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XIII 追憶-交渉- -III
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「マリア・ウィルソン……ね。何処かで聞いた事ある様な名前だな」
「元、舞台女優って言ってた」
「舞台女優……? あの、ジャックの劇団のか」
「……ご、ごめんそこまでは、聞いてない」
ジャックという名は、過去に何度か聞いた事がある。確か、街の小さな劇場のオーナーだった筈だ。
セドリックにはどうやら音楽――特にピアノの才能があった様で、ブローカーを始める前はその劇場でピアニストの代理を務め小遣い稼ぎをしていた事もあったらしい。
マリアからも女優時代の話は詳しく聞いていないが、セドリックには何か思い当たる節があるのだろうか。
彼の顔を再び見つめるが、彼は話の続きをする様子は無く、黙って煙草の煙を吐き出した。
「それで、ね」
少々躊躇いがちに、続きの言葉を紡ぐ。
「マリアちゃんには、3歳になる娘がいるの。名前はノエル。凄く大人しい子。借金はとても返せる額じゃなくて、この前遂に借金取りから、金が返せないならノエルちゃんを競売に掛けるって、言われたらしい」
「いいんじゃねぇの、それで借金がチャラになるなら」
間髪を入れずに返されたのは、あまりに無慈悲な言葉。その言葉に、一瞬頭の中が真っ白になる。そして火が付いた様に怒りが沸き上がり、思わず拳を強く握りしめた。
しかし冷静に考えて見れば抑々、彼の中に“慈悲”なんて物は存在しない。痛みを感じる程に拳を握りしめたまま、“落ち着け、冷静になれ”と脳内で何度も繰り返した。
「マリアちゃんは、ノエルちゃんを守りたいって、競売に掛けられる位なら逃がしてやりたいって思ってる。だから、ノエルちゃんを引き取ってくれる人を探して欲しい」
緊張か、それとも怒りか。自身でも理解する事が出来ない奇妙な感情がぐるぐると回り、声が僅かに震える。
しかし私の激しい感情とは裏腹に、彼は顔色も心情も変える事は無かった。ただ静かに、煙を吐き出している。
私と彼の間に、流れる沈黙。彼は私の言葉を真面目に考えているのだろうか、それとも重要視していないのだろうか。心を読むだけでは、何も分からない。ただ、これ以上の説明は不要だ、という事は分かった。
口を噤み、どれだけの時間が経過しただろう。聞こえるのは、彼が静かに煙草を吸う音と、秒針の音だけ。
今こうしている間にもマリアは苦しんでいるというのに、私は床の一点を見つめ、黙って彼の返答を待つ事しか出来ない。自身の無力さに、嫌気が差す。
「――駄目だな」
突如頭上から聞こえた声に、弾かれたように顔を上げた。
何故かと尋ねる前に、彼が「知人や友人からの依頼は受けない。それが規則だ」と言葉を付け加える。
「で、でも、マリアちゃんは私の友人でしょ? セディにとっては無関係な人間じゃない!」
「随分な屁理屈だな」
「屁理屈なのは、分かってる。でも、でももう時間が無いの! お願い、お願いします」
彼に向って、身体を半分に折り曲げる様に深く頭を下げる。私が彼に、この様な行動をとったのは初めてだ。彼も私も、家族の様な存在ではあれど何処か他人にも近く、頼み頼まれる関係では無い。良くも悪くもフラットな関係なのだ。
なのに、今私は彼に懇願し、深く頭を下げている。心の何処かでそれが何だか不思議に感じて、マリアの事も、ノエルの事も、借金取りの事も、依頼の事も、こうして彼に頼み込んでいる事さえも、シアトリカルな出来事の様に思えてくる。
自身の癖の付いたブロンド髪が、顔を覆い尽くす様に顔の横に垂れる。それが少しばかり鬱陶しく感じるが、今は髪を耳に掛けるどころか、指先一本ですら上手く動かす事が出来なかった。
「――……」
ふと頭上から聞こえたのは、長く、重い溜息。
「――その女、此処に連れてこい」
たった一言そう告げた彼が、再び溜息を吐いた。ぱっと頭を上げたのと同時に、彼が煙草を片手に私の隣を擦り抜ける。
どうやら、ホールに留まるつもりはないらしい。階段を上っていくセドリックを目で追いながら、彼の言葉を脳内で繰り返す。
此処に連れてこい、という事は、マリアと面談をしてくれるという事だ。依頼の可否はまだ分からないが、それでも面談をしてくれる気になっただけ前進である。
「あ、ありがとう!」
漸くその言葉が出た頃には、もうセドリックの背は見えなくなっていた。きっと、煙草を吸いにバルコニーへと向かったのだろう。
安堵からか、その場に崩れ落ち床に座り込む。
マリアとノエルを救える未来が、やっと少しずつ見えてきた。このまま上手く引き取り手が見つかってくれれば、ノエルは競売に掛けられずに済む。それに、借金の返済だって出来るだろう。
今は、悪い事は考えたくない。渋るセドリックに、なんとか面談の約束を取り付ける事が出来たのだ。きっと、上手くいくに決まっている。
