殺人鬼の住まう街

真夜中の抹茶ラテ

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5月13日の夕日と草原

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 まだ日は昇っていない。薄暗い部屋は、五月の下旬だというのに異様に寒かった。今年の桜は早咲きで、入学式まで持たなかったのにも関わらず、その後も薄ら寒い日々が続いている。
 とある街の小さな抹茶専門の喫茶店。その住居スペースであるその二階。この家 兼 店に住んでいる二人の住人は、同じ寝室を使用していた。
 寝室は、まるで鏡のように左右対称に全ての家具が配置されている。そのうち、窓のある東側を使っている若草色の髪の少女は、未だ午前四時を回っていない室内でのそのそと起き上がった。
 もちろん今日は店は定休日。いや、そうでなかったとしても、これほど早くに起きる必要などどこにもない。
 ……しかし、ダメなのだ。今日だけは。5月13日。この日は、若草色の少女ことエルにとって重大な意味を持つ日である。……隣でまだ夢の中にいる同居人に、話せるような内容ではないけれど……。なぜならば、それはあまりに複雑で、そしてあまりに後味の悪い話だから。
 重い体に鞭を打ち、ベッドから這い上がれば、正面の窓から街の様子が一望できる。まだ街は起きてない。通りに明かりは灯っていないし、人通りもない。暗い夢の淵に落ちた街もまた、普段と違って美しいものだ。
 足音を潜めてクローゼットを開ければ、あまり多くはない私服と、ほぼ毎日来ている店の制服が目に入る。こんなことならば、日ごろからもう少し服に興味を持っておけばよかった。毎度のことながら、私服を選ぶ必要性に駆られる度にため息が漏れる。
 白いノースリーブのワンピースと、デニムのジャケット、靴はグレーのハイカットのスニーカー? 七分袖がレースになった白いトップスに、紺のガウチョパンツ? 半袖の黄色いタータンチェックのワンピースと、七分袖の淡い青のジャンパーで前を結ぶのも良いかもしれない。衣替えも必要ないほどに少ないけれど、組み合わせ次第で春らしくも見えるだろうか……?
 「あぁ、決まりませんね……」
思わず心の声が口を突く。今日は大切な日なのだ。服装の一辺ですら気を抜く訳にはいかない。一年で一度の、大切な……。
 背後で布団の擦れる音がする。ほんの小さな呟きだったが、それでも睡眠の浅い同居人を起こしてしまったようだ。
 そういえば前にこれほど真剣に服を悩んだのは、彼とのデートの時くらいだったか……。ふいに穏やかな情景が脳裏を過ぎり、エルは頬を緩める。そのデートの日も、迷った挙句決められず、最終的な判断をあろうことかデートの相手である同居人に任せた、何とも言えない思い出でもあるのだが……。
 一方で、未だに半分しか起きていない頭で、先ほどから妙に不自然な彼女の様子を眺めていた同居人ことユウは、エルにさえも悟られないようにそっと溜息を吐いた。
 いつもならば、彼女はこんなに服を選ぶことは無い。迷っているのはいつものことだが、いつもならば今朝のようにウダウダと悩むことなどせず、聞いてもいないのにこだわりまで事細かに語っているのだから。神妙な面持ちでクローゼットと対面するその様子は、例え何も聞かされていなかったとしても、今日が特別な日なのだと察するには余りあった。
 それから十五分以上悩み、珍しく自力で決めたその服を見て、エルは僅かに微笑む。その様子は、彼女と短くない付き合いをしているユウの目には、何とも痛々しく、苦い思い出と寂しさを覆い隠す笑みにしか見えなかった。



