烏と狐

真夜中の抹茶ラテ

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第一章:薄暮の月白

1-2.烏と鳶の協奏曲

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-とんび- タカ目タカ科の鳥類

 上昇気流を利用して輪を描くように滑空し、羽ばたくことはほとんどない。視力が非常に優れており、50m遠方から僅か2mmほどの肉片を発見することも出来る。
 飛翔中、よくからすと争っているが、これは、とんびからすの食性が似ており、競合関係にあるためと考えられている。烏の場合は鳶が近くにいるだけで、集団でちょっかいを出したり、追い出したりもする。
 警戒心が強く、人間には近寄らないことが多い。
 他方、他のタカ類に比べ、残飯や死骸をあさるなど狩猟に頼らない面があることから、勇猛な鳥との印象が少なく、いわばタカ類の中では一段低いという印象を持たれがち。
 日本書紀には、光で敵軍の目を眩ませ、軍勢に勝利をもたらしたという伝説がある。古代ギリシャでは、「葬式の供物や神に捧げた生贄だけは、どれだけひもじくとも盗むことは無かった」という賢い面も。



(参考資料:wikipediaより)

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You’ll never find a rainbow if you’re looking down下を向いていては、虹を見つけることはできない



 清潔な白いシーツ、見慣れない天井、曇り一つない開かれた窓から、新しい朝を告げる風に揺れる白いカーテン……。まるで、絵画にでもなりそうなほど美しく、完璧に整えられた空間だ。
 光差し込むベッドから銀髪の女が身を起こす。吹き込んだ風が、その細く艶やかな銀の御髪を通り過ぎて、この部屋に朝を運んできた。
(……やはり、王都は違いますねぇ…………)
彼女が住んでいるボロ家とは、あまりにかけ離れている。
 窓から顔を覗かせれば、いつもよりずっと近くに白銀と純金の王宮が見えた。ここは王都のとあるホテル。それほど高級というわけでもないが……普段の生活と比べれば、王族にでもなったような気分だ。
 (……いっそ、昨日手に入れたお金で、ホテル暮らしにしてしまいましょうか…………)
やろうと思えばできる。やらないだけで……。
 一瞬欲に揺らぎかけた欲望を首を横に振って追い払い、
(……だ、だめですよ、民が苦しんでいるのです。どうして私だけが、のうのうと幸せを貪れましょう……)
スラムのあの酷い現状を知っている上で、自分だけが豊かな暮らしを満喫するなどとんでもない。もしも、そんな堕落に身を投げてしまったら、忌み嫌っているこの国の王宮の行いと同じになってしまう。
 この国の大臣たちは腐っている。煌びやかな王都から少し目を逸らせば、視界に映るのは朽ちた町と、飢餓に苦しむ貧民たち……。それなのに、苦しむ者たちに焦点を当てず、美しい都だけを見つめ続ける王宮彼らが、彼女は心底気に入らなかった。
 (この貧富の差の何たる事……。王都もスラムも……互いに歩み寄らねば、この国は滅亡するだけだと言うのに……)
フレンチウィンドに肘をつき、朝日降り注ぐ空を見上げる。スラムから見るよりも、ずっと澄んで美しい青。……まあ、気分の問題でしかないが…。
 不意に、羽音が聞こえ、釣られるように音のする方へ目を向ける。見れば、一羽のカラスがこちらへ飛んできていた。
「……あぁ、あなたでしたか」
彼女はまるで、その鳥と旧知の知り合いであるかのように呟き、カラスがとまれるように腕を伸ばす。賢いその鳥は速度を落とし、彼女の腕へ足を下ろした。
 「お久しぶりですね。今まで、一体どこへ行っていたのですか?」
人語を解すはずが無い鳥へ声をかけ、彼女は窓辺から身を引く。
 腕に鳥を乗せたまま窓を閉じ、ベッドの縁に腰を下ろす。するとカラスは、人語など分からないと知らばっくれるように首を傾げた。
「……まぁ良いです。水浴びでもしますか? ここ、とても水が綺麗なんですよ」

 バストイレ別、洗面所と脱衣所も白く清潔に整えられたホテルの風呂場。ホテルから貸し出しの寝巻きの腕を捲れば、物分りの良いカラスはバスタブの縁に移動して、早くしてくれと急かすように首を傾げる。
「はいはい、今始めますからね」
慣れた様子で苦笑し、シャワーを片手に蛇口を捻る。冬場の冷水がシャワーから流れ出し、風呂場のタイルと彼女の足を濡らた。
 冷水が水へ、水が温水へと変わったのを確認し、
「かけますよ」
と声をかけてから、シャワーをかける。そっと撫でた艶やかな羽は、冬空を飛んだせいか少しばかり冷たく、時を止めた彫像死体かとも思える。
 「……というかあなた、自分で水浴びできるのに、どうしていつも私に洗わせるんですか……」
鳥というのは人と違い油脂を含んだ汗をかかないため、人が使うような洗剤を使用して、油脂を奪ってしまうのは危険である。よって彼女がやることと言えば、温水をかけるだけなのだが……。
 細い指が羽を撫でていく。カラスはそれが気持ち良いというように目を閉じて、彼女の手に銀色の頭を擦り付けた。
 カラスは頭の先から尾羽の先まで、そして足の節も爪やくちばしさえも、彼女の御髪と同じ、シミ一つない美しい銀色をしている。そしてその目もまた、彼女と同じく赤色だ。
 やがて、キュ……と金属が擦れる音がして水が止まる。洗面所に戻ると、鳴き声一つ上げず、カラスは洗面台へ移動した。その濡れ羽を水が伝い、鳥の足元に水たまりができる。彼女が棚から新品同様な白いタオルを取り出して、腕の中で広げると、間髪入れず鳥はその中へ飛び込んだ。
 新しいふわふわとしたタオルに幸せそうに埋もれる姿へ、
「……全く…………。さては、野生で生きていくつもりありませんね?」
彼女は苦笑いを返した。完全にカラスの言いなりで、求められた事をやっている彼女では、どちらが主でどちらが遣いなのかはよく分からない。

