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第1話「孤独な人」
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私がまだ幼稚園で“泥団子遊び”をしていた頃。
母がグレーのスーツケースを片手に、自宅から出て行った。
朝起きると、ちょうど玄関口から大きなスーツケースを運び出すところだったので私がその後を追いかけようとしたら、母はただ一言。
―――こっちに来ないで。
そう私に向かって言い放った。
母が残して行った一通の置き手紙には、簡素なメッセージが綴られていた。
―――美帆、あなたをどう愛したら良いか分からなくなりました。
―――お母さんよりお父さんの方が、あなたのことを愛してくれるかもしれません。
―――もうお母さんのことは、忘れて下さい。
―――これからはお父さんと2人、仲良くね。さようなら。
この手紙の内容が読めるようになったのは、小学生になってからだった。
この頃の父は怠け者で、暇さえあればパチンコ、競艇、競馬。
家にいた試しはまるでなく、母からの手紙を読んでいたはずなのに、内容を教えてくれるということもしなかった。
ただ、母のいない生活を物心がついたことで受け入れると、今度は別のことが私を悩ませるようになって行った。
*
ドン、と衝撃を受け、美帆はその場で身体のバランスを崩して尻もちをついた。
店内の陳列棚にパスタの商品を整理していた途中、その場に転倒する。
「…あ、ゴメーン。影が薄いから気づかなかったぁ」
クスクスと笑い声を残して、同僚で先輩の川元が後ろを去っていく。
彼女は今年で25歳、美帆よりひとつ年上である。
毎日、このような扱いを受けていた彼女。
彼女、万場美帆こと美帆が勤めるのは「BLUE COFFEE」。
全国に散らばる業界1位のコンビニチェーンだ。
バイトとして勤め始めて3年になるが、同僚たちと上手く打ち解けることは、叶わなかった。
夜9時を過ぎた同じ頃、都内某所の通りを運転する黒っぽい外車で走りながら、電話をしているひとりの男の姿があった。
「無茶言うなよ、姉貴…今仕事がまとまってて葬儀には出れないって今朝も言っただろ?」
彼は、五十畑浩一、今年で31歳になる都内のクリニックの小児科医だ。
ワイシャツに黒っぽいスーツを着て、落ち着いた印象を受ける彼の通話の相手は、姫路に住む彼の姉、恭子である。
一度結婚に失敗し、実家で幼稚園の娘を育てる彼女は、この日の深夜に「昔よくアイスをくれた近所のおじさんが病気で急逝し、葬儀の日程が決まった。
すぐに帰ってきなさい」と連絡をよこして来た。
亡くなった男性は、子供の頃によくして貰った人物だ。本音を言えば、浩一も帰省したかった。
しかし、ひと月先まで、彼のスケジュールは「診察」の予定で埋まっている。とてもではないが、行けなかった。
『あんた、薄情ねぇ…』
浩一はその返事に溜息を漏らした。
「俺だって悪いと思ってるよ……。姉貴が代わりにお参りしておいてくれ。俺も行きたいのは山々なんだ。でも診察の予定が詰まってるんだよ…」
溜め息が、通話口の向こうから聞こえた。
『…分かった。じゃぁ、今度帰ってきた時にちゃんとおじさんの家に挨拶に行くのよ?』
あぁ、と答えると、恭子からの通話音が、プツッと音を立て、途絶える。
間もなく、浩一はため息を吐いた。
やがて、彼―――浩一の車はとあるコンビニの駐車場へと入っていた。
店の出口が目の前に見える駐車スペースに勢い良く停めると、ハンドルを離して、運転席に座ったまま、彼はひときわ大きめの溜め息を吐いていた。
脳裏に浮かぶのは、幼少期、アイスをくれた笑顔の男性。姉の恭子と共に、喜んだ記憶が、フイルムを投影したように脳裏へと蘇った。
「おじさん、今度帰ったらちゃんとお参り…行くからな。ゴメンな…」
そう独り言を呟いた矢先のこと。
無意識に、何となく視線を上げ、目の前のコンビニ『BLUE COFFEE』の明るい店内に目をやる。
偶然にも中で勤務する制服を着た店員の姿が見えた。
見るでもなく何とはなしに眺めていると―――。
―――ゼニゲバ、アンタもっと手早く掃除しなさいよ。
彼女の口の動きを見て読み取った言葉に、彼、浩一は顔を洗ったように一気に我に返って瞬いた。
その横暴なセリフに眉毛を寄せる。
―――アンタがいるだけで、店の中暗くて困るんだけど。
悪態のように言葉を投げかける彼女の目と鼻の先にいるのは、ひとりの女性。
着ている身なりからして、同じ店内で働く店員だろう。
浩一は、小学生の頃から聴覚障害を持つ叔母との会話を円滑にする為、恭子と一緒に読唇術と手話を勉強した生い立ちがある。
その為、どんなに声や会話でのコミュニケーションが困難な状況でも、唇の動きを見ただけで、相手が何を言ったのかはおおかた分かってしまうのだ。
店員は更に続ける。
―――アンタ、何で辞めないわけ?マジで邪魔なんだよ!