***



 午前七時。早朝の街は爽やかな活気に満ちている。通りをすれ違う人々の面持ちは多種多様で、ある人は仕事への憂鬱を、ある人は昨日の疲れを、またある人はその日の抱負を浮かべ、周囲に気も留めず早足に過ぎ去っていく。
 二番地はモーニング営業のため、昼間の活気とはまた雰囲気で賑わいを見せていた。忙しなさはやはり消えないが、昼間よりも静かで淡白も見える。
 予約していたカフェに着き、人のいない店内の奥へ奥へと歩を進めていく。アップテンポだが落ち着いたBGMは、忙しさの合間で至福の時を過ごしている人々によく似あっていた。
 「……お久しぶりです」
目的の人を見つけ、テーブルの横で足を止めて頭を下げる。ハーフアップにした髪が、グレーのレースのロングスカートに合わせて揺れる。選んだ服は肩口が広い黒い無地のトップスに、先のロングスカート、少し底の厚い白のサンダル、髪はハーフアップにして白い花の髪飾りで留めた。様々な色に囲まれる春なのに、あまりにも地味だと思い直して苦笑したのも今更だ。
 「……久しぶり」
既に到着していた相手は、コーヒーと新聞を一度机に置き、席を立って会釈を返した。久しぶりというには随分素っ気なく冷たい声で、その表情は硬いままだ。
 「……どうぞ、お掛けください」
「……失礼します」
エルよりも一段ほど低く深い重みのある声が告げ、エルは軽い会釈と共に席に着いた。まるでこれから何かの面接でも始まりそうな緊張感しかない会話に、首根っこを掴まれたような錯覚をする。
 (傍から見たら、彼女が姉だと言っても、きっと誰も信じないでしょうね……)
酷く冷めきった思考を、胸中で呟く。
 鮮やかな夕日色の髪に、紅色の目、身長はほとんど同じだが姉の方が僅かに低い。しかしその声は、生きてきた年月の重みの違いを歴然とさせている。
 強いて似ていると言えるのは髪型くらいだだろうか……。そのくらい、姉妹と言っても似つかない二人だ。緊張感から逃れようと思考を駄弁に走らせ、意識を姉から逸らそうとメニューを手に取る。
 普段ならば、人の金で食べる飯は美味いと冗談の一つでも言って輝きを放つ新緑の色の目が、深く濁っていることにその姉は気がついていた。けれど、この日ばかりは食欲が沸かないのは、彼女もまた同じだ。きっと妹は気づいていないだろうが、根本はやはり姉妹なのだと確信する。
 モーニングセットを頼み、エルは姉の手元の新聞に目を落とす。この街で発行されたものではないのだろう。
(朝食はクロワッサンと苦くて濃いコーヒーと新聞……。昔から変わりませんね……)
しかし、心なしか少し瘦せた気がする。きっとまたアトリエにでも引き籠っていたのだろう。
 数分で届けられたモーニングセットのバタートーストを口に放り、
「……ごはん、ちゃんと食べてますか」
と、どちらが妹か分からない心配事を、姉に向かって投げかけた。
 エルは知っている。芸術家という生き物が、どれほど健康と趣味の天秤の重しを間違えているかを。それは身を以てであり、同居人との経験であり、そして姉たちと過ごした日々が、まざまざと教える現実なのだ。
 「……おや、心配してくれるんですね。……大丈夫ですよ、お節介な従姉妹が押しかけては、あなたの代わりを務めてくれているので」
姉はにこやかに微笑む。そこに裏も表も無い。
「……そうですか」
甘やかなバタートーストも、この時に限っては砂のようにしか感じられなかった。
 エルはしばし沈黙を許し、思考する。前にあの家を見たのは一体何時だったか……。自分に従姉妹がいたなど知らなかったし、当然会ったこともない。姉はあの家で変わらぬ日々を送っているのだろうか。あぁ、でもやっぱり……。
 そこで姉が口を開いた。もう、エルの皿に運ばれてきた物はほとんど乗っていなかったし、タイミングを見計らってとでも言うように。
「…………帰って、来ませんか」
小さく、あまりにも自信なさげに。しかし、その裏には返ってくる返答が、既に分かっているとでも言いたげな思惑を孕んでいた。
 沈黙。一分、二分……長い、長い、無言の時間。エルもこの姉も、もとより沈黙は嫌いなたちではなかったが、この時ばかりは心臓の音が嫌になった。
 やがて、エルは真っ直ぐに姉を見つめ、それに応えるように姉も見つめ返す。そして、エルは、言葉なく、ゆっくりと、首を、横に振った。
 「…………………そう、ですか……」
それを確認して、姉は静かに、残念そうに、しかし心のどこかではその返答を予期していたかのように、小さくつぶやきを返した。残念そうだ、そういえばそうかもしれない。けれど、ならば何故、わかっていてそんな質問を口にしたのか。
 「……あの家に、私の居場所など、もう、無いではありませんか。それを一番にわかっているのは、あなたのはずですよ、お姉ちゃん」
視線を落とし、熱いコーヒーで言葉を流し込みながら、まるで淡々と文章でも読むかのようにエルは語る。
「あの日、五年前の。あの時に、失われたことくらい、言わずとも。帰る理由があるとするならば、残された孤独な姉のために食事を作るくらいですが……その役目も、既に必要ないのでしょう? 私の知らぬ従姉妹たちが、きっと私の分まで役に立ってくれているはずですから」
 再び、長い沈黙が遮る。一方は憂いを秘めて朝食を口へ運び、もう一方は悲しみを秘めて新聞へ目を落とした。互いに、もうあの頃へ戻れないことをよく理解していたからだ。その沈黙は、先の沈黙ほど重くないがしかし、次に切り出すべき言葉を見つけられない閉塞感が立ち込めていた。
 騒がしい店内の静寂を切ったのは、それから実に十分ほど経ってから。エルの軽い朝食が全て無くなってしまってからだ。
「……行きましょうか」
どちらともなく切り出して席を立つ。長くも短い、大切な一日の始まりの合図だった。