 朝日に銀の羽を煌めかせる神秘的なカラス。その主たる銀の御髪を持つ彼女。一人と一羽は連れ立って、再度ベッドへ。窓から見える空では、ゆったりと雲の流れていく。あぁ、なんて良い朝だろう。
 「……それで、本当に今までどこに行っていたんですか?」
再度本題を問うが、カラスは首を傾げるばかり。こちらが大変な目にあっているというに、呑気なものだ。
「……本当に教えるつもりないんですか?」
少し不機嫌を示し、声のトーンを一段下げる。人と鳥とが向き合って話している様は異様だが、彼女のカラスへ対する扱いは、人に対するそれと相違ない。
 しばらく、そんな不毛なやり取りを続けていると、コンコンコン……とノックが部屋に響いた。
「っ…………」
刹那、背筋に冷水をかけられたような感覚がする。もう慣れた。おまけに、同じ感覚を昨日も味わっている。
(……絶対に開けてはなりませんね…………)
心の内の警戒を全面に押し出し、露骨に表情を歪める。
 しかし、室内からわかるのは室内の様子だけ。一体誰がドアの向こうに立って、こんな早朝から呼び出しなどしてくるのか……それは憶測の域を出ない。
 ふと時計に目をやれば午前九時。今日の日の出は確か七時半だったはずだ。……日が昇って僅か一刻半。……まだ寝ていることにしてしまおうか。
 居留守を決め込み、彼女は体を固くした。物音一つ、呼吸音一つ聞かせてたまるかと、そのままドアを睨み続ける。
 すると、コンコンコン、と再度ノックオンが響く。それも放置すれば、また一定間隔を置いて三度……。無音とノックを繰り返し続けるやり取りは、人とカラスのそれよりもよっぽど不毛だ。
 さて、いつまで続くのかと思われたそのやり取りは、唐突に一つの……否、一羽の行動によって終わりを告げた。
 彼女の腕から飛び立った銀のカラスはドアノブにとまると、赤い宝石のような目を彼女へ向けた。
(………………開けろ、と言うのですか……)
今日一番の深いため息を吐き出す。良い朝が台無しだ。しかしやはり、彼女はこのカラスに逆らえないらしい。仕方なしに重い腰を上げ、カラスの待つドアに向かった。



***

In the middle of difficulty lies opportunity困難の中にチャンスがある



 彼女がようやく開ける気になった事理解して、銀のカラスは彼女の肩に飛び移る。数秒前までカラスの乗っていたドアノブ。手をかけば冷たい温度が手のひらを刺激した。早くなる脈拍。 強く脈動する心臓。“嫌な予感”がする。
 それでもこのカラスには従う他ない……。ゆっくりと部屋の鍵を外し、扉を押す。キィ……と控えめな音を立てて、木製の扉が開かれた。
「……こんな早朝からなんの御用ですか、JACK OF DIAMOND?」
面倒くさげに見上げた先には、昨夜出会ったばかりの桃髪の青年が。昨日と一寸たりとも変わらない人好きしそうな笑顔には、朝方の眠気は一切感じられない。
 「も~、今はプライベートだよ? Buongiornoおはよ、QUEEN OF DIAMOND?」
青年はそう言いながら部屋の外側からドアノブを掴み、開いたドアの隙間に長い足をねじ込んで沓摺くつずりを踏んだ。こうすれば、もうドアは閉められない。
「……私はこの国のQUEENではありませんよ」
「うん、そっか?」
知ってるよ、と首を傾けて笑う。
 どうせ今更どうにもならない。それは理解しているとも。しかし、昨夜は尾行されていなかったはずだが……。
「……どうやってここを特定したのですか」
自分に何かミスがあったなら知っておきたい。……そもそも、なぜ彼に目をつけられたのかも分からないままだ。
 「えー? 別に大したことはしてないよ?」
どこからどう見ても人畜無害で、人好きする笑顔の似合う青年……。それなのに彼女は警戒心を緩めない。
 「大したことをしていなくて、私の部屋を特定できたのならば、賞賛致します。……まさかとは思いますが、職権乱用などされておりませんよね?」
「まさか! そんなことする訳ないじゃん!」
想像の斜め上の問いに、青年はその赤茶色の目を思わず見開いた。一刻も早く、その不名誉な誤解を解かなくては。
 「普通に、カジノから近いホテル回って、スタッフの人に聞いたんだよ。『銀髪の子来てませんか』って」
「…………はぁ、全く………………。この国の個人情報管理はどうなっているのですか…………」
ため息と共に、胸中にしまうはずだった言葉まで一緒に漏れてしまった。
 それを聞き、青年が不満げに眉をひそめ、
「…………国民を悪くいうのはやめて欲しいんだけど」
と低い声で一言。
 「……ならば、銀髪というだけで私へ辿りつけたことが不思議でなりませんね。この国に一体何人の銀髪がおりましょう」
「えー? そんなに多くないと思うよ?」
なんだか、のらりくらりと質問を躱されている気がする……。彼女も彼女で不満げに眉根を寄せた。
 「……参考までにお聞きしましょう。……ホテルの従業員には何と尋ねたのですか? 返答次第では、私は本気でこの国の情報管理の杜撰ずさんさに呆れなくてはなりません」
「別に大した事じゃないってば。『銀髪赤眼で、このくらいの背で、黒いローブ羽織ってる女の子来ませんでしたか~?』って聞いただけ」
「……よく怪しまれませんでしたね」
「んー……お客様の情報はお渡しできませんって言われちゃったんだけど、『喧嘩して家を飛び出ていった恋人を探してるんだ』って言ったら教えてくれたよ」
「……はぁ……………………」
訂正しよう、この日一番のため息は今この瞬間に更新されてしまった。少し見直しかけたもの全てへ呆れを投げる。……否、呆れではなく諦めかもしれない。
 「疑問は解決した?」
青年は何食わぬ素振りで、変わらない人好きしそうな笑顔を向ける。張り付き続けている完璧な笑みは、むしろ自然すぎて不自然だ。
「……えぇ」
 会話も終わっただろうと銀髪はドアを引いてみるが……動かなかい。見上げれば三日月形に弧を描いた赤茶色の目と、目はあった。
「どうかしたの?」
純粋な力の差では、可愛らしい顔をしていようが成人男性である彼と、細身で骨と皮しか見受けられない彼女では、勝敗は決している。
 「……はぁ、わかりましたよ」
そう呟いて、彼女がドアに力をかける。今度は先程とは逆方向、開く方向へ。急に力をかけていた方向へドアが押されたため、
「うわっ!?」
情けない声と共に体制が崩され、体が後ろへ反れる。閉められることは予想していたが、自ら開くとは思っていなかった。
 「……どうしたのですか、JACK。いつまでも立ち話をなさるおつもりで?」
「え? あ、いや……君の方から開けようとするとは思わなくて」
このままドアを閉じるつもりか? 笑顔を張りつけたまま警戒を深め、体制を戻す。たとえこのままドアを引かれても、挟んだ足はドアを妨げるだろうが……痛いのはごめんだ。
 「…………入らないのですか?」
「……え?」
「入らないのならば閉めますよ」
困惑した青年をよそに、彼女は当然のように告げた。
 「え、あ、いや……入っていいの?」
よくよく考えてみれば、女性が一人で泊まっているホテルの部屋に招き入れられるなんて、おかしな話だ。というより、傍から見たら、押し入ろうとしているようにも見えなくは無い……。いや、断じて、そのつもりはないが。
 「あなたが訪ねてきたのではないですか……。今更何をおっしゃいます? 仮にも恋人を名乗ったのでしょう。何か問題でも?」
「あ、えっと…………」
「入らないなら閉めますよ。寒いので」
「え、いや、入る」
「……どうぞ」

