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IV 冷たい使用人と大切な指輪

III

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「そのご要望は、受諾じゅだく出来兼ねます」

「ど、どうして!? どうしてそんな意地悪ばかり言うの!?」

 レイが声を震わせて、アイリーンに噛み付く。レイは喜怒哀楽が激しく、天真爛漫な娘であるが、これ程感情的に人を責め立てるのは初めてだった。どれだけ人に我儘を言っても、今の様に縋る様な口調で人を咎めた事など無かったのだ。――その様な状況を経験してこなかった事こそが、この世界での〝幸せ〟なのかもしれないが。
 
「旦那様との衝突の原因に、成り兼ねないからです」

 レイの悲痛な叫びを聞けば、誰もが心を痛めそうなものだが、アイリーンは顔色一つ変える事は無かった。

「わたくしは意地悪で言っている訳では御座いません。わたくし達使用人のあるじはラルフ・スタインフェルド様です。旦那様のご命令は絶対であり、背く事は許されません」

 静かに、淡々と、無機質に。一言一言を噛み締める様にも聞こえるその言葉に、私は内心「御尤ごもっともだな」と思った。指輪を保持し続けたところで、怒られるのは私たちだけではない。最もラルフの怒りを買うのは、恐らく使用人メイドであるアイリーンだ。
 しかし、彼女の言葉のどこまでが保身かは分からないが、それでも私は、少なからずそこにも混じっているのではないかと思った。
 私たちからすれば圧倒的に言葉足らずではあるが、自身よりも階級の低いであろう子供に此処まで丁寧に言い聞かせてくれるのも珍しい。
 アイリーンの生い立ちは分からないが、貴族の屋敷に仕える使用人には名家出自の人間も居ると聞いた事がある。つまり、働かざるを得なくなった没落貴族だ。その様な人間からすれば私たちなど虫けら同然であり、そんな私たちに仕える事は屈辱でしかないだろう。平手の一つ位飛んできても決しておかしくは無いのだ。

「――旦那様のご命令とあらば、非人道的な事であれど服する。それが使用人というものです」

 言って、アイリーンがレイの右腕を掴んだ。抵抗する隙も与えない程に素早く、右手を引き寄せ人さし指から指輪を抜き取る。

「ちょっと……! 返して……! 返してよ!!」

 悲痛に叫ぶレイに見向きもせず、アイリーンは先程同様冷たい表情で私を見下ろした。

「お分かりいただけますね?」

 私に向けられたその言葉がやけに高圧的に感じられたのは、きっと気の所為では無い。
 これ以上、抵抗しても、説得をしても無駄だ。不安げに此方を見つめるレイを一瞥し、アイリーンに右手を差し出す。

「ルイ!」

 私を非難する声と表情から逃れるべく目を伏せ、「ごめんなさい……」と唸る様に呟く。
 躊躇ためらう事無く私の薬指から指輪を抜き取ったアイリーンが、小さく息を吐いたのち、私たちに向き直った。

「本来であれば、先に入浴を済ませてから身支度を整えるべきなのでしょうが、現在湯殿の支度が整っておりません。それに、スタインフェルド家では入浴は夜間と定められておりますので、ご不快かと存じますが夕食後までこのままお待ちください」

 彼女がうやうやしく一礼して、スカートをひるがえし足早にこの部屋を去っていった。
 広すぎる部屋に残された私たちの間に、重い沈黙が落ちる。しかしその沈黙は、レイの怒声によってすぐさま破られた。

「なんで素直に指輪渡しちゃったの!? あの指輪があれば、また家に帰れたかもしれないのに!」

「……確かに、あれは大切なものだった。けれど、あの指輪が私たちを家に帰してくれる訳でも、私たちの居場所を両親に伝えてくれる訳でも無いわ。パパは、『仮に家族がバラバラになったとしても、いつか必ず巡り合える』と言った。それは、〝生きていられれば〟の話よ。
 もしアイリーンに逆らって指輪を持ち続けて、あの男と衝突をしたらどうするつもりだったの? 今はこうして部屋を与えられているけれど、地下室や鍵の付いた部屋に閉じ込められてしまえばもう此処から出る道は完全に絶たれるのよ。軟禁と監禁の違い、そしてそれぞれの待遇の違いをもう少し学ぶべきだわ」

「――……」

 返す言葉が無かったのだろう、レイが唇を噛みその場に俯く。
 彼女の気持ちはよく分かる。私だって、指輪を手放したくはなかった。
 アイリーンが冷徹な人であれば、あの指輪は本当に処分されてしまうだろう。大切な指輪が消えてなくなるだなんて、考えたくもない事だ。
 しかし、全ては生きる為である。両親のもとに、帰る為だ。
 その為に出来る事は、従順なふりをして、警戒心を緩める事だけである。

「レイ、分かって頂戴」

 姉として、家族として――大切な人として。
 今の私に出来る事は、零れそうな程に瞳に涙を溜めたレイを抱きしめ、その頭を撫でてやる事だけだった。
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