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最終話:朝食のあとの凪(テミス視点)
しおりを挟む「おい、離せ! その通帳は俺のコンサル料だ!」
麦田が怒鳴り散らす。
その口から漏れるのは、もはや言葉じゃないわ。どす黒い憎悪と焦燥が混じり合った、肺が腐るような猛毒の臭い。
パパが必死に通帳を掴み、ママは震えながら電話に手を伸ばしている。でも、逆上した麦田の力は強い。そいつがパパを突き飛ばそうと腕を振り上げたその時……
「……もう、いい加減にして」
歩の声だった。
蚊の鳴くような、でも、今までで一番芯の通った声。
歩は震える膝で立ち上がり、麦田の正面に立った。
「竜一さん、その通帳を返して。……それと、今すぐこの家から出て行って」
あら、やっと言えたじゃない、歩。
アンタの体から漂っていた『怯えの臭い』が、一瞬で『覚悟の匂い』に変わったわよ。清涼感のある、いい香りね。
「ああ!? ふざけんな、このノロマが! 誰のおかげで夢を見られたと思ってんだ!」
麦田が歩の肩を掴み、激しく揺さぶる。
その瞬間、男の体から噴き出したのは、究極の他責思考「俺が悪いんじゃない、お前らが悪いんだ」という、鼻がもげそうなほど醜悪な「責任転嫁の悪臭」
よし、私の出番ね。
正義の女神の裁きは、情け容赦ないんだから。
私はダイニングテーブルから一直線に跳躍し、回転しながら麦田の顔面、その鼻先を目がけて全開の爪を突き立てた。
絶・天猫抜刀爪 !
「ぐああああっ!? 目が、目がぁ!」
麦田が顔を押さえてのけ反る。その隙に、歩がそいつの腕から通帳をもぎ取った。
さらに私は、床に転がっていた「二台目のスマホ」を、思い切りソファの裏の隙間へと蹴り込んだ。証拠は隠させないわよ。
「警察を呼んだわ! 竜一さん、いえ、佐藤さん!」
歩が叫ぶ。遠くでサイレンの音が近づいてくる。
麦田は鼻から血を流し、情けない声を上げながら玄関へと逃げ出そうとしたけれど、パパと駆けつけた近所の人たちに取り押さえられた。
……数時間後。
嵐が過ぎ去ったリビングには、冷めきったパンケーキと、わずかなコーヒーの残り香が漂っていた。
麦田がいた場所に渦巻いていたヘドロのような悪臭は、警察が連れて行ったのと一緒に、綺麗さっぱり消えていたわ。
「……テミス。ごめんね、私、ずっと嘘に気づかないふりをしてた」
歩が私を抱き上げる。彼女の瞳からは、大粒の涙がこぼれていた。
それは悲しい涙じゃなくて、体の中の「毒」を洗い流すための、清らかな涙の匂い。
いいのよ。アンタの鼻がバカになってた分、私が代わりに嗅いでたんだから。それに見てなさい、窓の外を。アンタが怖がっていた波なんて、もうどこにもないわよ。
窓の外には、春の穏やかな陽光に照らされた、鏡のような凪の海が広がっていた。
波風を立てたあとに訪れるのは、本当の平和。
偽物の笑顔で塗り固めた嘘の朝食よりも、ずっと、ずっと心地いい。
私は歩の胸に顔を埋め、少しだけ甘えるように鳴いてやった。
さあ、歩。泣き止んだら、やり直しよ。
あんなクズの臭いがついていない、本当においしい朝食を、もう一度作ってちょうだいな。
もちろん、私には最高級の鰹節をトッピングすること。……それが、正義の女神への報酬よ。
私は満足げに喉を鳴らし、ようやく訪れた本当の「凪」を、大きく吸い込んだ。
── 終 ──
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