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第8話 深夜の守護者
しおりを挟む 夜が深まると、世界から音が消える。
この古い家が時折、ミシリと骨を鳴らす音と、遠くで聞こえる風の音だけ。
そして……
トン トン トン トン
規則正しく、リズムを刻む音。
アタシは打ち場の高い棚の上、粉がかからない一番端っこで、重たくなっていくまぶたと戦っていた。
(ふぁ……いけない、寝ちゃダメだ。アタシが寝たら、誰が母ちゃんを応援するのさ)
下では、母ちゃんがたった一人、電球の下で蕎麦を打っている。
昼間の失敗なんて嘘みたいに、今の母ちゃんの動きには無駄がない。粉を混ぜ、練り、伸ばしていく。その一挙手一投足から目が離せない。
アタシにはわかる。母ちゃんの指先から、あの「嫌な雨の匂い」が消え、代わりに凛とした、冷たくて清らかな水の匂いが立ち上っているのを。
母ちゃんが大きく生地を広げる。
その時、母ちゃんがふっと肩を落として、動きを止めた。
静寂が、重たく打ち場にのしかかる。
(母ちゃん……?)
アタシは棚から身を乗り出した。
母ちゃんは、自分の手を見つめて震えている。
きっと、またあのお婆の言葉や、あの香水の女の言葉が、耳元でうるさく鳴っているんだ。
アタシは思い切って、棚からしなやかに飛び降りた。
トサッ、と粉の舞う床に着地し、母ちゃんの足元へ駆け寄る。
「……にゃん」
甘えた声じゃない。叱咤するような、短く強い声。
母ちゃんの長いエプロンの裾を、甘噛みしてグイと引いた。
『顔を上げて、母ちゃん。アタシが見てる。アタシが世界で一番近くで、母ちゃんの頑張りを見てるんだから』
母ちゃんがハッとしたように、アタシを見た。
「……アン。起きてたの? ごめんね、寂しくさせちゃったかな」
違うよ、母ちゃん。寂しいのは、母ちゃんの方でしょ。
アタシは母ちゃんの足に、自分の身体を力いっぱい押し付けた。アタシの体温を、母ちゃんの冷えた脚に、そして心に、全部移してあげるみたいに。
母ちゃんは深呼吸をして、もう一度、麺棒を握り直した。
「ありがと。……そうだね、アンが見ててくれるもんね。最後まで、やり遂げるよ」
再び、リズムが動き出す。
トン、トン、トン、トン。
アタシはもう一度、高い場所へと駆け上がった。
眠気なんて、どこかへ飛んでいった。
夜が明けるまで。母ちゃんが、納得のいく「花」を咲かせるまで。
アタシは瞬きすら惜しんで、その「一番のそば」に居続けるんだ。
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