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XVII 歪な歌姫-III
しおりを挟む「……?」
ホールの何処を見ても、エルの姿が無い。
数分前には、確かに出入口付近に立っていた筈だ。彼女は元の家柄の事もあり、コンサートの途中でホールを出ていくような人間だとは到底思えない。
動揺から、演奏のタイミングが僅かにずれる。客に悟られぬ様何とか立て直せたが、舞台袖で見ていたジャックが表情を曇らせた。
姿が見えなくなった、たったそれだけの事なのに、不安で押し潰されそうになる。
エルを娶ってから、ずっとそうだった。彼女が今何処に居るか分からない状態だと、不安で何も手に付かなくなってしまう。
仕事の合間に時々家に戻るのも、彼女はちゃんと手の届く場所に居ると、自身を安心させる為でもあった。
姿が見えないだけで演奏に支障をきたすなんて、酷く情けない。
エルの事は、公演が終わり次第すぐに探しに行こう。今はコンサートに集中する他無く、無理矢理エルの存在を頭から払い落としピアノに意識を向けた。
◇ ◇ ◇
力強く控室の扉を開き、テーブルの上に散乱したシガレットケースとマッチ、財布をポケットの中へ押し込む。そしてジャケットの胸ポケットに刺した、赤い薔薇の造花を抜き取りテーブルへ投げつける様に放った。
エルがホールから居なくなって、約40分。コンサートが終わり次第すぐに此処を出ようと思っていたのに、ジャックに足止めを食らいこんなにも時間が経ってしまった。
早く、エルを探しに行かなくては。自身を苛む焦燥感に、自然と指先が震える。
しかしそんな自身の行動を、突如背後から聞こえた女の声が遮った。
「――随分お急ぎの様ね。もう少し、私に興味を持ってくれてもいいんじゃない?」
その声に、鏡越しに背後へ視線を向ける。
「……なんの用だ」
控室の出入り口を塞ぐ様に立っていたのは、先程ステージで多くの人を魅了していた歌姫。
振り返り、直接アリスと視線を合わせる。
「貴方とお話がしたいの」
今のアリスの口調や態度は、ステージ上でのものとは大きく違う。
スタッフの前では、心優しい女性を演じていたのだろう。彼女に抱いた違和感は、間違いでは無かったのだと悟る。
「コンサートが始まる前にも言った筈だ。俺はお前と慣れ合うつもりは無い。そこを退け」
きつい口調でそう告げても、アリスの表情は崩れない。ただ何かを企む様な笑みを浮かべたままで、出入口の前から退く事も、反論する事も無かった。
「……聞こえなかったか? そこを退けって言ってるんだ」
「嫌、と言ったら貴方はどうするの?」
彼女の返答に苛立ちが沸き上がり、思わず舌打ちを漏らす。
アリスを押し退ける事は簡単だ。しかし今は、手を覆える物が何もない。フォーマルグローブも、ステージに置いてきてしまった。
アリスのドレスは露出度が高く、アリスの肌に触れずに退かす事は難しいだろう。
「勘弁してくれ。急いでるんだ」
「――嫌」
アリスが徐に、俺との距離を一歩詰めた。
それと同時に、一歩後退る。
「そんなに急いで何処へ行くの?」
「関係無いだろ」
「私よりも大事?」
「当たり前だ。お前の事なんかどうだっていい」
部屋の隅へ移動し、アリスから十分な距離を取る。
控室の壁に貼られた“禁煙”の張り紙を見ながら、ポケットからシガレットケースを取り出した。
エルを娶ってから、控えようと努力はしていた。しかし、依存性が高い煙草は自身の意思だけではやめられない。
行方の分からないエルへの不安と、目の前のアリスへの嫌悪感を落ち着かせようと、煙草を口に咥えた。
「急いでいる様だし、簡潔に伝えてあげるわ」
マッチの先についた火を、煙草の先に移す。
苛立ちや焦燥感が口の中に広がる苦みによって緩和されていくのを感じながら、アリスの方へ目を遣った。
「――貴方が好きなの」
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