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第八章:生存権の境界線
最終話 明日への灯火
しおりを挟む港南市との和解から数ヶ月が過ぎ、季節は初夏を迎えていた。
緑が一層深まり、力強い日差しが街を照らす。あの長く苦しい戦いを終えた斎藤良雄は、「港南の暮らしを守る会」や英里香たちのサポートを受けながら、少しずつ、しかし確実に新たな一歩を踏み出していた。
支払いを受けた賠償金と正規の生活保護費を元手に彼はまず、人間らしい生活を取り戻すための基盤となる小さなアパートを借りることができた。
窓からはささやかながらも陽光が差し込み、もう隙間風に凍える心配はない。
心療内科での治療も続けながら、支援団体が運営する就労支援プログラムにも参加し始めた。
失われた時間を取り戻すことはできない。
心に残った傷が完全に癒えることもないだろう。
それでも、彼の表情には、かつての絶望の色は薄れ、未来への小さな、しかし確かな希望の灯火が宿り始めていた。
一方、港南市でも変化の兆しが見えていた。
和解条項に基づき、弁護士や学識経験者、市民団体の代表者などからなる第三者委員会が正式に設置され、福祉課の運営実態に関する徹底的な調査と、具体的な改善策の検討が始まった。
問題の中心人物であった山岡係長は、懲戒処分を受け、福祉とは無関係の部署へと異動となった。
長年、彼の威圧的な指導の下で萎縮していた福祉課の職員たちの間にも少しずつではあるが、自浄作用への意識が芽生え始めているという。
もちろん、長年根付いた組織の体質が、一朝一夕に変わるわけではない。
和解条項が確実に履行され、真の改善が進むのか、今後も注意深く見守っていく必要があった。
御門法律事務所にも、いつもの日常が戻りつつあった。
「だから、その捜査方針には穴があるって言ってるんだ!」
「穴があるのは、あなたの頭の方じゃないの?」
応接スペースからは、またしても嵐と蝶子の、事件に関する(そして時々痴話喧嘩に発展する)熱い議論が聞こえてくる。
『由利凛!また僕の研究室のサーバーに妙なプログラムを仕掛けただろう !
コピー機が突然ワープしそうになったぞ !』
モニターからは、巧の悲鳴に近い怒鳴り声と、それに続く由利凛の
「むぅ、まだ試作段階だったのじゃ…ワープ先がトイレじゃなくて良かったではないか!」
という悪びれない声が響いていた。(どうやらコピー機改造計画はまだ諦めていなかったらしい)
明日菜は、そんな騒動にも眉一つ動かさず、経営会議の資料に目を通しながら時折、英里香に的確なアドバイスを送る。
ジャンヌは、そっと皆にハーブティーを淹れて回り、穏やかな笑顔で場の空気を和ませていた。
玉井刑事も、すっかり元気になった足で、時々(相変わらず大量の)あんぱんを持って事務所に顔を出していた。
英里香は、そんな賑やかで、少し騒がしい仲間たちのいる日常に、安堵感を覚えながらも、今回の事件を通して得た新たな視点について、深く考えていた。
斎藤さんのような個人の権利を守ることは、弁護士としての根幹だ。
しかし、それだけでは足りない。
彼を苦しめたのは、港南市という一つの自治体だけでなく、生活保護制度そのものが抱える問題、国の政策、そして社会に蔓延る偏見や無関心といった、より大きな構造だった。
(個別の事件を解決するだけじゃなく、この構造そのものに働きかけていかなければ…)
法律相談だけでなく、政策提言や、市民への啓発活動、講演会…。
弁護士として、社会に対してできることは、もっとたくさんあるはずだ。
英里香の胸の内に、新たな挑戦への意欲が静かに湧き上がってくるのを感じていた。
夕暮れ時。事務所の大きな窓からは、茜色に染まり始めた東京の摩天楼が見渡せた。
無数のビルに灯りがともり始め、まるで宝石箱のようにきらめいている。
この美しい街のどこかで、今も誰かが助けを求め、声を上げられずにいるのかもしれない。
英里香は窓辺に立ち、その光景を静かに見つめていた。
守るべきもの、戦うべき相手…。
弁護士としての道は、決して平坦ではない。
時には敗北し、無力感に打ちひしがれることもあるだろう。
それでも、諦めるわけにはいかない。
その時、英里香のデスクの内線電話が軽やかな電子音を響かせた。
英里香は窓から視線を戻し、受話器を取る。
「はい、御門法律事務所、大江戸です」
電話の向こうから聞こえてきたのは、切羽詰まったような、しかしどこか助けを求める強い意志を感じさせる声だった。
新たな事件の依頼を告げる声。
英里香は、受話器を握る手に力を込めた。その瞳には、迷いのない、未来を見据えた強い光が宿っていた。
「……ええ、承知いたしました。まずは、詳しくお話をお聞かせいただけますか?」
彼女の戦いは、まだ終わらない。
この街に生きる人々のささやかな明日を守るため、法廷に、そして社会に、決意の花を咲かせ続けるために。
大江戸英里香は、再び前を向いて歩き出す。
── 終 ──
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