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2巻
2-3
やった、成功だな。
そう思った直後だった。殿下はガラス容器を作業台に置くと、恍惚とした笑みで俺の両手を掬い上げた。
「これが治癒魔法なのだな。最下層のオメガからこれほどの力が生まれるとは、私の常識がいかに狭量であったかを確信した。素晴らしい。すぐにでもこの力をシャオレンの民に見せつけたい」
最下層……国風だから仕方ないとわかっていても、なに気なく発せられたその一言に胸の痛みを覚えながら、俺は左右に頭を振った。
「今のは治癒魔法士なら誰でもできます。それと、お伝えしようと思っていました。シャオレンに渡るのであれば、経験からいっても所長である父が適任です」
これは本当にそうだ。俺も役には立ちたいけれど、魔力だけではなく経験も知識も豊富な父様が行く方がどこの国にとっても有益だと思う。
すると、殿下も頭を左右に振った。
「ヒバリが魔法を使える、ということに価値があるのだ。シャオレンではオメガは最下層だ。誰でもいいわけではない。そなたが適任だ」
「ど、どういう意味ですか」
また『最下層』だ。そして『ヒバリ』。殿下の言っている意味が理解できない。
俺の困惑を感じ取ったのか、殿下は軽く頷くと、声を穏やかなものに戻した。
「先ほども申したように、シャオレンではオメガの身分は最下層だ。宮廷内ではそれが顕著ゆえ、オメガへの投資に不満を漏らす者もいるだろう。しかし『つがい呼びの笛』と同じ桃色と翠の麗しいオメガ――」
そう言いながら、殿下が俺の髪に指を通す。俺は思わず後ずさってしまったものの、殿下は笑みを絶やさずに続ける。
「そのオメガが随一の魔力を示せば、これ以上ない説得材料となる。そなたがシャオレンのオメガ差別を変える鍵になれるのだぞ」
困惑の中で、その言葉がするりと胸に入ってきた。
──シャオレンのオメガ差別を変えられる?
黒い瞳が俺をじっと見つめている。
その闇色は、もう一押しされた言葉と共に、俺の困惑を覆い隠していく。
「エルフィー殿。そなたの才をシャオレンのオメガのために使ってくれ」
──シャオレンのオメガのために俺の魔力や外見が少しでも役に立つなら、使えばいいんじゃないか。そうだ。先日、貰った幸せを還元しようと思ったところだ。こうして望んでもらえている今がその時なんじゃないか?
「……わかりました。俺でよければ、ぜひ協力させてください」
気付けば、俺は頷いていた。
その後、殿下が最も興味を示していたというつがい解消薬へと話題が移った。
そんな情報まで遠いシャオレンに届いているのか、と驚いたものの、完成後から国内の評判が高く、隣国の使者も一番に興味を示したことを思えば納得できた。
殿下の瞳は真剣そのものだ。
「他の薬は現存のものでも対応できる。だが、つがい解消薬はまだリュミエール王国にしかない。事故つがいは我が国にも多いのだ。その者たちが正しいつがいを結び直して幸福になれるよう、シャオレンでも一番につがい解消薬の研究を進めたい」
「その者たち……」
俺はその言葉が嬉しかった。
思い合っていない二人が事故つがいになるのは、確かに悲劇なのだ。
ただ厳密に言えば、別のオメガともつがいを結べるアルファには重大な影響が及ぶことがないため、アルファからつがい解消を希望することはほとんどない。
だから「その者たちが幸福に」とオメガの幸をも願う言葉を殿下が発したことが嬉しい。やはりこの方はオメガのことも考えてくれているのだ。
俺は薬の開発までの道のりを、クラウスと事故つがいになってからの日々を思い出しながら語った。
そして気付くと、殿下の視察時間が終わりを迎えている。
……しまった! また熱くなってしまった。
またも自省しながら、執務室で待機していた父様と共に殿下を見送る。
殿下を乗せたリュミエール王城の馬車が角を曲がって見えなくなると、俺は腰が抜けたようにへなへなと地面に座り込んでしまった。
「どうした、エルフィー」
父様が急いで支えてくれる。
「緊張の糸が解けた……」
「殿下のお相手を一人で務めたからな。お疲れ様だったな。しかし殿下はご機嫌麗しく帰られたじゃないか。治癒魔法についてしっかりとご理解いただけたんじゃないか?」
「それが……」
俺は父様に支えられながら執務室へ戻り、殿下にシャオレン来訪を求められたことを話した。
それを聞くやいなや、父様は一度座りかけた椅子から立ち上がってまで喜んでくれる。
「そうか! それは名誉なことだな!」
「俺は父様が適任だと思うんだけど、できることは挑戦してみようと思う」
