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第1話 その指先🐾菊を成さず
しおりを挟む 午前四時
静まり返った『長寿庵』の打ち場には、まだ夜の冷気が居座っている。
美冬は、白木の打ち台を前に深く息を吐いた。吸い込んだ空気には、蕎麦粉特有の、どこか懐かしくも厳しい香りが混じっている。
「……よし」
気合を入れ直すと、木鉢の中で粉と水が合わせられ、小さな塊が大きな玉へとまとまっていく。ここからが、美冬にとっての最大の難所だ。
……菊練り。
蕎麦玉を円錐形に立て、手のひらの付け根でリズミカルに内側へ押し込んでいく。
空気を抜き、生地の密度を均一にするための工程。正しく練られた生地は、中心から放射状に美しいひだを成し、まるで大輪の菊が咲いたような姿になる。
だが……
「……まただ」
美冬が練れば練るほど、生地の表面には無残な亀裂が走り、菊の花びらは歪んで崩れていく。
焦れば焦るほど、指先に無駄な力が入り、生地の滑らかさが失われていくのがわかった。
「そこまでだよ、美冬」
背後から飛んできたのは、冷徹な氷の礫のような声だった。
振り向かなくてもわかる。祖母であり、師匠である美夏だ。
「……おばあちゃん」
「生地が泣いているよ。お前の迷いが、そのまま形に出ている。そんな濁った菊を咲かせて、誰が喜ぶんだい?」
美夏は美冬の横に立つと、粉まみれの美冬の手をじっと見つめた。その視線は、孫娘に向ける慈愛ではなく、一人の職人に対する峻厳な裁定だった。
「代々続くこの店の蕎麦はね、『迷いのない味』なんだ。そんな震える手で打った蕎麦を、お客様に出すわけにはいかないよ」
美冬は、ギュッと拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込み、蕎麦粉が白く舞う。
母の美秋がこの家を出てから、美冬は「自分がこの店を守る」と心に決めた。けれど、現実は甘くない。伝統という名の壁は高く、自分の指先はあまりに不器用だった。
足元に、フワリとした温かい感触が触れた。
足元を見ると、いつの間にか起きてきた杏が、美冬の長靴に体を擦り付けている。
「アン、ごめんね……。今、手が粉だらけだから、撫でてあげられないんだ」
美冬が弱々しく笑いかけると、杏は「にゃあ」と短く鳴いた。その琥珀色の瞳は、まるで「大丈夫、アタシが見てるよ」とでも言いたげに、真っ直ぐに美冬を見上げていた。
冷たい打ち場の中で、杏の体温だけが、美冬の折れそうな心を辛うじて繋ぎ止めていた。
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