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XXIII 二日酔いの朝-III

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「昨日から、ずっと怖い顔してる」

 彼女の細い指が、眉間を突いた。ずっと皺を寄せたままだった事に気付き、自身の眉間を指圧する。

「――もう、お仕事行っちゃうの?」

 口元まで布団を被った彼女が寂し気な声を上げ、シャツの裾を掴んだ。
 その小さな手を包み込む様に握り、彼女の長い髪を梳く様に撫でる。

「……なるべく、早く帰る」

「そう言った日に限って、早く帰ってきてくれないじゃない……」

「今日は、ちゃんと帰ってくるから」

 俺のシャツを掴み離そうとしない今の彼女は、まるで小さな子供の様だ。そんな愛らしい姿に口元が緩む。
 思い返してみれば、彼女は自身より3つも歳が若い。まだ大人になりきれていない年齢だ。不調も相まってか、今日は特に彼女の幼さが増して見える。

「後で、マーシャに様子を見に来させる」

「……だめ、貴方が来て」

「来れたらな」

「……来れたらじゃだめ。絶対」

 彼女にしては珍しい我儘に、気が触れそうな苛立ちが解けていく様な癒しを感じる。
 それと同時に、彼女を守る為ならどれ程背徳的な事であっても、苦も無く遣って退けられると思えた。

 不安気な彼女の、その小さな唇にキスを落とす。
 彼女が少しでも安心できるなら、1日彼女の傍にいてやりたい。自分を求める彼女を置いて家を出るのは心が痛む。
 しかし今は、この生活を脅かす存在を排除する事の方が先だ。

「……眠るまでは、傍にいるから」

 曖昧に頷いた彼女が、渋々シャツから手を離す。そして弱々しくも俺の手を握り、彼女が瞳を閉じた。


 ――眠りについた彼女の髪を手で梳き、その愛らしい寝顔を眺める。
 誰かに壊され、穢されてしまう前に、一生誰の目も触れぬ場所に彼女を閉じ込めてしまえたら。自分以外の人間が彼女に触れられない様に、彼女の形を自分だけの物に変える事が出来たら。
 それはなんと幸せな事なのだろう。
 彼女への愛慕の念は、止まる事無く日に日に増していく。それも、いっそ彼女を壊してしまおうかと思ってしまう程に。

 ベッドから腰を上げ、そっとチェストを開く。取り出したのは、チェストの奥深く、服の間に隠す様に仕舞われた銀の手錠。
 玩具でもなんでもない、一般人が手にする事は出来ない本物の手錠だ。
 彼女の傍を離れる、ほんの数時間のみ。彼女がこの家から1歩も出なければ、今日1日は安心できる。

 手錠の片方をベッドの柵に繋げ、もう片方を彼女の右手に嵌める。そして手錠の鍵をジャケットのポケットに押し込み、溜息を吐いた。
 名残惜しくも彼女から離れ、音を立てずに玄関扉を開く。
 外気は、家の中以上に冷えている。息をする度に内臓が冷えていく感覚を覚えながら、後ろ手に扉を閉めた。

 世の中には、鍵をいとも容易く開けてしまう人間が数多く存在する。あの有名な顧問こもん探偵だって、鍵のピッキングは得意だった筈だ。
 そして自身もその1人。鍵の種類にもよるが、大体の鍵は10分もあれば解錠出来てしまう。

 そんな人間の前では、こんな鍵などなんの意味も成さない。
 施錠した扉の鍵穴を、指先でなぞる。

 考えだしたらキリが無い。そんな事、自分でも分かっている。
 彼女を手錠に繋いだって、この家の中に閉じ込めておいたって、壊れる時は簡単に壊れてしまうのだから。

 火を付けた煙草を口に咥え、重たい心を抱えながら、今日も幼馴染がホールを私物化して寛いでいるのであろう職場へと足を向けた。
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