「そうかそうか。それでいいんだ。何事も経験だ。エルフィーには持ち前の明るさと前進力がある。楽しんで務めを果たしてきなさい」
父様は猪突猛進な俺の性格をいいように言ってくれるんだから……
「でもほら、まだなにも決まっていないから、王命が下るのはずいぶん先だろうね」
照れくさくなりながらそう話していると、執務室のドアがノックされた。
返事をする間もなくドアが開く。訪れたのは母様で、ずいぶん華やいだ表情をしていた。
「母様、今日はどうしたの?」
「……これよ!」
少しだけもったいぶった母様が俺に見せたのは、一通の封書だった。
すみれの花が薄く描かれたその封書は、セルドラン家の紋章が刻まれた封緘で封じられている。
「それ、もしかして!」
「そう、ニコラからよ!」
俺は母様の言葉の途中で封書に手を伸ばし、なかば奪うように受け取った。
緊張で手が震えて、上手く中の手紙を取り出すことができない。
ニコラから手紙が届くのは結婚式以来だ。
なんて書いてある? どうしてる? なにかあったのか? ニコラ、ニコラ……
エルフィーへ
いつも僕を気にかけ、手紙を送り続けてくれてありがとう。
僕も、父様や母様だけでなく、教会を訪問されるモンテカルスト公爵夫人からも、エルフィーの様子を聞いています。
それなのに長い間手紙を返せなくてごめんなさい。
僕の解毒治療が終わっていくつかの季節が過ぎました。
もうすっかり体調も戻り、頭もすっきりしています。
今の日々があるのは周囲の方々のおかげです。僕は毎日を大切に、感謝して生きています。
罪は償いきれないとわかっているけれど、
自分自身と向き合いながら心を込めて教会の奉仕活動にも取り組んでいます。
そしてそんな日々の中で、僕は進みたい道を見つけました。
その報告と、これまでの謝罪を面と向かってさせてもらえないでしょうか。
返事を待っています。
ニコラより
文面の一字一句まで読めていたかは自分でもわからない。気持ちが先走って、拾い読みをしてしまった気がする。
それでも一番知りたかったことはちゃんと読み取れた。
俺は顔を上げると、二人に言った。
「ねえ、父様、母様! これって、ニコラが俺に会いに来てくれるってことだよね?」
「ええ、ええ」
母様は高揚している俺に涙目で頷き、父様は執務机の引き出しから便箋と封筒を出してくれる。
「返事を書いてやりなさい。そこに座って書くといい」
俺は父様に促された席に座り、ニコラの手紙も机に広げて置く。
改めてニコラからの文面を見ながら、冒頭の文章を書き始めた。
親愛なるニコラへ
手紙をありがとう。とてもとても嬉しく読みました。
俺の方はいつでも大丈夫です。
ニコラが指定してくれる場所へ行きます。
早く会
そこまで書いて、ペンを止めた。
ニコラからの手紙には『面と向かって』と書いてあるけれど『会いたい』とは書かれていない。
結婚式の時の手紙には『大好きな兄さんへ』と綴ってくれたのに、今回はその言葉がない。
……ニコラは今、俺に対してどんな思いを抱いているのだろう。
けじめとして会うけれど、本当は会いたくない?
愛憎入り混じった気持ちを俺に抱いていたニコラ。
ずっとニコラのそばにいたのに、俺は募っていく彼の苦悩を見逃していた。
その場しのぎの慰めじゃなく、心の深淵にまで寄り添う器量が俺にあれば違っただろうに、俺は未熟で浅はかな子どもだった。クラウスはそんな俺に『ニコラは君を心から愛している』と言ってくれたけれど、本当にそうだったのだろうか。
あれから一年半近くを経た今、ニコラは俺のことや当時のことをどんなふうに思っているのだろう。
俺は、父様に頼んで新しい便箋をもらうと、手紙を書き直した。
『会いたい』という言葉はニコラの心に負担になるかもしれないから書くのをやめ、【ニコラが指定してくれる場所へ行きます。】まででペンを置く。
封筒に入れ、不安と緊張を感じながら母様に手紙を預けた。
すると、翌朝のことだ。
俺に届いたのは、ニコラがラボの応接室で待っている、という父様からの言葉だった。
高まる緊張に手に汗を握りながら、応接室の扉の取っ手を握る。
引くまでに少し時間と勇気が必要だった。天を仰いで深呼吸をしてから、勢い半分で扉を開く。
すぐに青年の後ろ姿が目に入った。
柔らかそうなピンクブロンドの髪は肩を越えたくらいの長さで、サイドで一つに結んである。最後に会った時の髪型とは違うけれど、後ろ姿は間違いなくニコラのものだ。
「――ニコラ」
俺の声にニコラの細い肩が揺れる。それでも立ち上がろうとせず、俺に背を向けたまま黙っている。
どうしよう。もう一度声をかけてみようか。
俺は渇いた喉に唾を送り、口を開こうとした。その時だった。