 「お、お邪魔します……」
居心地悪く、ホテルに備え付けられた椅子へ腰を下ろす。一方で彼女は、先程まで座っていたベッドの縁へ。銀のカラスは彼女の肩に居座ったままだ。
 「それで? なんの御用ですか、JACK OF DIAMOND」
「今はプライベートだって言ってるでしょ? 名前で呼んでよ。なんか、そっちの名前で呼ばれると、仕事しなきゃいけない気になるからヤだ」
「……あなた、名乗っていないでしょう」
「あれ、そうだっけ?」
なんとなく噛み合わない会話が続く。トーンもちぐはぐで、早くこの時間が終わってくれと、銀髪は胸中で毒突いた。
 一方で青年は、昨日の出来事をゆっくりと思い起こす。遊ぼうよと声をかけて断られ、招待を見抜かれ、逃げられた。……あぁ、確かに自分は名乗っていない。
「ほんとだ、ごめんね?」
そう言って一度立ち上がる。
 「初めまして、僕はマローネ・二ービオ。よろしくね」
恭しく右手を左胸に当てて、丁寧な所作で頭を下げた。
「……Marrone茶色の Nibbioトンビ?」
発音だけなら、ネイティブ顔負けに美しい。その実、彼女の母語はこの国の言葉ではないが……。
 「うん。いい名前でしょ?」
「……偽名ですね」
自慢げに笑う青年に、銀髪の彼女は素っ気なく告げた。凡そ、JACKが一般人を装うために使っている名前に過ぎないだろう。
 「それで、君の名前は?」
偽名を疑われようと、自分は名乗ったのだから、聞く権利があるはずだ。返す手でマローネが問う。
「……名乗らなくてはなりませんか?」
「別にいいけど、それなら僕はずっと君のことQUEENって呼ぶよ?」
「……」
彼の笑顔から発せられる圧は、彼女を黙らせるには十分だった。
「……アルギス。……クローネ・アルギスです」
必要最低限だけを、低い声で返答した。語順の入れ替わった名であるが故に、念の為どちらが名かを示しておく必要がある。
 ただ……
(…………ん?)
彼女の名は、マローネにとっては少し違和感があった。しかし、指摘するには情報があまりにも足りず、
「アルギスだね、よろしく!」
と笑顔で握手を求めるだけに留めることに。
 一方で、彼女は顔を顰める。JACKともあろう者が、作法をわかっていないとは……。
「……宜しくするつもりはありません。それに、握手は男性から求めるものではないでしょう」
と遠回しに、しかし直球な表現でキッパリ断る。
 「……」
「……」
会話が途切れ、居心地の悪い静寂が部屋を飲み込む。お互いの間合いを図りかねているような、睨み合いに近いヒリついた空気だ。
 「……用がないのならば、お帰りいただいてもよろしいですか?」
先に切り出したのはアルギスだった。それもそうか。ここは彼女か借りているホテルの一室で、彼女には彼女の予定がある。
 「えー? 今日は一日、君と一緒にいようかと思ったんだけど……」
冗談じゃない。せっかく探し当てたのに、ここで逃がしてなるものか。また見失ったら、もう話す機会さえ設けられないかもしれない。
 若干の焦りを見せるマローネと反対に、アルギスはのんびりとした、しかし不満気な声色で
「……着替えたいのですが。それとも、人の着替えを眺めるご趣味でも?」
と攻撃的な言葉を放った。
 彼女はまだホテルから貸し出された寝巻き姿で、シャワーも浴びていなければ、顔も洗っていない。女としては失格の姿を晒している。殆ど、カラスの世話に時間を取らせたせいだ。
 「え!? あ、そ、外で待ってるね!」
さすがにその返しは予想しなかった。彼はたじろぎながら、パタパタと部屋を出ていく。


***

Life can only be understood backwards; but it must be lived forward人生は後ろ向きにしか理解できないが、前を向いてしか生きられない


 バタン、慌ただしい音を立てて閉じた扉を見つめ、ベッド脇から立ち上がる。招かれざる客が去れば、この部屋は痛く静かだ。
 「……さあ、あなたももう行きなさい。全く……たまに帰って来てくださいとは言っていますが……毛ずくろいくらい自分でやってくださいね」
開いたままのフレンチウィンドから腕を伸ばすと、その腕に止まっていた銀のカラスは、どこまでも青い空へ放たれる。もう暫くは帰ってこないだろう。
 彼女は遥か彼方へ銀の影が消えたのを見送ってから、今度は着替えを片手に風呂場へ向かう。あまり、室外の青年を待たせておく訳にもいかない。



