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XXIX 挙動不審な幼馴染-II

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「わ、私からは、何も……」

 銀のスプーンが、彼女の手から滑り落ちる。

 ――もしや、現実を直視出来ない程に診断結果が悪かったのだろうか。流石のマーシャも、こんな状況で悪ふざけはしないだろう。

 今朝のエルの様子を見ると、ただの風邪で無い事は明白だ。
 だがもし、仮に重大な病気や感染症だった場合、マーシャは間違いなく俺が接客中なのもお構いなく客室に飛び込んでくるだろう。
 口籠ったまま答えない彼女を見る限り、緊急性は無いと見受けられる。

 “――人生の分岐点はすぐ目の前”

 ふと脳裏を過った、謎の女性から告げられた言葉。
 1週間ほど前だっただろうか。今の今迄忘れていたが、結局あの言葉の意味は分からず終いだった。

 今がその、女性が言う分岐点なら。

 重大な病気や感染症で無いなら、考えられるのは1つだけ。考えれば考える程、頭に浮かんだ“それ”が現実味を帯びてくる。
 女性が残した言葉も、マーシャの見当違いな言葉も、これで全て納得がいく。

 俺が答えに辿り着いた事を悟ったのか、マーシャが諦めに似た表情を浮べた。

「……セディって、こう変な所で勘が鋭くなるよね……」

 こんな状況でも、彼女の能力は健在だ。頬を掻き、彼女が大きな溜息を付く。
 そして肩を竦め、「ご想像通り」と一言呟く様に言った。

「……あぁ、……そうか……」

 広がる、深い安堵感。
 マーシャの肩から手を離し、深く息を吐きながら壁に凭れ掛かった。
 予想はしていたものの、いざそれが事実だと知ると中々信じられない物だ。まさか、自分が父親になる日が来るなんて。
 仕事柄、子供を持つことに罪悪感を抱かない事も無いが、彼女と愛し合った事実を唯の“書類”では無くそれ以上の“形”にして残せることは心嬉しく思える。

 唯一悔やまれるのは、アルフレッドに気を取られすぎてエルが身籠っている事に気付いてやれなかった事だ。
 彼女を支えられなかった事に呵責を感じるが、これからでも遅くは無いだろう。自然と緩む口元を隠し、未だ不審な挙動を繰り返しているマーシャに視線を向けた。

「……私が言ったって事、エルちゃんには内緒にしといてよ。エルちゃんは、自分の口から伝えたいみたいだったし」

「言わねぇよ」

 乾いた口内を潤そうと、マーシャの手元に置かれていた紅茶を手に取る。
 それが、先程の黒い紅茶だという事に気が付いたのは口を付けた後だった。

 あまりの苦さに、思わず紅茶を吹き出す。茶葉を食べているのと大差ない味だ。

「……酷い味だな」

 口の端から零れた紅茶を手の甲で拭い、カップを彼女の方へと突き返した。

「それ、一応高い茶葉なんだけど」

「そういうのは自分で飲んでみてから言え」

 手を掛けたキッチンの扉を、ゆっくりと押し開いた。
 この後の仕事の予定は無い。家に帰るにはまだ少し早いが、今日はこのままエルが待つ家に帰ろう。
 書類整理などの残った仕事は、また後日やればいい。

 マーシャの紅茶を吹き出す音と悲鳴を背で聞きながら、溢れる幸福感に口元を緩ませた。
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