61 / 63
第八章:生存権の境界線
第56話 和解か、判決か
しおりを挟む石田幸子の勇気ある証言と、山岡係長の法廷での醜態は決定的な転換点となった。
連日メディアは港南市の異常な実態を報じ、世論の批判は沸騰。
湘浜県議会は調査委員会を設置し、国も特別監査の実施を発表。
港南市長は議会で連日厳しい追及を受け、市役所には全国から抗議が殺到していた。
完全に四面楚歌の状態に陥った港南市は、もはや法廷で争い続けることは不可能だと判断せざるを得なかった。
次回の公判期日を目前に控えたある日、港南市の代理人弁護士から、英里香のもとに正式に和解の申し入れがあった。
提示された和解案の骨子は、
①斎藤良雄氏に対する市長の公式な謝罪
②精神的苦痛に対する慰謝料及び未払い分の生活保護費相当額の支払い、
③福祉課の運営改善と再発防止策の実施
というものだった。
「…和解、ですか」
英里香は、代理人弁護士との電話を切った後、重いため息をついた。
法廷での勝利は目前だった。
判決で、市の違法性を司法の場で断罪し、判例として残すことの意義は大きい。
しかし裁判が長引けば、原告である斎藤の心身への負担も増大する。
そして、和解であれば、判決よりも早く具体的な救済と再発防止策の実現が期待できるかもしれない。
英里香は、すぐに斎藤と連絡を取り、港南市から提示された和解案について丁寧に説明した。
斎藤は、電話の向こうでしばらく黙り込んでいた。
長い沈黙の後、ようやく絞り出すような声で話し始めた。
「……先生、ありがとうございます。
ここまで戦っていただいて、本当に……。
和解…すれば、もう、裁判所に行かなくてもいいんですね…?
あの、山岡さんの顔を、もう見なくても……?」
彼の声には、長きにわたる戦いの疲労と、早くこの苦しみから解放されたいという切実な願いが滲んでいた。
「……でも」斎藤は続けた。
「判決で、ちゃんと市のやったことが悪いことだって、証明してほしかった気持ちも……あります。 僕みたいな思いをする人が、もう二度と出ないように……」
彼の葛藤は痛いほど伝わってきた。
「斎藤さんのお気持ち、よく分かります」
英里香は静かに言った。
「判決で市の責任を明確にすることも重要です。一方で和解であれば、金銭的な解決だけでなく、市に対して具体的な再発防止策を約束させることができます。
どちらを選ぶかは、斎藤さんご自身が決めることです。
私たちは斎藤さんの決断を尊重し、最後までサポートします」
数日後、斎藤は悩み抜いた末に、和解を受け入れることを決断した。
「先生、和解でお願いします。
でも、ただお金をもらって終わりじゃなくて、ちゃんと市に変わってほしいんです。
その約束を、しっかり取り付けてください」
その言葉を受け、英里香は御門や明日菜とも綿密に戦略を練り、港南市側との和解協議に臨んだ。
市側は早期解決を図りたい意向が強く、金銭的な条件については比較的スムーズに合意に至った。
しかし、英里香が重視したのは、今後の再発防止策の具体性だった。
「市長の謝罪は当然として、それだけでは不十分です」
英里香は市側代理人に対し、毅然とした態度で要求を突きつけた。
「①生活保護行政に関する第三者委員会を設置し、今回の事件の全容解明と、具体的な改善策を策定・公表すること。
②全職員を対象とした人権研修及び生活保護法の理念に関する研修を定期的に実施すること。
③申請権の保障を明確にするための窓口対応マニュアルを作成し、市民に公開すること。
④山岡氏に対する厳正な処分を行うこと。
これらの項目を、法的拘束力のある和解条項として明記していただきたい」
市側は当初、これらの要求に難色を示した。
「内部の人事や運営に関わることまで…」
と渋る代理人に対し、英里香は一歩も引かなかった。
「これらの約束がなければ、和解に応じることはできません。
その場合は、判決で全てを明らかにさせていただくまでです。
世論が、そして司法が、どちらを支持するかは明らかだと思いますが?」
英里香の強い姿勢と、背後にある世論の圧力を前に、市側は最終的に英里香の要求をほぼ全面的に受け入れるしかなかった。
そして、地方裁判所の和解期日。
裁判官の面前で、英里香と市側代理人が和解調書に署名し、ここに斎藤良雄と港南市の間の争いは法的に終結した。
和解内容は、斎藤への謝罪と賠償金支払い、未払い保護費の支給に加え、英里香が要求した具体的な再発防止策の実施が盛り込まれた、画期的なものとなった。
裁判所の前で、英里香は斎藤、高橋代表と共に報道陣の取材に応じた。
「今日の和解は、斎藤さん個人の権利回復だけでなく、港南市の生活保護行政を正常化させるための、大きな一歩だと信じています。
しかし、これで全てが解決したわけではありません」
英里香はマイクに向かって語りかけた。
「生活保護制度そのものが抱える課題、国の責任、そして私たちの社会に根強く残る偏見……。