 「はぁ~……」
訪ねたホテルの一室のドア前。半分逃げ出す形で、半分締め出される形で、閉じたドアを見つめる。
(だいぶ警戒されちゃったなぁ……)
問題は、ここからどうやって彼女がQUEENであるという確証を掴み、そして、どうやって王宮へ連れて帰るか……。居場所を特定することはできても、説得できる雰囲気ではない。
 耳を澄ませば室内からシャワー音がする。♤の国民ほどではないが、五感には自信がある。国防を司るJACKとしての恩恵か、一般人よりも身体能力は高い。……が、だからといって、何ができるかと聞かれると……。
「はぁ~……これからどうしよう……」
故に、やはり、ため息が漏れてしまう。
 ふと思考を止めて、客観的に考えてみよう。自分は、恋人を騙って早朝にほぼ初対面の女性の部屋を訪ね、こうして廊下で待たされている。……悪く言えばストーカーとも言える気がしてきた。
(い、いや……そんなことないから! QUEEN探しも大事な仕事だし……!)
私的な理由ではない。状況だけ見れば誤解されそうだが、あんな女のストーカーなど、こちらから願い下げだ。
 (でも、もし、彼女がQUEENじゃなかったら…………)
それは一番考えたくないことだが、もしも人違いであれば、それなりに問題になるだろう。それはJACKとしても、彼個人としても。
 (……大丈夫。きっと人違いなんかじゃない……)
今は直感頼りだが、関わることで得られる収穫はあるはずだ。たとえそれが、雀の涙程であっても……。
 それに、先程感じた違和感。正体はまだ掴めないが、あれはきっと鍵になるだろう。



 「……本当に大人しく待っているだなんて。意外ですね」
身支度を済ませ、ほとんど無い荷物を確認してから部屋を出ると、マローネ・二ービオはドア前の廊下の壁にもたれ、大人しく待っていた。
 「……君、僕のことなんだと思ってるの?」
不満げにアルギスを見下ろす。
「昨夜カジノで勝負を断られた腹いせに、ストーカー紛いを働く、自称私の恋人、兼、この国のJACK様ですよね?」
随分な言われようだ。語弊と私情をふんだんに含んでいる。さすがに、あまりにも酷い。
 「あらぬ誤解を生みそうだから、さすがにその言い回しはやめて欲しいんだけど……」
「では、何と?」
「えー……? それ、僕に聞く?」
「……他に聞く方もおりませんので」
「……」
「……」
会話が途切れる。間が持たない。過去、これほどまでに難しいと感じた会話は他にあっただろうか……。
 「……それで、今日はこの後どうするの? またカジノ?」
「……今日はいちへ。その後は貧民窟スラムへ」
マローネは彼女の返答に首を傾げた。
 「貧民窟?」
何故? いちへ寄ってから……ということは、誰か知り合いでも住んでいるのだろうか? それとも、彼女の家が貧民窟にあるのだろうか?
 「……あなたには理解できないと思いますよ」
青年を一瞥して、アルギスはホテルの廊下に足音を響かせる。棘のある発言だった。けれど、煌びやかな生活を送る王都の中心部で、王宮で過ごすJACKには、きっと飢えの苦しみなど理解できない。
「あ、待ってよ!」
冷たい声を受け流し、細い背を追いかけた。
 アルギスは、一度歩を止めて振り返る。
「……何故私をつけまわすのですか。この国のJACKであれば、QUEEN探しを急ぐべきなのでは?」
「だって、僕は君がQUEENだと思ってるから。どうやったらお城に来てくれるのか調べるっていう、大事な仕事中だしね?」
無理やり連れ帰ることなんて、いくらでもできる。……が、それでは何も解決しない。
 「……まあ良いでしょう。私の邪魔をしないのなら、あなたなど、いてもいなくても同じです」
「酷いなぁ……。僕だって傷つくよ?」
どこまで本心かは読めないが、そうして二人は廊下の向こうへ消えていった。



***

Chi non va non vede,行かないと見えないし chi non vede non sa e見えないと知れないし chi non sa se lo prende sempre in culo知らないと毎回うんざりすることになる



 朝市と言うには少し遅い時間。キラキラと降り注ぐ陽の光を全面に受け、活気に色付いた市場は商人たちの明るい声が飽和している。
 それもそのはず、この♢の国は、知恵と商業の国なのだから。市場こここそ、この国の本質をよく表している。
 「こんにちは」
いつものように、名もないパン屋の店主に声をかける。店のパン同様、ふっくらと肥えた気前の良さそうな女性は、
「やぁ、こんにちは。久しぶりだね?」
と陽気な笑顔を返した。
 「ここの常連なの?」
夜な夜なカジノで相当な稼ぎをあげている彼女にしては、使う店が随分と庶民的だ。本当に無敗なのだとすれば、豪遊など容易いだろうに。
 しかし、よく見ずともアルギスは明らかに不健康そうで、まともに食事をとっている気配がない。溜め込んだ金銭を、一体どこで吐き出しているのか……。
 「あぁ、たまに来てくれるのさ」
気前の良さそうな女店主は笑顔で回答をし、アルギスはまゆ根を寄せた。
「……顔を記憶されるほど、来ている覚えはないのですが…………」
「銀の髪に赤い目の、そんなひょろっこい子なんか、そうそう居ないからね。いやでも記憶に残るってもんだよ」
 外見に関してはどうしようも無い。ここにも黒いローブで来てしまえばそれまでだが……明らかに不審者だ。危険人物として目をつけられては堪らない。
 「そっちは連れかい? あんたもまた、変わった髪の色だねぇ」
店主がマローネの方へ目を向けた。彼は、ピンクゴールドに見える独特な髪の色をしている。
「えぇと……連れというよりは…………」
「勝手に着いてきた、かな?」
二人とも曖昧に返す。マローネからすれば、ストーカーというあらぬ疑いをかけられそうな状況だし、アルギスからすれば、この国のJACKに目をつけられている。詮索されたくはない。
 「そうかいそうかい。じゃあ、一個まけといてあげるからね」
店主はそれ以上の興味もないらしく、いつもより一つ多くのパンを紙袋に詰めて、アルギスへ渡した。
「ありがとうございます」
彼女は、代金を女店主のふくよかな手のひらへ置いて、軽く頭を下げた。
「またおいで。そっちの兄ちゃんも、今度はなんか買ってくんだよ!」
「あはは、はぁい」
マローネは人好きしそうな笑顔で手を振って、先を行こうとするアルギスを追いかけていく。