 二番地から五番地へ、路面電車で中央通り経由で移動する。喧嘩でもした後かのように、二人の間には気まずい雰囲気と無言だけが流れている。使い慣れた路面電車も、見慣れた風景も、この日、この時、この人だけは何故か違って見えるとエルは悶々と考えていた。
 家を出てから五年。姉と会える日は年に二回限り。昔はもっと気楽に言葉を交わせていたはずなのに……。姉たちと共にアトリエに籠り、寝食を削って作業に打ち込み、睡眠不足と栄養不足で倒れた二人の姉を介抱する、そんな何気なく暖かい日々は、もう、どこかへ消えてしまったのかもしれない。記憶の中にだけ残るそれは、どこまでも色鮮やかなのに……。
 穏やかに流れる春の陽の中、五番地の水路を小舟で揺られ、進む。無言のままに空を仰ぎ、二人の目的地である小さな花屋へ。思い思いの花束を一つ買い、再び小舟で中央通りへ向かい、その後路面電車で、街の外れまで行き、乗り換える。
 そこから先は路面電車ではなく、外部の列車。街を走るレトロな物とは違い、年季を感じさせない簡素でモダンな電車に乗り換え、橋を渡り、街を抜ける。東の橋は海の上にあり、窓から見えるのはどこまでも続く青い地平線だけ。車内にはこの姉妹以外にはおらず、相変わらずの無言を電車の規則的な音だけが包んでいる。
 目的地までは約一時間半の電車旅。心地よい睡魔に揺られ、エルはゆっくりと瞼を落とす。抱えた花束の優しい香りが、夢の淵へ誘っていくのを感じながら。



***

 「おねぇちゃん!」
両手でキャンバスを抱えて、私は姉たちが日中を過ごすアトリエへ駆けていく。
 八歳の誕生日、まだアトリエに場所はもらっていないけれど、自分の部屋に置かれていた白いキャンバスは、への招待状だった。絵筆を以て幾年も経たない私でも、与えられたキャンバスが示す光栄をよく理解していた。
 アトリエのドアは何年か前に取り外されて、常に開けっ放しになっている。ドアから顔を覗かせれば、真剣な面持ちで手元を見つめる二人の姉の姿が目に映る。二人は私の声を耳に留め、手を止め、優しい表情をこちらに向ける。
 「お誕生日おめでとうございます」
「おめでとう」
全く似ていない二種類の声が重なって、私はぎゅっと腕の中の贈り物を抱きしめる。
「ありがとうございますっ!」
 「準備が整い次第、ここにあなたの席もできますよ」
「お前までここに籠るようになって、食事が出なくなったりしてな」
夕日色の髪の長女は慈悲深い目で微笑みかけ、薄桃色の髪の次女はいたずらっぽい笑顔を向ける。
 その瞬間、世界中の時が止まってしまったかのように、それこそ全ての事象を無視した絵画のように感じた。ただただ幸せで、私もすぐに姉たちと同じ場所へ迎え入れてもらえることに喚起した。
 まだまだ姉たちの作品には追い付けないけれど、筆を握れる人生を喜び、きっと永遠にこの筆を放すことは無いのだと信じていた。

