二八の約束🐾愛猫のそばで

月影 流詩亜

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第5話 掌の温もり

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​ 深夜の打ち場は、墓場のように静まり返っていた。
 美冬は冷たい床に座り込み、白く汚れた自分の手を見つめていた。
 祖母に突き放され、母の誘惑に揺れ、結局何一つ形にできない自分。

​「私は、何のために打ってるんだろう……」

​ 誰かに認められたいから? 

 それとも、居場所を失うのが怖いから?

 そんな独りよがりの理由で打つから、蕎麦は繋がらず、心もボロボロに千切れてしまうのだ。
 
 視界が涙で歪み、鼻をすする音だけが虚しく響く。

 その時だった……

​「……にゃあ」

​ 暗闇の中から、鈴を転がしたような声がした。
 顔を上げると、いつの間にか打ち場の扉の隙間を抜けてきた杏が、美冬の目の前に座っていた。

​「アン……。入っちゃダメだよ、ここは粉だらけなんだから……」

​ 美冬が弱々しく追い払おうとしても、杏は動かなかった。それどころか、ゆっくりと歩み寄り、美冬の膝の間に入り込むと、その柔らかな額を美冬の手に押し当てた。

​ ザリ、ザリ。

​ 杏の舌が、涙と粉で汚れた美冬の指先を、慈しむように舐め上げる。
 
「あっ……」

​ 不意に、あの雨の日の記憶が蘇った。

 あの時、自分は「ずっと側にいる」と誓った。けれど、実際に救われていたのは自分の方だった。どんなに不器用でも、どんなに失敗しても、杏だけは一度も美冬を見捨てなかった。
 
 杏が喉を鳴らす「ゴロゴロ」という音が、床を通じて美冬の体に響いてくる。
 それはまるで、止まりかけていた美冬の心のエンジンを、もう一度動かそうとする鼓動のように聞こえた。

​「……そうだよね。アンは、私が誰であろうと、そばにいてくれたんだもんね」

​ 美冬は、杏の温かい体をそっと抱き上げた。

 腕の中に伝わる重み。柔らかな毛並み。その確かな生命の温もりが、冷え切った美冬の心をゆっくりと解かしていく。

​ 私は、立派な職人になりたいんじゃない。

 私は……この子のように、大切に思う誰かの「そば」に寄り添える、温かい蕎麦を打ちたかったんだ。

​ 美冬は立ち上がり、顔を拭った。

 まだ手は震えている。けれど、その震えは恐怖からではなく、もう一度やり直そうとする武者震いだった。

​「見ててね、アン。私、もう一度だけやってみる」

​ 美冬が木鉢に向かうと、杏は邪魔をしないように少し離れた棚の上へ飛び乗った。

 琥珀色の瞳が、真っ直ぐに美冬を見つめている。
 
 その視線を感じながら、美冬は再び粉に手を触れた。

 今度は迷いはない。

 ただ、愛おしい誰かのために。



 
 ── 🐾 ここから、物語は視点を変わります。
 美冬を見つめ続けた「愛猫」の、ひたむきな想いへと  🐾──

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