DachuRa 3rd story -天使と讃えられたのは、悲劇に堕ちた哀れな教唆犯-

白城 由紀菜

文字の大きさ
220 / 222

LXIII 変化したもの-IV

しおりを挟む
    *

「――さて、では妻になる貴女に課題があります」

 涙が止まり、漸く落ち着いた頃。彼が普段の口調で唐突にそんな事を言いだした。「課題?」と問うと、彼がにこりと笑う。

「これからは僕の事を、“先生”では無く“エドワード”と呼んでください」

「……は?」

 此方は涙でぐしゃぐしゃになった顔を隠すのに必死だったというのに、そんな私の思いなど露知らず、彼は声を弾ませて告げる。

「さぁ、呼んでみてください。エドワード、と!」

 これ程機嫌が良い彼を、今までに見た事があっただろうか。そんな事を思ってしまう程、彼は上機嫌だ。
 先程迄の感動が台無しだ。興醒めとは、まさにこの事である。

「……」

 彼のジャケットの裾を借りて顔を拭っていると、彼はやや煽る様に首を傾げた。

「呼べないんですか? お強い貴女に出来ない事なんてあるんですね」

 先程とは相反する言葉に飽きれながらも、口を開く。しかし、喉から声が出る事は無く固まってしまった。

「――……」

 もう何年も、彼を“先生”と呼び続けていた。それを今更、名前に変えるだなんてそんな事は出来ない。出来たとしても、もう少し時間が欲しい。
 頬に熱が上るのを感じながら、彼からふいと顔を逸らした。

「おやおや? どうしました、“マーシャ・マクファーデン”さん?」

「!」

 顔から湯気が出そうな程、熱が溜まる。結婚するという事は、姓が変わるという事だ。
 これから私は、“マーシャ・レイノルズ”では無く、“マーシャ・マクファーデン”として生きていく事になる。

「だ、」

 口から零れ出たのは、きっと名前を呼ぶよりももっと恥ずかしい言葉。
 でも今の私には、名前を呼ぶよりこの言葉の方が幾らかマシだと思えた。きっと、そう思うのは今この瞬間だけだろうが。

「ダーリン」

 眼鏡の奥の、バイオレットの瞳を見つめはっきりとそう告げる。

「今日は、これで、許して」

 そして逃げる様に、彼の元から走り去った。診療所を飛び出し、扉に背を付けて息を深く吐く。
 今日は泣いたり、顔を赤く染めたりと忙しい。しかし、漸く肩の荷が下りた様な、そんな気がしていた。
 今の私には、逃げ込める職場も無ければ、貸家も無い。診療所が、私の帰るべき場所だからだ。つまり、そんな場所を出てしまった今の私には行く当てが無かった。
 落ち着く迄適当に街を歩くか、と思い、ふらりと診療所から離れる。
 ――そんな時。
 正面から、茶の帽子を目深に被った少年が突進してくるように走って来た。咄嗟の事に避ける事が出来ず、ドン、と大きな音を立てて少年とぶつかる。
 お互い転ぶことは無かったものの、少年が抱えていた紙袋からころころと林檎が数個零れ落ちた。

「あぁ、ごめんね。前見ていなくって」

「い、いや……こちらこそ、ごめんなさい」

 少年にしては、随分と高く女性的な声だ。しかし、アッシュグレーの髪は少女にしては明らかに短く、項の辺りで切りそろえられていて、着ている服も男性の物だ。
 その少年からは、随分と焦った様な、何かに怯えている様な感情が伝わって来た。人見知りなのだろうか、と思いながらも、転がった林檎を拾い上げる。

「あ、ありがとう」

 たどたどしい手付きで少年が林檎を受け取り、紙袋を抱え直した。
 そして少年が浅く会釈し、慌てた様子で道を駆けて行こうと足を踏み出した。その瞬間、彼が一度だけ私の顔を見る。
 ぱちりと、ぶつかる視線。私を見つめる、ブルーグレーの瞳。その瞳を見て、瞬時にエリオット先生の顔が思い浮かんだ。彼の瞳は、エリオット先生と同じ色をしている。
 エリオット先生の様に色素の薄い髪や瞳を持つ人間は、珍しいとは言えるが居ない訳では無い。昔隣町へ行った時にも、エリオット先生と見間違えてしまう程に同じ髪色と瞳をした男性が居た。きっと彼も、先生の様に色素の薄い子なのだろう。
 それと同時に、ノエルの存在も思い出した。彼女の現在を、想像した事が無い訳では無い。セドリックやエルの事、そしてスタインフェルド家の事もあり、ノエルの事は毎日の様に思い出していた。
 彼を見ていると、心成しかノエルに似ている様に思えてきてしまう。だが、彼は少年だ。抑々性別が違う。
 小さく溜息を吐いて、彼と擦れ違う様に逆方向へと足を向けた。

「ま、まって」

 背後から自身を呼び止める小さな声が聞こえ、振り返る。
 私を見つめるのは、先程と変わらないブルーグレーの瞳。しかし、その瞳は何処か不安気に揺れている。

「あ、あ、あんたと僕、何処かで会った事、ある?」

 彼の問いに、思わず首を傾げた。確かに、彼を見ていると自然と重ねてしまう人物は居る。しかし、彼で無い事は明らかだ。

「無いと思うよ」

 そう一言返すと、彼は「そう……」と小さく言葉を漏らし、踵を返して駆けて行った。
 ふと遠目に、少年を待つ様に立って此方を見つめている赤毛の青年が居る事に気付く。その青年は女性の様にしなやかな体つきをしていて、とても男性には見えない。しかし、身を包んだ黒の紳士服にシルクハットが、“男性”だという事を表していた。
 その青年と彼は、どうやら知り合いだった様だ。彼等は顔を見合わせ、何か言葉を交わしている。
 そして青年が徐にシルクハットを持ち上げ、此方に向かって会釈をした。釣られて会釈をして返すと、2人は並んで街へと消えていった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

処理中です...