 追いついた時には、アルギスは水や果実を買い足して、両手にいくつかの紙袋を持った状態だった。
「待ってよ! そんなに急いでどこ行くのさ」
マローネは当然のごとく荷物を代わりに持とうと、貸して? と首を傾げる。
 ……が、その行為に対して、アルギスもまた当然のごとく首を傾げて、
「……えぇと……行動の意図を理解しかねるのですが……」
と怪訝そうに表情を顰めた。自分で持てば良いだけの話なのだが……。
 「えー? 女の子に物持たせるなんて、できないよ!」
当然のことじゃないか。むしろ、なぜ、疑問を投げかけるのかが全く分からない。
(……あ、もしかして、僕が買ったもの盗むとか思われてるのかな……)
「盗んだりしないから大丈夫だよ! 流石にそこは信じて欲しいかな……」
導き出した回答に、マローネは困り顔を向けた。ストーカー紛いを疑われたとしても、仮にも一国のJACK。物を盗むなんてもっての他だ。
 「……一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「うん? なぁに?」
静かに切り出された音へ、青年はわずかな緊張を見せる。このタイミングで、一体何が聞かれるのだろう……。
 そんな彼の思考を他所に、
「……何故、私が女だと?」
心底不思議そうに、アルギスは疑問を投げかけた。中性的な顔立ちと、身長と、髪型が相まってか、男に間違われることは少なくはない。が、逆にここまではっきり女だと言われることは、そうそうない。
 「なんとなく?それに、こんなに可愛い子が男なわけないじゃん」
「……は?」
それまでの、堅物ぶった態度から一変、彼女は随分と間抜けな声を出した。意表を突かれた。その言葉が適切だろう。
 「え?」
逆に、マローネからすれば、なぜそんなに驚くのかが分からない。本当に彼女相手だと、間合いを測り兼ねる……。
 「……いえ、今、なんと……」
「だから、こんなに可愛い子が男なわけないって」
「……それ、出会った女性全てへ言っているんですか?」
「? そんなわけないじゃん」
二人の会話がすれ違う。そして、
「……はぁ、もう良いです」
アルギスは早々に諦めのため息を吐いた。当然、抱えた紙袋は渡さずに。
 「で、これからどこに向かうの?」
話が途切れる前に、適当な質問を投げる。残念なことに、この国の貧民窟は一か所ではない。
「北東方面ですよ」
「あぁ、あっちか」
 北東方面の貧民窟は、実りと自然の国である♧からの距離が近いおかげか、食料に関しては多少の余裕がある地域だ。とはいえ、衣食住のうち食だけが改善したところで、結局は他の場所と大差はないのだが……。
 「……もしかして、徒歩で行くの?」
ここから目的地まで20kmはある。徒歩なら3時間かかる距離だ。
「……そうですが、何か? ろくな交通手段もございません。他にどうしろと?」
彼女の一日の大半は、移動に消費されている。馬がいれば良いのだが、生き物を飼う余裕なんてない。
 まるで当然のことのように回答したアルギスに、マローネは驚いていた。顔立ちこそ美しいが、よく見ずとも痩せ細っている彼女が、20km以上も歩き続けるなんて……。しかし、本人はちっとも気にした様子がないのだ。
 「……」
「? 何か?」
彼女の行動には不可解な点が多すぎる。貧民窟へ食料を運ぶ前に、まず自分が食べなければ、今にも飢えて死んでしまうだろうに。
 (……けど、一つだけ、君について分かったことがあるよ)
マローネはアルギスからの問いかけに応えず、ツカツカと彼女との距離を縮める。
「ちょっと失礼するよ?」
その細い肩に片手を置いて、反対の腕を彼女の膝の裏にかけ持ち上げる。一言で説明するのならば、横抱きお姫様抱っこだ。
 「!? 何を!」
突然の行動に、ここまでほとんど顔色の変化しなかった彼女でも、ボッと音が聞こえそうなほどに頬を赤く染める。
「え? だって、女の子にそんな長距離歩かせるわけにはいかないでしょ? それに……」
皆まで語る前に、マローネは軽く地面を蹴る。
 ふわりと体が浮く感覚。空との距離が一気に近くなる。
「!?」
その後僅かに降下して、軽い足音がした時には……彼らは屋根の上いた。三階建ての家の上、地上との距離は約8~10メートル程度。それを易々と飛び越えてしまうのだから、JACKの身体能力たるや恐ろしい。
 彼女が動揺と驚きを処理しきる前に、
「こっちの方が速いでしょ? 道無視できるし」
マローネはそう言って笑った。自分は何もおかしくないと言うように。
 「北東まで……三十分くらいかな? 大人しくしててね。落っことしたら大変だし!」
アルギスが何か抗議するより早く、彼は屋根を伝って走り出す。景色が後方へ流れ去っていく。凡そ、人力で出せる速度を大幅に通り越しているが、彼の吐息も脈拍も落ち着いたままだ。
 「あ、あの……その、自分で、追いかけますので……下ろしていただけませんか……?」
このまま放っておいたら、良いように持ち運ばれて、問題なく目的地まで連れていかれてしまう。問題はない。何も問題はないのだが……
(こ、この状況を、どうしろと……⁉ いえ、いや……どうして私、今、抱かれているんです……?)
この状態は恥ずかしすぎる。これなら、時間をかけて歩いた方がマシだ。
 「追いかけるって言っても、君じゃついてこれないでしょ? 女の子に追いつかれるほど、甘い鍛え方はしてないよ♪」
可愛らしい顔と甘い声で笑いながら、彼は速度を上げた。