***



 優しい花の香りが鼻をくすぶり、エルは瞼を持ち上げる。その目には哀愁と憂いが映っていて、どこか儚い花のような表情だった。
 背中を深く椅子に預けたまま、
「……夢を……みました」
エルはどこか夢見心地のままで語りかけた。何年経っても好きになれない自分の声が、どこまでも居心地の良い静寂を切り裂くことさえ厭わず。
 「……」
隣に座った姉は、怪訝な顔をするでもなく、視線さえもエルに投げず、無言で先を促す。
 「……遠い、昔の夢です。あれは、いつだったか……。あぁ、誕生日です、あなたたちが、私に、真っ白なキャンバスを贈ってくれた日」
「………」
 「あの時、私は信じて疑いませんでした。あぁ、私は、きっといつまでもあなたたちの隣で、未熟な絵を、それでもただ幸せに描き続けるのだと。こんな日が来るとは、あんな日が来るとは、知らなかったし信じられなかった」
エルは一度言葉を置き、長くゆっくりと息を吸う。
「……あの日もらったキャンバスは、今でも真っ白なままです。結局私は、あの白いキャンバスへ、への招待状へ、何も残すことなく筆を折ってしまった」
「…………」
 「……だからこそ、でしょうか。思い出はいつまでも汚れることなく、あれほどまでに美しい。私はあの日を忘れることもありませんし、あの日、二人が見せた笑顔を偽りだと思うこともありません。それは、それは……単なる幻想かもしれませんが……」
「…………」
「……時々、思うのです。特に、あぁやって夢を見た後は。……あの日、私がキャンバスを、招待状を受け取らなければ、何も間違いは起きなかったのではないかと。例えに行けなかったとしても、かけがえない平穏を失うことは無かったのではないかと」
返答を求めるつもりはない、とでも言うかのようにエルは再び瞳を閉ざす。
 もちろん、過去なんてものは変えられないし、あの頃に戻れるだなんて思っていない。失われたものは返ってこないし、自分が再び筆を持つこともないだろう。それでも時々、悪夢のように過去を夢に見て、そしてどうしようもない焦燥感に駆られる。
 くだらないと割り切ることもできず、忘れることさえできない思い出は、いつだったかに付けられた呪具よりもずっと重く、鎖のようだ。
「……それは、ありえませんよ」
軽く淡く儚い無言を、姉は求められていない返答で打ち消す。
「……」
今度は妹が、無言で姉の話を促す番だった。
 「……あの日、こちらへの招待状を受け取らないという選択肢はあなたにはありませんでしたし、例え受け取らなかったとしても、私たちは同じように過ちを犯したでしょう」
ため息をつくように、あるいは泣き崩れる直前のように、小さく音を立てて肺腑を冷たい空気で満たす。
「……人は、失ってからしか大切さに気付かないと言います。一般論では、確かにそうなのかもしれませんね……。しかし、私は、失った後も、後悔しても、反省しても、あの日を懐かしんでも……同じ選択をしたと思います。いえ、すると思います。……もう、戻れなどしませんが、そうでなくては彼女に顔向けができませんから」
その言葉を最後に、電車の揺れが止まる。停車を知らせるアナウンスが無情にも響いた。
 「……そう、ですか」
「……はい。……行きましょうか、彼女に会いに」
「……はい」
一度たりとも視線を交わらせることなく、姉妹は電車を後にする。残されたのは僅かな花の香りだけだ。



 電車を降りると同時に、二人を歓迎するかのように暖かい春風が吹いた。眼下に広がるのは一面のアンモビウムの海。白く小さな花が、身を寄せ合って咲き乱れている。
 その奥へ、埋もれるようにして細い道が続く。年に二度、たった二人だけしか通らないのに、毎年、導くようにそこにだけ花が芽吹かない道をたどって、目的地へ向かう。
 すでに太陽は高く、五月の美空には雲一つない。冬にしては温かく、夏にしては穏やか過ぎる優しい春の陽が、花を揺らす風の音と共に二人を迎え入れている。
 目的地。駅から歩いて三十分足らず。遠くに薄ぼんやりと浮かんでいた影は、次第に形を濃くしていき、簡素なその姿を二人の目に苛烈に焼き付けている。

