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VIII 追憶-救い- -III
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――私は天使だ。人を、救わなければならない。
何度も頭の中で繰り返し、この状況に馴染む為に足を一歩前へ踏み出した。
近づいたのは、部屋の中央に置かれた大きな長方形のテーブル。掛けられたくすんだ薄いピンクのテーブルクロスには美しい薔薇の絵が描かれており、裾にはオフホワイトの糸で編まれたレースが施されていた。
その上に丁寧に並べられているのは、見ただけで高級だと分かる食器に乗せられたケーキやスコーン、サンドイッチなどの軽食から、コールドビーフ、コテージ・パイ、チキンなどの料理。私1人では決して食べきれない量だ。これ程豪華な料理を目にしたのは初めてで、こんな状況だというのに心が弾んでしまう。
「ねぇ、マリアちゃん! これ食べていい?」
「え……」
私の動きをぼんやりと目で追っていたマリアが、その瞳に明確な動揺を滲ませる。
それも当然だ。この様な状況で、況してや死体を目の前にして食事をするなど、気が狂っているとしか思えない。
それでも、今の私に必要な物は冷静さだ。この状況に狼狽えてはいけない。
――私は天使だ。人を、救わなければならない。
何度も、何度もそう繰り返し、薄くスライスされたコールドビーフを指先で摘まみ上げ、口の中に抛りこんだ。
口を動かししっかりと咀嚼し、ごくりと飲み込む。床に転がった死体に目を遣れば、今飲み込んだばかりのコールドビーフを戻してしまいそうになったが、それでも唾液を飲み込み無理矢理抑え込んだ。
次に足を向けたのは、壁に沿って置かれた木製のベビーベッド。
先程の様に泣き喚いている訳では決して無いが、今も愚図っていて不満そうな、不安そうな声を漏らしていた。
背伸びをしてベビーベッドの中を覗き込み、赤子に目を向ける。確かに、この赤子はマリアが言った様に“普通”では無い。一目見ただけで、それに直ぐに気が付く事が出来た。
「可愛い赤ちゃんだね。この子が、マリアちゃんの子供?」
「……」
マリアは、私の問いには答えない。だが今は、この問いの答えは必要では無かった。
踵を床に付け、視線をマリアに戻す。
マリアの手は相変わらず短剣を握ったままであったが、刃先はもう首元に突き付けられてはいなかった。ただ私の行動を、信じられないといった顔で見ている。
そっと足音を立てないようにマリアの背後に回り込み、床に転がった死体を見つめる。
幼い私には、刺激が強すぎる物だ。――いや、大の大人が見ても正気を保てるものでは無い。
死体の損傷は無く、ただ心臓を一突きされただけの物であるが、出血が酷く床に血溜まりが出来ている。つんとする血の匂いに、吐き気を催す程だ。
そこでふと、とある事に気付いた。
床に転がる男の死体。その男のシャツは開けていて、胸が晒されている。
胸の中心には、まるで穴が開いた様な赤黒い刺し傷。そしてその刺し傷を中心に、男の胸にはダリアの花が咲いていた。
いつかマリアが見せてくれた、タトゥーと同じだ。花の種類は違えど、この男の胸にも美しい花のタトゥーが施されていた。
“貴女にもいつか、愛する人が出来るわ。そしたらきっと、私が痛みに耐えてまで胸にタトゥーを彫った本当の意味が分かると思うの”
マリアが昔、私に告げた言葉。男の胸に咲くダリアの花を見ていて、ふとその言葉を思い出した。
「……この人、マリアちゃんの旦那さん?」
そう静かに問うと、マリアが嗚咽を漏らし瞳から涙を零した。言葉での返答は無かったが、彼女のその反応で彼がマリアの配偶者だった事を悟る。
あの言葉の意味を、私はやはり理解する事は出来なかった。しかし何故だか、彼の胸に咲いたダリアの花を見ていると、胸に重い何かが広がっていくのを感じた。
――思い返してみれば、私が初めて教唆をしたのはこの時だった。
そして私はこの日を境に、自身が静かに狂い始めていくのを何処かで感じていた。
何度も頭の中で繰り返し、この状況に馴染む為に足を一歩前へ踏み出した。
近づいたのは、部屋の中央に置かれた大きな長方形のテーブル。掛けられたくすんだ薄いピンクのテーブルクロスには美しい薔薇の絵が描かれており、裾にはオフホワイトの糸で編まれたレースが施されていた。
その上に丁寧に並べられているのは、見ただけで高級だと分かる食器に乗せられたケーキやスコーン、サンドイッチなどの軽食から、コールドビーフ、コテージ・パイ、チキンなどの料理。私1人では決して食べきれない量だ。これ程豪華な料理を目にしたのは初めてで、こんな状況だというのに心が弾んでしまう。
「ねぇ、マリアちゃん! これ食べていい?」
「え……」
私の動きをぼんやりと目で追っていたマリアが、その瞳に明確な動揺を滲ませる。
それも当然だ。この様な状況で、況してや死体を目の前にして食事をするなど、気が狂っているとしか思えない。
それでも、今の私に必要な物は冷静さだ。この状況に狼狽えてはいけない。
――私は天使だ。人を、救わなければならない。
何度も、何度もそう繰り返し、薄くスライスされたコールドビーフを指先で摘まみ上げ、口の中に抛りこんだ。
口を動かししっかりと咀嚼し、ごくりと飲み込む。床に転がった死体に目を遣れば、今飲み込んだばかりのコールドビーフを戻してしまいそうになったが、それでも唾液を飲み込み無理矢理抑え込んだ。
次に足を向けたのは、壁に沿って置かれた木製のベビーベッド。
先程の様に泣き喚いている訳では決して無いが、今も愚図っていて不満そうな、不安そうな声を漏らしていた。
背伸びをしてベビーベッドの中を覗き込み、赤子に目を向ける。確かに、この赤子はマリアが言った様に“普通”では無い。一目見ただけで、それに直ぐに気が付く事が出来た。
「可愛い赤ちゃんだね。この子が、マリアちゃんの子供?」
「……」
マリアは、私の問いには答えない。だが今は、この問いの答えは必要では無かった。
踵を床に付け、視線をマリアに戻す。
マリアの手は相変わらず短剣を握ったままであったが、刃先はもう首元に突き付けられてはいなかった。ただ私の行動を、信じられないといった顔で見ている。
そっと足音を立てないようにマリアの背後に回り込み、床に転がった死体を見つめる。
幼い私には、刺激が強すぎる物だ。――いや、大の大人が見ても正気を保てるものでは無い。
死体の損傷は無く、ただ心臓を一突きされただけの物であるが、出血が酷く床に血溜まりが出来ている。つんとする血の匂いに、吐き気を催す程だ。
そこでふと、とある事に気付いた。
床に転がる男の死体。その男のシャツは開けていて、胸が晒されている。
胸の中心には、まるで穴が開いた様な赤黒い刺し傷。そしてその刺し傷を中心に、男の胸にはダリアの花が咲いていた。
いつかマリアが見せてくれた、タトゥーと同じだ。花の種類は違えど、この男の胸にも美しい花のタトゥーが施されていた。
“貴女にもいつか、愛する人が出来るわ。そしたらきっと、私が痛みに耐えてまで胸にタトゥーを彫った本当の意味が分かると思うの”
マリアが昔、私に告げた言葉。男の胸に咲くダリアの花を見ていて、ふとその言葉を思い出した。
「……この人、マリアちゃんの旦那さん?」
そう静かに問うと、マリアが嗚咽を漏らし瞳から涙を零した。言葉での返答は無かったが、彼女のその反応で彼がマリアの配偶者だった事を悟る。
あの言葉の意味を、私はやはり理解する事は出来なかった。しかし何故だか、彼の胸に咲いたダリアの花を見ていると、胸に重い何かが広がっていくのを感じた。
――思い返してみれば、私が初めて教唆をしたのはこの時だった。
そして私はこの日を境に、自身が静かに狂い始めていくのを何処かで感じていた。
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