そんな思いを胸に、祈る様に膝の上で指を組んだ。
「元、舞台女優って言ってた」
「舞台女優……? あの、ジャックの劇団のか」
「……ご、ごめんそこまでは、聞いてない」
ジャックという名は、過去に何度か聞いた事がある。確か、街の小さな劇場のオーナーだった筈だ。
セドリックにはどうやら音楽――特にピアノの才能があった様で、ブローカーを始める前はその劇場でピアニストの代理を務め小遣い稼ぎをしていた事もあったらしい。
マリアからも女優時代の話は詳しく聞いていないが、セドリックには何か思い当たる節があるのだろうか。
彼の顔を再び見つめるが、彼は話の続きをする様子は無く、黙って煙草の煙を吐き出した。
「それで、ね」
少々躊躇いがちに、続きの言葉を紡ぐ。
「マリアちゃんには、3歳になる娘がいるの。名前はノエル。凄く大人しい子。借金はとても返せる額じゃなくて、この前遂に借金取りから、金が返せないならノエルちゃんを競売に掛けるって、言われたらしい」
「いいんじゃねぇの、それで借金がチャラになるなら」
間髪を入れずに返されたのは、あまりに無慈悲な言葉。その言葉に、一瞬頭の中が真っ白になる。そして火が付いた様に怒りが沸き上がり、思わず拳を強く握りしめた。
しかし冷静に考えて見れば抑々、彼の中に“慈悲”なんて物は存在しない。痛みを感じる程に拳を握りしめたまま、“落ち着け、冷静になれ”と脳内で何度も繰り返した。
「マリアちゃんは、ノエルちゃんを守りたいって、競売に掛けられる位なら逃がしてやりたいって思ってる。だから、ノエルちゃんを引き取ってくれる人を探して欲しい」
緊張か、それとも怒りか。自身でも理解する事が出来ない奇妙な感情がぐるぐると回り、声が僅かに震える。
しかし私の激しい感情とは裏腹に、彼は顔色も心情も変える事は無かった。ただ静かに、煙を吐き出している。
私と彼の間に、流れる沈黙。彼は私の言葉を真面目に考えているのだろうか、それとも重要視していないのだろうか。心を読むだけでは、何も分からない。ただ、これ以上の説明は不要だ、という事は分かった。
口を噤み、どれだけの時間が経過しただろう。聞こえるのは、彼が静かに煙草を吸う音と、秒針の音だけ。
今こうしている間にもマリアは苦しんでいるというのに、私は床の一点を見つめ、黙って彼の返答を待つ事しか出来ない。自身の無力さに、嫌気が差す。
「――駄目だな」
突如頭上から聞こえた声に、弾かれたように顔を上げた。
何故かと尋ねる前に、彼が「知人や友人からの依頼は受けない。それが規則だ」と言葉を付け加える。
「で、でも、マリアちゃんは私の友人でしょ? セディにとっては無関係な人間じゃない!」
「随分な屁理屈だな」
「屁理屈なのは、分かってる。でも、でももう時間が無いの! お願い、お願いします」
彼に向って、身体を半分に折り曲げる様に深く頭を下げる。私が彼に、この様な行動をとったのは初めてだ。彼も私も、家族の様な存在ではあれど何処か他人にも近く、頼み頼まれる関係では無い。良くも悪くもフラットな関係なのだ。
なのに、今私は彼に懇願し、深く頭を下げている。心の何処かでそれが何だか不思議に感じて、マリアの事も、ノエルの事も、借金取りの事も、依頼の事も、こうして彼に頼み込んでいる事さえも、シアトリカルな出来事の様に思えてくる。
自身の癖の付いたブロンド髪が、顔を覆い尽くす様に顔の横に垂れる。それが少しばかり鬱陶しく感じるが、今は髪を耳に掛けるどころか、指先一本ですら上手く動かす事が出来なかった。
「――……」
ふと頭上から聞こえたのは、長く、重い溜息。
「――その女、此処に連れてこい」
たった一言そう告げた彼が、再び溜息を吐いた。ぱっと頭を上げたのと同時に、彼が煙草を片手に私の隣を擦り抜ける。
どうやら、ホールに留まるつもりはないらしい。階段を上っていくセドリックを目で追いながら、彼の言葉を脳内で繰り返す。
此処に連れてこい、という事は、マリアと面談をしてくれるという事だ。依頼の可否はまだ分からないが、それでも面談をしてくれる気になっただけ前進である。
「あ、ありがとう!」
漸くその言葉が出た頃には、もうセドリックの背は見えなくなっていた。きっと、煙草を吸いにバルコニーへと向かったのだろう。
安堵からか、その場に崩れ落ち床に座り込む。
マリアとノエルを救える未来が、やっと少しずつ見えてきた。このまま上手く引き取り手が見つかってくれれば、ノエルは競売に掛けられずに済む。それに、借金の返済だって出来るだろう。
今は、悪い事は考えたくない。渋るセドリックに、なんとか面談の約束を取り付ける事が出来たのだ。きっと、上手くいくに決まっている。
そんな思いを胸に、祈る様に膝の上で指を組んだ。
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