解決すべき問題は山積しています。
今回の和解を、より良い社会への出発点としなければなりません」
隣に立つ斎藤は、まだ完全には笑顔を取り戻せないものの、その表情には確かな安堵と、未来への小さな光が見えた。
事務所に戻った英里香は、御門に和解の成立を報告した。
「よくやった、大江戸君。
君の粘り強い交渉が、予想以上の成果を引き出したな」
御門は労いの言葉をかけた。
「だが、君が言う通り、これで終わりではない。和解条項が確実に履行されるか、監視を続ける必要がある。
そして、この問題を風化させてはならない」
「はい」英里香は頷いた。
「個別の事件解決だけでは限界があることも痛感しました。
もっと大きな視点で、制度や社会そのものに働きかけていく必要性を感じています」
「それが、弁護士としての次のステージかもしれんな」
御門は、英里香の成長を認め、静かに微笑んだ。
その夜、事務所では、ささやかな和解成立祝いの会が開かれた。
嵐や巧、明日菜、ジャンヌ、蝶子、そして「守る会」の高橋代表も駆けつけ、斎藤の新たな門出を祝った。
そこへ、少し遅れて玉井刑事が、大きな箱を抱えてやってきた。
「先生!斎藤さん!
和解成立、本当におめでとうございます!
これ、僕が心を込めて焼きました!快気祝いのお返しも兼ねて…特製アップルパイです!」
差し出されたアップルパイは、少し形は不格好だったが、甘く香ばしい、良い匂いがした。
英里香は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐにふっと表情を和らげた。
「……ありがとう、玉井刑事。わざわざ手作りで? …まあ、せっかくだから、みんなでいただきましょうか」
英里香が珍しく素直に受け取ると、玉井刑事は満面の笑みを浮かべ、その場で感無量といった様子で固まってしまった。
達成感と、安堵感。
そして、まだ道半ばであるという現実。
様々な思いが交錯する中、英里香は窓の外に広がる夜景を見つめた。
今回の戦いで灯った小さな光を、消さずに未来へ繋いでいかなければならない。
英里香は、次なるステップへと、静かに思いを巡らせ始めた。
0
あなたにおすすめの小説
【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜
一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m
✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。
【あらすじ】
神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!
そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!
事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます!
仕事繁忙期の為、2月中旬まで更新を週一に致します。
カクヨム(吉野 ひな)様にも投稿しています。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます
腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった!
私が死ぬまでには完結させます。
追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
ネグレクトされていた四歳の末娘は、前世の経理知識で実家の横領を見抜き追放されました。これからはもふもふ聖獣と美食巡りの旅に出ます。
旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
アークライト子爵家の四歳の末娘リリアは、家族から存在しないものとして扱われていた。食事は厨房の残飯、衣服は兄姉のお下がりを更に継ぎ接ぎしたもの。冷たい床で眠る日々の中、彼女は高熱を出したことをきっかけに前世の記憶を取り戻す。
前世の彼女は、ブラック企業で過労死した経理担当のOLだった。
ある日、父の書斎に忍び込んだリリアは、ずさんな管理の家計簿を発見する。前世の知識でそれを読み解くと、父による悪質な横領と、家の財産がすでに破綻寸前であることが判明した。
「この家は、もうすぐ潰れます」
家族会議の場で、リリアはたった四歳とは思えぬ明瞭な口調で破産の事実を突きつける。激昂した父に「疫病神め!」と罵られ家を追い出されたリリアだったが、それは彼女の望むところだった。
手切れ金代わりの銅貨数枚を握りしめ、自由を手に入れたリリア。これからは誰にも縛られず、前世で夢見た美味しいものをたくさん食べる生活を目指す。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる