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1 謎の美青年、海に落ちる
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病室のベッドの脇に座って寝顔を見つめる。お肌キレイ、と思う。
救急隊がこの人を搬送するとき、「お知り合いの方どなたか同乗をお願いします」と言われて一緒に乗ってきた。救急車の中で名前を聞かれて「夏井咲和です」と答えると、「彼の名前です」と言われた。そのあともいくつか質問をされたけれど、ほぼ答えることができなかった。だってこの人の年齢なんて知るはずがないし、どこで何をしている人かもわかるわけがない。
救急隊の人はわたしが乗ってきたので知り合いだと思ったらしいが、ただの通報者なら同乗なんかしなくてよかったのだそうだ。救急車なんか呼んだのは初めてだったので、そうしなければいけないのかと思ってしまった。マスターがいたらこんなことにはならなかったのだろうが、誰もいないお店をほったらかしてきていたので、救急車が着くと同時に戻ってしまっていたのだ。
残った三人の中で「お知り合いの方どなたか」と言われれば、なんとなくわたしだった。一人は高校生でしかもずぶ濡れだし、おじいさんはただの通りすがりだし……。と言ってもわたしだってたまたま目撃しただけの赤の他人なのだけれど……。
つまりはそういうわけでここまで来てしまったものの、何をどうすることもできない。病院の人に「付き添いの方は受付をお願いします」と言われたけれどもちろん無理だ。名前も住所もわからないのだから。
命に別状はないということだったし、目が覚めれば自分でなんとかするだろうが、かといってさっさと帰ってしまうのも薄情な気がして、とりあえずはしばらく付き添うことにしたのだった。
ただ、命に別状はないとはいえ、お医者さんが言っていたことが少し気になった。
「海に落ちたから意識を失ったんじゃなくて、意識を失って海に落ちてしまったと考えられますね。普通は水に落ちたら反射的にもがくものですが、意識を失った状態で落ちたら助かろうとする行動を取れない可能性もありますから、危なかったですね。救助が早くてよかったと思います」
意識を失うなんて普通じゃない。この人はいったいどうして、そんなことになってしまったのだろう。
額にかかった髪をどけてあげようとそっと手を伸ばしたとき、ベッドサイドの棚の上で携帯が鳴りだした。さっき看護師さんから「患者さんのです」と言って渡された大きなビニール袋の中に、濡れた服と家の鍵、そして携帯が入っていたのだ。身元がわかるようなものは一切持っていなかったらしい。
携帯は壊れてはいなかったけれど、ロックがかかっていて誰にも連絡を取ることはできずにいた。誰だか知らないけれど、やっと向こうから電話がかかってきたのだった。
音で目を覚まさないかと思うけれど、その気配はない。
わたしは携帯を手に取った。
表示された名前は「葵」一文字。彼女だろうか。勝手に出るのはためらわれるけれど、今は緊急事態だ。とにかく誰かこの人の知り合いにこの状況を知らせなければならない。立ち上がりながら“応答”をタップした。
「もしもし」
小声で言いながら廊下に出る。
(あ……え? あの……)
女の人を想像していたのに、電話の向こうの声は若い男性のものだった。
「勝手に出てしまってすみません。緊急事態なもので」
(緊急事態?)
「あの、この携帯の持ち主さんのお知り合いの方ですか?」
(ええ、そうですが、緊急事態というのは……)
「えっと、今病院にいて……」
(病院? どうかしたんですか?)
心配そうな声色だ。
「海に落ちたんです」
(海に落ちた? 兄が溺れたんですか?)
兄?
「えっと、そうですね……。意識がなかったみたいで……」
わたしは事の顛末を話して聞かせた。
(容体はどうなんでしょうか?)
「大丈夫みたいです。今はまだ眠ってますけど。ただ、なんで意識を失ったのかちゃんと調べた方がいいってお医者さんが言ってて、もしかしたらこのまま少し入院ってことになるのかもしれないです」
(そうですか……。とにかく、ありがとうございました。付き添いまでしていただいたなんて、本当にご迷惑をおかけして……)
「いえ、それは全然いいんですけど、何ていうか、名前とか、そういうのがわかるものを何にも持ってないみたいで、手続きとかができなくて……」
(ああ……)
“葵さん”は困ったように黙り込んだ。こっちも黙って次の言葉を待つ。
(あのう、そこは尾道ですよね? 広島の)
「そうです」
(僕は雅楽川葵と言います。そこにいる者の弟です。失礼ですが、あなたのお名前を伺ってもよろしいですか?)
「わたしは、夏井咲和と言います」
(夏井咲和さん。あの、大変恐縮なんですが、お願いをきいていただけないでしょうか)
「はあ……」
(兄の名前は雅楽川清風と言います。古典音楽の雅楽、ありますよね? ミヤビにタノシイと書いて雅楽。あれに川と書いてうたがわと読みます。きよかぜは、清い風です)
ウタガワキヨカゼ。高貴っぽいというか古風というか……。
(僕は今東京にいるんですが、仕事の都合でどうしてもすぐにはそっちへ行けないんです。それで、本当に不躾なお願いだということはわかっているんですが、代わりに、兄のサポートをしていただけないでしょうか)
「サポート!? わたしがですか?」
(ほかに頼れる人がいないんです。どうかお願いできないでしょうか。不慣れな土地ですし、兄一人では入院といってもなかなか……。仕事の目途が付き次第、すぐに向かいますので)
わたしにいったい何ができるというのだろう。そう思ったけれど、ほかに頼れる人もいないというのに断ることもできず、結局引き受けてしまった。
差し当たっての病院での手続きのためにと、葵さんは清風さんの生年月日と住所を教えてくれた。
歳は二十八歳。住所は、尾道市西久保町の一軒家。本来の住所は東京だが、こっちに別荘があってしばらく滞在する予定ということで、東京ではなく別荘の住所を教えてくれたのだった。
救急隊がこの人を搬送するとき、「お知り合いの方どなたか同乗をお願いします」と言われて一緒に乗ってきた。救急車の中で名前を聞かれて「夏井咲和です」と答えると、「彼の名前です」と言われた。そのあともいくつか質問をされたけれど、ほぼ答えることができなかった。だってこの人の年齢なんて知るはずがないし、どこで何をしている人かもわかるわけがない。
救急隊の人はわたしが乗ってきたので知り合いだと思ったらしいが、ただの通報者なら同乗なんかしなくてよかったのだそうだ。救急車なんか呼んだのは初めてだったので、そうしなければいけないのかと思ってしまった。マスターがいたらこんなことにはならなかったのだろうが、誰もいないお店をほったらかしてきていたので、救急車が着くと同時に戻ってしまっていたのだ。
残った三人の中で「お知り合いの方どなたか」と言われれば、なんとなくわたしだった。一人は高校生でしかもずぶ濡れだし、おじいさんはただの通りすがりだし……。と言ってもわたしだってたまたま目撃しただけの赤の他人なのだけれど……。
つまりはそういうわけでここまで来てしまったものの、何をどうすることもできない。病院の人に「付き添いの方は受付をお願いします」と言われたけれどもちろん無理だ。名前も住所もわからないのだから。
命に別状はないということだったし、目が覚めれば自分でなんとかするだろうが、かといってさっさと帰ってしまうのも薄情な気がして、とりあえずはしばらく付き添うことにしたのだった。
ただ、命に別状はないとはいえ、お医者さんが言っていたことが少し気になった。
「海に落ちたから意識を失ったんじゃなくて、意識を失って海に落ちてしまったと考えられますね。普通は水に落ちたら反射的にもがくものですが、意識を失った状態で落ちたら助かろうとする行動を取れない可能性もありますから、危なかったですね。救助が早くてよかったと思います」