 それから、宣言通り約三十分後、二人は北東の貧民窟に到着し、ようやくマローネはアルギスを下ろした。
「びっくりさせちゃってごめんね?」
一応そうは謝るものの、多分申し訳ないとは思っていない。
「っ……もう、二度とやらないでください……」
まだ赤いままの顔を両手で覆い、アルギスは細い肩を震わせる。ここだけ切り取れば、年相応の乙女だ。
 「うーん……帰りは?」
「……自力で帰りますから……」
マローネは善意で力を貸してくれたのかもしれないが、それでも嫌なものは嫌だ。どうせ歩くことには慣れているし。
 「それで、どうしてこんなところまで? 知り合いでもいるの?」
国内を転々とすると噂のギャンブラー、彼女は出身地も不明だ。もしかしたら、彼女もどこかの貧民窟の出身で、友人や家族のために、半ば出稼ぎをしているのかもしれない。
 そんな疑問に、アルギスは明確に首を横へ振った。
「いいえ? ここに私の知り合いなど一人もおりませんよ」
ではなぜ? 彼女はそれに答える気はないのだろう。慣れた様子で寂れた町を歩いていく。
 吹きすさぶ冷たい風。見渡した周囲は茶の色一色で、見上げた空の青色と対比するように、砂埃が舞っている。ボロ布の衣服、扉の無い家、割れた窓ガラス……。廃村と言っても過言ではない。
 ふと、街並みから顔を上げると、
「! あーに!」
「あにーす、きた!」
小さな影が駆け寄ってくる。十代未満の少年少女。周囲の景観をものともしないような、高く元気な声は弾けんばかりの笑顔を向けて、小さな両の手をめいっぱいにこちらへ広げている。
 「! ……君、知り合いいないんだよね?」
「彼らは別に、知り合いという程でもありませんので」
その様子にマローネは目を見開いた。彼女は随分懐かれているようだ。自分に対しては冷酷なくせに。
 「はいはい、並んでくださいね。一人一つずつですよ」
しゃがみ込んで目線を合わせ、紙袋を差し出す。すると、彼女の言葉に従い、子供たちはきちんと順番を守って、一つずつパンや果物を受け取っていく。
「……こんなことしてたなんてね。予想もしなかったよ。……手伝っても?」
本日何度目になるかの驚きを口にして、マローネもアルギスの隣にしゃがみ込む。
「えぇ。お願いします」
すると、今度は素直に紙袋の一つを手渡された。別段断る理由もなかったのだろう。
 彼が同じように紙袋の口を開くと、アルギスの前に並んでいた列が二つに割れ、半分の子供たちはマローネの方へ移動する。
「もらってもいーい?」
警戒心などほとんどなさそうな表情……。この国の、こんな惨状の中でも、幼い命が屈している様子はない。
 「一人一個ずつ? なら、いいよ! 多分!」
彼がそう答えると、子供たちは礼を口にしながら、言われた通り一人一つずつ持っていく。大人の言うことをきちんと聞く良い子たち。こういう場でむやみに争わない辺り、そこいらの腐った大人よりよっぽど立派だ。
 その一方で、
「ごほんよんで!」
初めて見る青年を遊び相手だと認識したのか、列を抜けたうちの数名が絵本を差し出す。残念ながら、この国の識字率はまだまだ低い。
 子供は好きだ。
(あ、えっと……どうしよう。遊んであげたいけど……)
今はアルギスの手伝いという建前上、自分の意思だけで行動するわけにはいかない。困った顔を彼女に向けると、
「遊んであげてください」
二つ返事で頷きが返ってきた。
 今この場で最優先されるべきは、外面でも内面でも、立場でも地位でもなく、この国の未来を担う子供たちを喜ばせること。ならば、引き止める理由はない。
「Si! どこか座れる場所ある?」
彼女からの了承に、マローネもぱっと顔を明るくして立ち上がる。
「こっちこっち!」
「ひろばがあるよ」
そうして、子供たちは思い思いに青年を取り囲み、その手を引っ張っていく。

 その姿をアルギスは静かに見送った。本能的な警戒心の強い子供という存在が、その強い警戒心を一切示さない……。それはつまり、彼が警戒に足る人物ではないからだろう。果たして、その人畜無害そうな外見を、どこまで信用するべきか……。少なくとも悪人ではなさそうだが……。
 ぼんやりとそんなことを考えていると、
「……あーにす」
つんつん、と服の裾を引っ張られる。視線を向ければ、子供たちの輪から外れた少女が一人。
「どうしましたか? 皆さん行ってしまわれたましたよ」
「……うん、けど……じぃじが」
「…………あぁ、なるほど。案内していただけますか?」
「うん」
少女はどことなく元気が無くて、曇った表情で俯いたままアルギスの手を引いた。



***

The pessimist complains about the wind;悲観主義者は風にうらみを言い、 the optimist expects it to change;楽観主義者は風が変わるのを待ち、 the realist adjusts the sails現実主義者は帆を動かす



