三月の残照と琥珀のタレ

月影 流詩亜

文字の大きさ
5 / 6

第5話:三月の残照と、新しい頁(ページ)

しおりを挟む


 ​テレビの中のニュースは、各地で捧げられた黙とうの様子を伝えている。午後二時四十六分。あの日から十五年という月日が、静かな祈りとともに流れていった。

 ​俺は机の端に置かれた、あの黒い二つ折りの携帯電話をもう一度手に取った。液晶はすでに消え、ただの古い機械に戻っている。だが、指先に残るその感触は、確かに俺をあの日々へ連れ戻してくれた。

 ​もしあの日、英雄さんと令子さんが「店を閉めて自分たちだけ守る」という選択をしていたら、今の俺はここにいただろうか。

 便乗値上げに走る店を尻目に、ガスの青い炎の前で黙々と包丁を振るった英雄さんの背中。
  それこそが、俺にとっての職人の原風景だったのだ。


「親方、俺もまだ、精進の途中ですよ」

 ​ふと口をついた独り言に、自分で苦笑する。

 板長として店を任されるようになっても、あの二週間の「格安弁当」の味に勝てているのか、時々不安になる。けれど、先月店に来てくれた二人の笑顔が、その答えをくれたような気がした。

 ​俺は使い慣れたスマートフォンを手に取った。

 老舗の板場では包丁が相棒だが、休日の自分にとっては、この小さな画面が物語を紡ぐための大切な道具だ。

 カクヨムのアプリを開くと、連載中の猫の物語に新しい感想が届いていた。

 ​『【テミスの審判は🐾朝食の香りに混じって】読みました! お猫様の愛らしさと、漂ってくるような朝食の香りに、今朝はとても幸せな気分になれました。月影さんの描く優しさが大好きです。次回の作品も待っています!』

 ​画面に踊る温かい言葉に、口元が自然と緩む。

 板場で鰻を焼き、客の腹を満たすことも、こうしてスマートフォンで言葉を綴り、誰かの心を温めることも、実は同じことなのかもしれない。

 英雄さんから受け取った「焼き」の火は、形を変えて、今の俺の指先にも宿っているのだ。

 ​窓の外を見れば、陽は少し傾き、街路樹の影が長く伸びている。

 十五年前のあの日、絶望の中で見上げた星空はあんなに冷たかったのに、今の窓越しに見える景色は、どこまでも穏やかで、平和だ。

 ​不透明な未来や、解決しない問題は山積みかもしれない。けれど、俺にできるのは、明日も板場に立って最高の鰻を焼き、休日はこうして猫たちが駆けるような優しい物語を書き続けることだけだ。

 ​俺はスマートフォンの画面をタップし、書きかけの新作プロット――あの日、職人としての誇りを教わった記憶――を呼び出す。

 一文字ずつ、大切に。

 新しい物語の、最初の一行目を打ち込む。

 ​『あの日の空は、驚くほど澄んでいた。』

 ​フリック入力の微かな振動が、指先を通じて心に響く。


 十五年目の三月十一日。

 俺の、そして街の日常は、これからも続いていく。


 ​ ── 完 ──


 ​
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

妻への最後の手紙

中七七三
ライト文芸
生きることに疲れた夫が妻へ送った最後の手紙の話。

お父さんのお嫁さんに私はなる

色部耀
恋愛
お父さんのお嫁さんになるという約束……。私は今夜それを叶える――。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

悪役令嬢は手加減無しに復讐する

田舎の沼
恋愛
公爵令嬢イザベラ・フォックストーンは、王太子アレクサンドルの婚約者として完璧な人生を送っていたはずだった。しかし、華やかな誕生日パーティーで突然の婚約破棄を宣告される。 理由は、聖女の力を持つ男爵令嬢エマ・リンドンへの愛。イザベラは「嫉妬深く陰険な悪役令嬢」として糾弾され、名誉を失う。 婚約破棄をされたことで彼女の心の中で何かが弾けた。彼女の心に燃え上がるのは、容赦のない復讐の炎。フォックストーン家の膨大なネットワークと経済力を武器に、裏切り者たちを次々と追い詰めていく。アレクサンドルとエマの秘密を暴き、貴族社会を揺るがす陰謀を巡らせ、手加減なしの報復を繰り広げる。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

処理中です...