意識を失うなんて普通じゃない。この人はいったいどうして、そんなことになってしまったのだろう。
額にかかった髪をどけてあげようとそっと手を伸ばしたとき、ベッドサイドの棚の上で携帯が鳴りだした。さっき看護師さんから「患者さんのです」と言って渡された大きなビニール袋の中に、濡れた服と家の鍵、そして携帯が入っていたのだ。身元がわかるようなものは一切持っていなかったらしい。
携帯は壊れてはいなかったけれど、ロックがかかっていて誰にも連絡を取ることはできずにいた。誰だか知らないけれど、やっと向こうから電話がかかってきたのだった。
音で目を覚まさないかと思うけれど、その気配はない。
わたしは携帯を手に取った。
表示された名前は「葵」一文字。彼女だろうか。勝手に出るのはためらわれるけれど、今は緊急事態だ。とにかく誰かこの人の知り合いにこの状況を知らせなければならない。立ち上がりながら“応答”をタップした。
「もしもし」
小声で言いながら廊下に出る。
(あ……え? あの……)
女の人を想像していたのに、電話の向こうの声は若い男性のものだった。
「勝手に出てしまってすみません。緊急事態なもので」
(緊急事態?)
「あの、この携帯の持ち主さんのお知り合いの方ですか?」
(ええ、そうですが、緊急事態というのは……)
「えっと、今病院にいて……」
(病院? どうかしたんですか?)
心配そうな声色だ。
「海に落ちたんです」
(海に落ちた? 兄が溺れたんですか?)
兄?
「えっと、そうですね……。意識がなかったみたいで……」
わたしは事の顛末を話して聞かせた。
(容体はどうなんでしょうか?)
「大丈夫みたいです。今はまだ眠ってますけど。ただ、なんで意識を失ったのかちゃんと調べた方がいいってお医者さんが言ってて、もしかしたらこのまま少し入院ってことになるのかもしれないです」
(そうですか……。とにかく、ありがとうございました。付き添いまでしていただいたなんて、本当にご迷惑をおかけして……)
「いえ、それは全然いいんですけど、何ていうか、名前とか、そういうのがわかるものを何にも持ってないみたいで、手続きとかができなくて……」
(ああ……)
“葵さん”は困ったように黙り込んだ。こっちも黙って次の言葉を待つ。
(あのう、そこは尾道ですよね? 広島の)
「そうです」
(僕は雅楽川葵と言います。そこにいる者の弟です。失礼ですが、あなたのお名前を伺ってもよろしいですか?)
「わたしは、夏井咲和と言います」
(夏井咲和さん。あの、大変恐縮なんですが、お願いをきいていただけないでしょうか)
「はあ……」
(兄の名前は雅楽川清風と言います。古典音楽の雅楽、ありますよね? ミヤビにタノシイと書いて雅楽。あれに川と書いてうたがわと読みます。きよかぜは、清い風です)
ウタガワキヨカゼ。高貴っぽいというか古風というか……。
(僕は今東京にいるんですが、仕事の都合でどうしてもすぐにはそっちへ行けないんです。それで、本当に不躾なお願いだということはわかっているんですが、代わりに、兄のサポートをしていただけないでしょうか)
「サポート!? わたしがですか?」
(ほかに頼れる人がいないんです。どうかお願いできないでしょうか。不慣れな土地ですし、兄一人では入院といってもなかなか……。仕事の目途が付き次第、すぐに向かいますので)
わたしにいったい何ができるというのだろう。そう思ったけれど、ほかに頼れる人もいないというのに断ることもできず、結局引き受けてしまった。
差し当たっての病院での手続きのためにと、葵さんは清風さんの生年月日と住所を教えてくれた。
歳は二十八歳。住所は、尾道市西久保町の一軒家。本来の住所は東京だが、こっちに別荘があってしばらく滞在する予定ということで、東京ではなく別荘の住所を教えてくれたのだった。
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