 自身の借り家の事を言えない程度に汚く、古い家。今にも崩れそうな急勾配の階段を上り、寝室へ案内される。
「……じぃじ、あーにす」
少女は寝室に横になっている老人の枕元へ、少女に手を引かれてアルギスもその隣に並ぶ。
「こんにちは。体調はいかがですか」
 老人は微かに震える腕を、力なくアルギスへ伸ばし、
「アル……ギス、さん。……はは、見ての通り……ですよ。……随分、落ちぶれてしまった、もの……です」
枯れ果てた唇から吐息だらけの声を発した。
 「……」
ヒトの命とは儚く短いものだ。彼女の周りには常に死が満ちていて、枯れていく命を繋ぎ止めることなど不可能で……故に、彼女はその棒切れのような節ばった細い手をとり、ただ最期を看取ることしかできない。
 「私は…………私は、幸せでした……。……あの日、あなたに……生きる道を示されて…………」
その声は本当に満足そうで、消えゆく命の灯火ともしびを心の底からたのしんでいるようで……最後に、恩人の顔を見れたことを、その声で、言葉を伝えられたことを、心底喜んでいるようだった。
 アルギスは静かに膝を折り、今にもくずおれそうな床に膝をつく。
「…………私はただの偽善者ですよ」
嘆くような声。カジノで賭けに勤しむ時とも、マローネに相対する時とも違う、あまりにも弱々しい声だ。
 嘆き、思考する。昨日も今日も……きっと明日も、この足が動く限り、飢餓に苦しむ民へ、僅かばかりの食料を運ぶ。けれど、ヒトの命など、水が無ければ三日、食料が無ければ七日でついえてしまう。ならば……この行為に、何の意味があるだろう。
 あぁ、これはエゴだ。民のため、国のためという名の自己満足。己が良心を満たすだけの、無意味な行為に他ならない。
 現に今、目の前で、老人はその命を終えようとしている。寿命か、病か、それこそ飢餓か? 答えは無くとも、結局、救えやしなかったのだ。
 「……ぁぁ、そんな顔、なさらないで……」
彼女にとられた手をそっともたげ、枝毛だらけの銀髪を撫でる。
「例え……偽善、だったとしても……それは、私の……希望でした……。この国で……生き抜くのは、あまりにも厳しい……」
ゆっくりと、老人は睡魔に飲まれていく。重みを増していく体と瞼に逆らうのは、とても難しい。
「アル……ギス、さん……。私は……幸せ、でした。あなたに、救われて……。あなたは……酷く、優しい。そして……強い方だ……。けれど……いつも寂しそうで……悲しそうで…………。……だから、今度は……どうか、あなたが……救われますように」
「っ…………。……はい」
 「私は……十分、に……生き、幸せに死んだ……。この子……たちを、頼み…………ます。……た、のしい……ゆ、め……を………………あり……が、とう」
ふわり、老人が微笑んで、冬の風が部屋に舞い込む。彼女の銀の髪が静かに揺れた。
 「……じぃじ?」
幼い少女は理解できないのだろうか、あるいは理解したくないのだろうか……。首を傾げ、静かに、穏やかに眠りについた老人の顔を覗き込む。
「……お休みになられたのですよ。……起こしてしまっては、可哀想でしょう」
彼女はそう言って、自分の頬へあてがわれていた老人の手に、軽く唇を当てる。指先へのキスは、賞賛と感謝。消えていった命へ、彼女は小さなねぎらいを送った。



***



 「~……そして彼らは、幸せになったのでした。めでたし、めでたし」
パタン、音を立てて本が閉じた。
 彼らがいるのは、空き地に古びたベンチが並んだだけの広場。彼の手の中にあるのは、子供たちの持ってきた古びた本。全文♤の言葉で記された絵本には、丁寧な字で全文♢の言葉に翻訳がなされていた。
 識字率の低いこの国で、異国の言葉を訳せる者がいたとは……。しかもここ、貧民窟で。彼の暮らす王宮でさえ、そうそういない逸材であるのは確かだ。できれば、連れて帰りたい。
 彼の思考をよそに、子供たちは、純粋に読み聞かせを楽しんでくれたようで、思い思いの反応を示している。別の本を差し出してくる者もいれば、別の遊びを提案する者もいる。
 「ところで、この本、どこで手に入れたの?」
「あーにすだよ!」
「!」
上手く発音できていないが……おそらく、アルギスと呼んだのだろう。この国に馴染みのない言語なのだから、発音できなくても仕方ない。
 ……疑問が、繋がった気がした。クローネКορωυη アルギスΑσήμι、この国の言葉でない名を持ち、少なくとも♤と♢のバイリンガル……。

 彼女の名は、200年以上前の、♤と♢の国境付近の言語に、酷似している。

 人間では、到底生きられない年月。もちろん、先祖がその地域出身で、まだ代々同じ言語を使用している地域が無いとも言えない。……が、限りなくその可能性は低いだろう。ここ数百年で、言語の統一も、国の統一もかなり進んだ。
 ……ここで、
「……終わりましたか?」
と声がかかった。紛れもなく、今、脳内にうかべていた銀髪の声だ。
 「え、あ、うん」
「……帰りは歩きですので、そろそろ戻らなくては日が暮れてしまいますよ」
気がつけば、思ったよりも時間が経っていたらしい。頭上高くを通り越した太陽は若干西へと傾いている。
 「……帰りも僕が……」
「遠慮しておきます」
間発を入れず拒絶を示され、マローネは渋々立ち上がった。そこまでハッキリ言わなくてもいいじゃないか。
 「もうかえっちゃうの?」
まだ遊び足りない様子で、子供たちはマローネを見上げる。173cmの成人男性を見上げるのは…なかなかに首が痛そうだ。
「うん。ごめんね? また来るから」
それができれば、の話だが。まあ、そこまで言及はない。残念ながら、QUEENのいないこの国では、JACKもKINGも多忙を極めている。……一応。
 子供たちはそれ以上引き留めることなく、
「わかった」
「ばいばい!」
と、元気いっぱいに手を振った。この町のみすぼらしさなど、比にもならないほどに眩しい表情で。



***

Quando finisce la partita il re ed il pedone finiscono nella stessa scatolaキングもポーンもゲームが終われば同じ箱にしまわれる