やがて罵る彼女の顔には小馬鹿にしたような品のない笑みが浮かぶ。
浩一の視線が一度空を彷徨った。
母がグレーのスーツケースを片手に、自宅から出て行った。
朝起きると、ちょうど玄関口から大きなスーツケースを運び出すところだったので私がその後を追いかけようとしたら、母はただ一言。
―――こっちに来ないで。
そう私に向かって言い放った。
母が残して行った一通の置き手紙には、簡素なメッセージが綴られていた。
―――美帆、あなたをどう愛したら良いか分からなくなりました。
―――お母さんよりお父さんの方が、あなたのことを愛してくれるかもしれません。
―――もうお母さんのことは、忘れて下さい。
―――これからはお父さんと2人、仲良くね。さようなら。
この手紙の内容が読めるようになったのは、小学生になってからだった。
この頃の父は怠け者で、暇さえあればパチンコ、競艇、競馬。
家にいた試しはまるでなく、母からの手紙を読んでいたはずなのに、内容を教えてくれるということもしなかった。
ただ、母のいない生活を物心がついたことで受け入れると、今度は別のことが私を悩ませるようになって行った。
*
ドン、と衝撃を受け、美帆はその場で身体のバランスを崩して尻もちをついた。
店内の陳列棚にパスタの商品を整理していた途中、その場に転倒する。
「…あ、ゴメーン。影が薄いから気づかなかったぁ」
クスクスと笑い声を残して、同僚で先輩の川元が後ろを去っていく。
彼女は今年で25歳、美帆よりひとつ年上である。
毎日、このような扱いを受けていた彼女。
彼女、万場美帆こと美帆が勤めるのは「BLUE COFFEE」。
全国に散らばる業界1位のコンビニチェーンだ。
バイトとして勤め始めて3年になるが、同僚たちと上手く打ち解けることは、叶わなかった。
夜9時を過ぎた同じ頃、都内某所の通りを運転する黒っぽい外車で走りながら、電話をしているひとりの男の姿があった。
「無茶言うなよ、姉貴…今仕事がまとまってて葬儀には出れないって今朝も言っただろ?」
彼は、五十畑浩一、今年で31歳になる都内のクリニックの小児科医だ。
ワイシャツに黒っぽいスーツを着て、落ち着いた印象を受ける彼の通話の相手は、姫路に住む彼の姉、恭子である。
一度結婚に失敗し、実家で幼稚園の娘を育てる彼女は、この日の深夜に「昔よくアイスをくれた近所のおじさんが病気で急逝し、葬儀の日程が決まった。
すぐに帰ってきなさい」と連絡をよこして来た。
亡くなった男性は、子供の頃によくして貰った人物だ。本音を言えば、浩一も帰省したかった。
しかし、ひと月先まで、彼のスケジュールは「診察」の予定で埋まっている。とてもではないが、行けなかった。
『あんた、薄情ねぇ…』
浩一はその返事に溜息を漏らした。
「俺だって悪いと思ってるよ……。姉貴が代わりにお参りしておいてくれ。俺も行きたいのは山々なんだ。でも診察の予定が詰まってるんだよ…」
溜め息が、通話口の向こうから聞こえた。
『…分かった。じゃぁ、今度帰ってきた時にちゃんとおじさんの家に挨拶に行くのよ?』
あぁ、と答えると、恭子からの通話音が、プツッと音を立て、途絶える。
間もなく、浩一はため息を吐いた。
やがて、彼―――浩一の車はとあるコンビニの駐車場へと入っていた。
店の出口が目の前に見える駐車スペースに勢い良く停めると、ハンドルを離して、運転席に座ったまま、彼はひときわ大きめの溜め息を吐いていた。
脳裏に浮かぶのは、幼少期、アイスをくれた笑顔の男性。姉の恭子と共に、喜んだ記憶が、フイルムを投影したように脳裏へと蘇った。
「おじさん、今度帰ったらちゃんとお参り…行くからな。ゴメンな…」
そう独り言を呟いた矢先のこと。
無意識に、何となく視線を上げ、目の前のコンビニ『BLUE COFFEE』の明るい店内に目をやる。
偶然にも中で勤務する制服を着た店員の姿が見えた。
見るでもなく何とはなしに眺めていると―――。
―――ゼニゲバ、アンタもっと手早く掃除しなさいよ。
彼女の口の動きを見て読み取った言葉に、彼、浩一は顔を洗ったように一気に我に返って瞬いた。
その横暴なセリフに眉毛を寄せる。
―――アンタがいるだけで、店の中暗くて困るんだけど。
悪態のように言葉を投げかける彼女の目と鼻の先にいるのは、ひとりの女性。
着ている身なりからして、同じ店内で働く店員だろう。
浩一は、小学生の頃から聴覚障害を持つ叔母との会話を円滑にする為、恭子と一緒に読唇術と手話を勉強した生い立ちがある。
その為、どんなに声や会話でのコミュニケーションが困難な状況でも、唇の動きを見ただけで、相手が何を言ったのかはおおかた分かってしまうのだ。
店員は更に続ける。
―――アンタ、何で辞めないわけ?マジで邪魔なんだよ!
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