴びせ、巧の証言の信用性を切り崩そうと試みる。
しかし、巧は一切動じることなく、冷静沈着に、そして科学的根拠に基づいて一つ一つの質問に答えていった。
「科学的な分析に基づき、客観的な事実と統計的な蓋然性を述べています。
断定はできませんが、この状況下で最も合理的な推論が偽装工作である、ということです」
「私の解析手法は、第三者機関による検証も可能な、国際的な標準に則ったものです。
個人的な感情が入り込む余地はありません」
専門家同士の火花散る応酬に、法廷内の誰もが息をのむ。
裁判長は、ペンを走らせながら両者の主張に真剣に耳を傾けていた。
その表情は厳しく、まだどちらに傾いているのか、窺い知ることはできない。
弁護側の主張に一理あることは認めているようだが、高村亮の無実を確信させるまでには至っていない。 それが、法廷全体の空気感だった。
第一回公判は、そこで閉廷となった。
英里香は確かな手応えと共に、依然として状況が厳しいことを痛感していた。
巧の証言は大きな一撃となったが、決定打ではない。
検察側の主張を完全に覆し、高村亮の無実を証明するためには、そして真犯人・佐伯の存在を法廷で明らかにするためには、さらなる証拠が必要不可欠だ。
「攻防は始まったばかりよ…」
英里香は、法廷を後にしながら、決意を新たにした。
傍聴席で涙ぐむ沙織に力強く頷きかける。
次の一手で、必ず流れを引き寄せる。
その強い意志が、英里香の瞳に宿っていた。
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