 灰色の、墓石。

 この下に、骨は埋まっていない。……否、埋めるべき骨すらも、見つかっていない。
 蔦に絡まれることもなく、生前の彼女の様を悠々と示すように、静かに鎮座する墓石へ、二人は花を手向ける。一方の妹であり、もう一方の姉であるその人へ。
 流れていった五年という月日はあまりに長く、あまりに空虚だった。消えきらぬ痛みを、悲しみを、全て捧げるように。
 エルはそのまま墓前にしゃがみ込む。レースのロングスカートが土に塗れてしまわないように、そっと膝の裏へ織り込んで。静かに手を合わせ、目を閉じた。線香の一つも持ってきてはいないのに、ツンとした匂いが鼻の奥いっぱいに広がって、じんわりと下瞼が濡れる。
 その姉は、妹の後ろに佇んだまま、深い色の目で置かれた花を眺めていた。前に来た時から二か月しか経っていないからか、置かれたままの花は枯れて間もないように見える。何度花を手向けようとも、渡したい相手に花束が届くことなど無いというのに……。
 五年前までは、この日は祝日だった。大事な妹がこの世に生を受けた日だった。本当ならば花を手向けるべきは物言わぬ墓石などではなく、強気で不器用な笑顔を浮かべる妹なのだ。
 ……どう悔やもうが、もう二度と帰っては来ない日々。もう二度と、笑顔で迎えることなどできないこの日。……それでも、未だに未練がましく、似ているところなど皆無な姉妹は、今は亡き姉妹の誕生日を祝い続けている。

 それからしばらくの時間が流れ、エルはようやく目を開けて背後を振り返る。いつからいなかったのかは定かではないが、自分の背後にいたはずの姉は、既に姿をくらましていた。
 それは、先に帰ってしまっただなんていう薄情なものではなく、自分への明確な気遣いだと理解して、エルは再び墓石と向き合う。人前で、例え姉の前であったとしても、涙を流すことができない自分のための……。
 刹那、風が止んだ。それを合図のように、とめどなく溢れた雫が、足元の地面の色を濃く染めていく。誰にも気を遣うことなく声を上げて、服が汚れることも気にせず膝をついて、大粒の涙が伝う。それを、一体誰が止められようと言うのか。
 心の奥深くに封じ込めた記憶が、決壊した涙腺で溶かされていく。忘れたい、忘れるべく日々なのに。それなのに、今でもなお色濃く記憶に刻み込まれた日々が。