 「……ねぇ」
帰路を……今度は屋根伝いではなく土の上を、人の速度で歩きながら、マローネから声をかけた。二人の視線は交わらない。横に並んだ二つの影は、互いに前を向いたまま。
「……はい」
「……」
「……」
……一歩、二歩、三歩…………と進んで、マローネは足を止めた。隣の影が離れようとも、アルギスは立ち止まらず、二人の距離が開いていく。
 ……しかし。一つの足音が静かに続いた後、やがてそれもなくなった。立ち止まった銀の髪が振り返る。
「……なんですか」
明らかに不機嫌そうに。あるいは、警戒心からか? それは定かではないが、彼女のルビーの色の目が、真っ直ぐにマローネへ突き刺さっていた。
 「……」
思い沈黙が閉ざす。彼女の銀髪に反射した夕日は、刻一刻と夜の色に染まっていく。水平線に太陽が隠れ、影が伸びていく。燃え尽きる直前の最も美しい炎のような陽が、彼女を後光のように焼いている。
 やがて、誰もが目を見張り、その空気に吸い込まれてしまう幻想的に赤い世界は、宵の闇へと溶け落ちて、永遠を思わせる眩い太陽は、水平線へ死した。夕日を貪った夜闇を連れて、青白い月が背面を静かに照らし始める頃……ようやく彼は口を開いた。
 「…………君を、このまま返す気は無い。QUEEN OF DIAMOND、王宮に来て。君の力が必要なんだ」
一日一緒にいて、結局、説得する術は見つからなかった。ただ、彼女がQUEENだ。それだけは、間違いない。
 正直、ギャンブルなんてする輩に頭を垂れたくは無いが……自分のプライドをへし折ってでも、この国には、QUEENが必要だ。貧しくとも、必死に生きている国民のために。
 「……私はQUEENではないと、何度言えば……」
冷たい視線が帰ってくる。嘘か誠か、声色からの態度からも察せない。……ならばそれでいい。
 「じゃあ、認めなくてもいいよ。……どうせ、である君には、小国♢がどうなろうと、知ったことじゃないんだしね?」
わざとらしく口角を釣り上げる。甘く、弄んだように、トーンを上げる。
「ッ……!」
赤い目に、怒りの色が宿ったのが見えた。微細な変化ではあるが、真っ直ぐにこちらを睨む目線に、私情が乗った。
 「……知った口を、効かないでいただけますか。見て見ぬふりを続けている、王宮の者が。あなたは、この国のために、何か1つでも行動を起こしたんですか?」
一瞬の怒りは、冷徹な声色になって降り注ぐ。一言一言が、相手の息の根を止め得るように、重く、攻撃的な言葉を選んで。
 彼女はこの国の王宮を……ひいてはKINGとJACKの双方を嫌っていた。苦しみに暮れる民へ目を向けず、華やかな生活を謳歌する王都そのものを。知らぬ、で許されるはずがない。
 「何もせず、救いの手QUEENを待っていただけの、あなた方に、私の行いを否定できるとでも?」
「ッ……」
ギリ、奥歯が噛み締められて軋む。できることなら、国民のために、なんでもしたかったとも。
 ……けれど、彼はJACK。QUEENの代替品にはなり得ない。彼には、この国を助けるすべを、見つけることすらできなかったのだ。
 ……いいや、理解している。それがただの言い訳であることを。できることなら、なんだってあったはずだ。故に、彼女は言うのだろう。と。
 ……だからこそ。息を吸う。口を、閉ざすな。
「……だからこそ、探しに来たんじゃないか。JACKじゃ、ダメなんだ」
長い足を一歩踏み出して、開いていた距離を詰める。
「QUEENは君だ。君の使うその名前、もうずっと前に滅んだ場所の言葉でしょ。ただの人間が、世紀を跨いで生きていられるはずがない」
 初めに名を聞いた時から、違和感があった。苗字が後に来るのが、♢と♧。苗字から名乗るのが、♡と♤……。おまけに、なかなか聞かない言葉を使うだなんて。
 世界史は学んでいる。具体的な年号までは覚えていないが……♤の国土統一が起こったのは、彼が生まれるよりも、100年以上昔だ。以来、彼女の名と同じ言葉は、どの国でも使われていない。
 わざわざ歴史書を引っ張り出して、偽名を使っているなら、まんまと騙されたものだが…………きっと、そうじゃない。
 冷たい風が、静寂を包む。
「………………えぇ、正解ですよ」
彼女はシャツのボタンを二つ外し、左肩から鎖骨下に刻まれた美しい♢の紋章を晒した。
 そのまま自ら彼へと歩を進めると、その首襟を掴み、乱雑にめくる。そこには彼女の身に刻まれているのと同じ、♢の紋様が刻まれていた。この国の絵札である、動かぬ証拠だ。



「私が、QUEEN OF DIAMONDです。……ですが、あなたに同行は致しません」
この国の王宮は腐っている。一度連れて行かれてしまえば、全財産を巻き上げられて、大臣たちの私服を肥やすためだけに使われるだろう。
 そうなれば、本当の意味で終わりだ。QUEENなど、ただの役職に過ぎない。王宮で飼い殺しにされ、国民は貧しいまま、いずれ国は滅ぶ。
 だから、今は行けない。行ってはいけない。個人でできることなどたかが知れているが、それでも、王宮に行くよりはずっと民のためになる。
 「……失礼します」
その言葉は、別れの挨拶によく似ていた。しかしその実、意味は謝罪に近い。
 「ッ!?」
何が起こったのか、一瞬分からなかった。意識が揺らぐほどの激痛が走る。どこが痛いのかすら、よく分からない。
 アルギスが隠し持っていたナイフは、マローネの首にある♢の紋様から、頸動脈を切り裂き、下顎を貫通していた。人間なら、まず間違いなく死んでいる。
 (息…っが…………!)
切れた血管から、破損した気管に血液が流れ込む。息を吸うことも吐くこともできない。噎せようにも、肺に空気がない。
 まずい、逃げられる。自分の命の心配よりも、先に頭をよぎったのは、アルギスのことだ。歪む視界で無理やりに前を見えれば、銀髪が夜闇に溶けていくところだった。
 せっかく、見つけたのに! 確信を掴んだのに。ここまで、追い詰めたのに……。
 まさか、攻撃されるだなんて思わなかった。距離が近かったとはいえ、油断していなければ避けられたはずだ。ぬかった。自分の失態が、何より悔しい。
 JACKはその場に倒れ伏せる。ダメだ、息ができない。脳が回らない。無理やり首筋からナイフを引き抜き、痛みに歯を食いしばる。
 (……ま…ずは、傷……を……治さ、なきゃ…………)
傾いた世界。視界の半分は細い白の月が照らす夜空で、もう半分は土の色。彼の意識はそこでついえた。



【1-2.烏と鳶の協奏曲 [完]】

-----------


ー登場人物ー

名前:ーー
偽名:クローネ・アルギス
役職:QUEEN OF DIAMND
能力:ーー
外見:銀髪、赤眼、黒いローブ
出身:♤?
性別:女
象徴:烏 / 銀
備考:♢の王宮が嫌い


名前:トワ?
偽名:マローネ・ニービオ
役職:JACK OF DIAMOND
能力:ーー
外見:桃髪、赤茶色の目
出身:ーー
性別:男
象徴:鳶 / 茶色
備考:身体能力が高く、身体が丈夫

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