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XVIII 雨の中で-IV
しおりを挟む「……ねぇ、コンサートの4番目の曲、分かる?」
「あぁ、あの曲は譜面が複雑で暗記するのが大変だった」
「……あの曲を歌っていたアリスね、ずっと貴方の事を見ていたのよ。気付いてた?」
「お前の事しか見てなかったから気付かなかった」
彼女の言葉を聞きながら、目元や頬に何度もキスを落とす。
時間に追われず、プレッシャーの無い日々はこんなにも安心できる。もう、演奏家の代理など懲り懲りだ。
「真剣に聞いて!」
彼女が眉間に皺を寄せ、小さな頬を膨らませた。しかしその顔は赤く、満更でも無い様に思える。
「聞いてる」
人形の様に柔らかな髪を撫でながら、彼女の瞳を深く見つめた。
「あの曲、歌詞が凄く印象的なの。恋人を想う男性の曲でね、特に、最後の歌詞が好きで……」
彼女の瞳から不安の色は未だ消えないが、もう先程の様な不機嫌さは伝わってこない。
頬を撫で、彼女の耳元に揺れる耳飾りに触れた。植物のアイビーを模った、繊細なガラス細工のアクセサリー。
今日の服は全て、マーシャが見繕った物だと聞いている。この耳飾りも、マーシャが選んだ物なのだろうか。ダークグリーンのイヴニングドレス共々、彼女に良く似合っていた。
そっと、彼女の耳に口元を寄せる。
「……I do not need except for you. 《私には君意外必要ない》」
息を吹き込む様にその言葉を囁くと、彼女の肩が小さく揺れた。
これは彼女が言う曲の、最後の歌詞だ。4番目の曲は、自身にとっても印象深い曲だった。
男の歪んだ愛に、何処か親近感を抱いたのを覚えている。
「――だろ?」
頬を緩め、彼女の顔を覗き込む。
「……」
顔を赤く染めて此方を睨む彼女は、怒っている様にも泣き出しそうにも見える複雑な表情をしていた。
「もう、意地悪ばっかり。本当に嫌いになるわよ」
「それは困るな」
「嘘、困るって顔していないわ」
「そう言いながら嫌いにならないの、知ってるし」
彼女が大きな溜息を吐いて、踵を返し家の方向へと大股で歩き出した。どうやら、今度こそ本気で怒らせてしまったらしい。
足の傷が痛むのか、ふらつきながら歩く彼女の後を追う。
「足、痛いんだろ」
「…………平気」
「おぶってやろうか」
「…………結構よ」
足を庇いながら歩く彼女は、今にも転びそうで危なっかしくて見ていられない。
彼女を支えようと、腰に手を触れさせる。
「……大丈夫と、言っているでしょう」
パシ、と彼女が俺の手を払い退ける。彼女の顔は、先程同様林檎の様に赤い。
その態度も彼女なりの照れ隠しなのだと分かり、口元が緩んだ。
「……ついてこないで」
「別にお前について行ってる訳じゃねぇよ」
「じゃあ少し離れて歩いて」
「夜道は危ないから、その頼みは聞けない」
「言っている事が矛盾しているわ」
彼女の歩く速度は老婆並みに遅い。このままだと、家に着く頃には全身ずぶ濡れになっていそうだ。
髪から滴る水を拭い、ジャケットを脱ぐ。
「幾ら家まであまり距離が無いとはいえ、この速度で歩いていたら朝になる」
ジャケットを彼女の頭に被せ、彼女を自身の方へを引き寄せた。彼女がふらついたタイミングを見計らい、彼女の膝裏に手を差し込み抱き上げる。
「ちょっと……!」
彼女が自身の腕の中から逃れようと、足をばたつかせた。その拍子にドレスが捲れ上がり、ドロワーズのリボンがひらりと舞う。
6日間も離れていたからだろうか。剥き出しになった足は過去に何度も見ているというのに、今は何だか刺激が強く感じる。彼女の足から視線を外し、「暴れんな、落ちるぞ」と一言告げた。
彼女を横抱きにしたまま、家の方向へと歩を進める。
女性の重さを林檎の数で例える表現方法があるが、それも納得できる程に彼女は軽い。
寧ろ、林檎が入った麻袋の方が重いのではないか。彼女の背に翼が生えてる、と言われても疑わない程の軽さに深憂を抱く。
「……お、下して」
弱々しい彼女の声に、腕の中に視線を落とす。
彼女の顔は、先程と打って変わって青い。俺の首に回した腕は、僅かに震えていた。
「さっきまでの威勢はどうした」
「お、思っていた以上に怖くて……。落とされそう……」
「落とす訳無いだろ。……お望みなら離してやるけど?」
「ま、待って!離さないで!」
手を離す素振りを見せると、彼女が更に顔を青くして俺にしがみついた。怯えた表情をする彼女は、まるで仔猫の様に愛おしい。
彼女を抱きしめる様に腕に力を籠め、降り頻る雨の中家路を急いだ。
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