 エルには二人の姉がいた。一人は目を焼くように鮮やかな色彩の風景画を得意とし、もう一人は抽象的な幻想の造形を得意としていた。
 画家の長女は七つ上、彫刻家の次女は二つ上。エルたち三姉妹は有名な芸術家の分家で、家門こそあまり知られていないが技術は本家にも劣ってはいなかった。今でも確かにそう思う。
 だからこそエルも、二人の姉のように、将来は芸術家になるのだと信じて疑わなかった。長者からキャンバスが贈られるというのは、この家のしきたりの一つだ。なんの意味があるのか、誰が始めたのかは不明だが……そのキャンバスこそが、芸術の道を志す許可証だ。
 忘れもしない八歳の誕生日、エルはその許可証を手に入れた。それは二人の姉の総意であり、絵画の道に進むも造形の道に進むも自由だと、付け加えられていた。
 端的に言うなら、絵を描くことは昔から大好きだった。最初のうちは姉の作品の模写ばかりだったが、絵具で気張って描くよりも、気の赴くままにペンを走らせるほうが性に合っていた。
 八歳の誕生日を過ぎてからも、結局今まで通りの、気張らない子供の落描きばかり量産していたが、姉たちはそれでも喜んでくれていたし、漫画家やアニメーターの道も進めてくれた。エルはそんな自由な環境に感謝していた。
 ……そう、事件が起きる、あの日までは。
 五年前の三月ごろ、とある騒動が起こる。芸術の道に進むならば、避けては通れないいざこざ。不幸なことに、二人の姉はその災禍にあった。
 世論は結論を下す、その盗作事件に。事実から言うならば単なる偶然出会ったけれど、世論と本家はそれを潔しとせず、どちらか一方を悪役に仕立て上げることを選んだ。
 二月末、二人の姉は別々に各々の作品を発表した。時期でいうならば長女が少し先で、次女がその少し後だった。
 二人は道は違えど、同じアトリエで作業しており、その時二人が作り上げたのは偶然にも蝶をモチーフにした作品だった。これがもし、互いに影響し合い、同じモチーフにしようと事前に決めていたのならば、これほどまでに大ごとにはならなかっただろう。
 二人の作品はジャンルの違いからか、言われなければ特に何も意識することのない別々の作品。しかし、言われてみれば構図が似ているような気もするし、どちらかがどちらかの作品を模倣したと言っても過言ではなく見える。疑い始めてしまえば、人の目は歪むものだ。結果、それは盗作事件として処理されることになった。
 発表の順と知名度の関係から、悪役に仕立て上げられることとなったのは次女の方だった。そう、この、墓石の持ち主だ。
 芸術に心血を注ぐこの世界と本家では、盗作は死刑よりも重罪となる。ただの偶然であれ、一度表に出てしまった汚名は、一切の痕跡なく消し去ってしまうのが一番だ……。
 同年三月二十一日、物々しい雰囲気に叩き起こされて、いつも通りにエルが起きると、本家の人々が居間に集まっていた。その中心にいるのは姉たちで、ただ事ではない雰囲気にエルは息を殺して、部屋の外から様子を窺っていた。
 必死に弁明する次女の声、責め立てる本家の大人たち、一向に聞こえない長女の声……。その瞬間のその部屋は、到底我が家とは思えず、拷問か何かかと疑ったし、夢であれとまで願った。
 一時間、二時間……と、終わることのない言い合いが続き、疲れ果てたような次女の声がした。
「……もう、いい。……もう、こんな世界飽き飽きだ」
酷く重く、多すぎる感情を含んだ声が、今でも頭からはがれない。
 自分より長く生きてきた姉たちは、いったいどんな世界を見てきたのだろうか。当時まだ十五歳だった次女が放ったその一言は、その場に居合わせた全ての人の中で、最も年老いて聞こえた。
 一瞬の静寂に
「……お前も……いや、お前は初めから、こうなることを望んでたんだろ。もう、いいよ。もう……疲れた」
と、次女の諦めが続いた。
 それから間もなく、部屋は一気に騒がしくなる。あれよあれよと取り立てられて、激しく足を踏み鳴らしながら今を飛び出してきた大人たちと、彼らに引きずられるようにして連れ出された次女を見た。
 その視線に気づいてか、次女もまた、ずっと隠れていた三女を見つめる。
 視界が混ざり、世界から音が消えるのもつかの間、慌てて手を伸ばした。
「っ……!! 待って! 待ってください‼ 姉は、■■はっ! 盗作なんかしません! ただの偶然にこじつけて苦しめるなんて、おかしいですっ!!」
駆けだし、燃えるように熱い喉から叫びを押し出す。長女が一向に声にしなかった叫びを。
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 ただの一度、たまたま似ていただけで、今この瞬間、姉は連れていかれそうになっているのだ。それをどうして、黙ってみていられようものか。
 しかし、伸ばした手は虚しく空をきり、叫んだ言葉は空へ霧散した。
「嫌ですっ! いかないで!!」
目から涙が零れ落ちるのも構わず、外へ引きずられていく姉へ、裸足のままで駆け出して。
 「っ…………!」
姉の表情が、一瞬くしゃりと歪む。いつだって強く優しく、並みだなんて見せなかった姉の表情が、今にも泣き崩れそうだ。伸ばされた茶色く硬い手袋のはめられた手は、虚しくも空を切る。
 ……しかし、程なくして諦めたようにその手はだらしと下に落ちる。
「ごめん、な。……私は、そっちにはいかれないみたいだ。……せめて、お前だけは、幸せになれよ」
エルの記憶に残る、姉の最後の言葉だ。



 それから幾年の月日が流れようと、次女が家に帰ってくることは無かった。無論、次女の作品はその後一切発表されておらず、家名を汚したとして過去の次女の作品の一切さえも、歴史から名を消している。
 故に、ここに、墓があるのだ。骨を拾うことすら許されなかった、家族を弔うために。生きているなんて幻想は、きっと五年前のその日に忘れてきてしまった。
 次女を庇おうとしなかった長女への恨みも、いつだかに忘れ去ってしまった。残ったのはただ、帰ってこない姉とこの場所と、消えることのない大きな傷くらいだ。
 涙は未だに留まるところを知らない。ひとしきり泣いても、息を吸い込むと空気はどこか冷たくて、再び喉の奥が熱くなる。
(……私は……私は、幸せですよ……。あの後、本当に色々ありましたけど……それでも、幸せな日々を手に入れましたよ……。いつか、あなたの会えた時、笑顔でたくさん思い出が語れるように、精いっぱい、生きていきますから……)
胸中の声は誰にも届かない。
 傾き始めた春の陽がその様子を見守り、夕日の臭いを連れた春の風がその涙を撫でていった。



【殺人鬼の住まう街:第三話『5月13日の夕日と草原』】
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