ニコラがスッと立ち上がり、俺に振り向いた。
エメラルドグリーンの瞳が大洪水を起こし、頬は涙に濡れている。唇はなにか言葉を発しようとしているけれど、震えて声が出ていない。
けれど俺にはわかった。ニコラは俺の名を呼んでいる。
そこからはもう言葉はいらなかった。
気付くと二人とも最初に立っていた場所から離れていて、固く抱き合っていた。
やはり双子だから、兄弟だから……ううん。なによりも、俺たちは家族なのだから。
やがて止まらない涙と鼻水に困り、どちらからともなくハンカチーフを出して頬を拭い合った。
「ニコラ、顔がぐしゃぐしゃだ」
「エルフィーだって……ふ、ぅっ……」
涙を拭いてやるそばからニコラが嗚咽を漏らして肩を揺らす。
俺はニコラと一緒にソファに座り、肩を抱いた。
「会いたかったよ。会いに来てくれてありがとう」
ありのままの気持ちを声に出すと、ニコラは堰を切ったかのように「ごめんなさい」を繰り返す。
「ごめんなさい、エルフィー。上手に書けなくて、貰った手紙に返事ができないままでごめんなさい。もっと早くから会いたい気持ちはあったのに、いざとなると勇気が出なくてこんなに遅くなってしまった。だけどだからこそ君への思いは手紙ではなく直接伝えたくて。遅くなってごめんなさい。自分の弱さを薬で誤魔化してひどいことをした。ごめんなさい。ごめんなさい……!」
「いいんだ」とすぐにでも言いたかった。
俺こそ謝るべきだし、ニコラの思いは充分に伝わっている。
けれどそれでは今までと同じだ。ニコラの心の中の澱が全て吐き出されるまで、俺はなにも言わずにニコラの肩を強く抱いていた。
やがて部屋に差し込んでいた朝日の眩しさが和らぎ、外からヒバリの鳴き声が聞こえてきた時、細くなっていたニコラの啜り泣きが止まった。
俺はもう一度ニコラの涙を拭い、しっかりと視線を合わせる。
「俺こそごめんな。ニコラの募った思いに気付けずにいた。ニコラの治療中、なにもできずにいた。ニコラが治療を終えるのを待たずに……幸せを感じる日々を送っていた」
とても言い難い言葉だった。懺悔の日々を送っていたニコラに「自分は幸せだった」なんて、傲慢にもほどがある。
それでも日々に幸せを感じていることを罪だと感じていた俺は、ニコラに謝りたかった。
時折思い出しては仕舞うことを繰り返していた過去を、心のチェストから取り出す。
『自分だけ幸せになろうとしてるの?』
俺はニコラにそう問われた時、『自分だけなんて思ってない。一緒に幸せを見つけたい。だけど嘘をついたままじゃ、先へ進めないから』とクラウスへの思いを吐露した。
ニコラは今回、手紙に『進みたい道を見つけた』と書いていた。
――当時と同じように心を誤魔化さずに伝え、ニコラと先へ進みたい。
唇を噛んでニコラの言葉を待つ。すると、ニコラの細い指が俺の唇に触れた。
「謝らないで。悪いと思わないで。僕も同じだった。僕はエルフィーが幸せでないと、幸せになってはいけないと思ってる」
唇から指が離れる。俺がその結びを解いて「ニコラも?」と問うと、ニコラは頷いて続けた。
「僕がしたことで捻じ曲げてしまったものを戻して、クラウスと幸せになってほしかった。エルフィーが心底幸せでないと、僕も先へ進めない。だから夫人からエルフィーの様子を聞かせてもらうたび、勝手だけど赦された気持ちになっていたよ? でもエルフィーはきっと幸せであることを後ろめたく思っていて、その分前のめりで突っ走っているようにも思えて、心配だった。エルフィーは、昔から空回りすることがあったから」
その言葉に胸がいっぱいになる。
離れていたのに、ニコラも俺のことをずっと考えていてくれたのか。
ニコラは俺の内心を読んだように、また続ける。
「僕だけじゃないよ? 母様も夫人もわかってた」
「え……やだな、俺ってやっぱりわかりやすいのかな」
苦笑してしまうと、ニコラも苦笑する。けれど以前のように鏡に映った自分自身のように感じないのは、ニコラが大人びたからだろうか。
以前とは雰囲気が変わったニコラのことを知りたくなって、俺は改めてニコラの長くなった髪に触れた。
「ねぇ、ニコラ。……ニコラの今までとこれからのこと、聞かせてくれる?」
ニコラが頷く。居住まいを正すと、話して聞かせてくれた。
つがい解消薬を発動させたあの日のことから、ゆっくり、ゆっくりと。
「――あの日、僕はエルフィーの心が僕には戻らないことを悟った。それと同時に、つがいを解消され、意識が混濁してもなおエルフィーの名を呼び続けるクラウスを見た」
そこでニコラの心がグラグラと揺れたという。
ここまで来たのに、こんなことまでして辿り着いたのに、僕が手に入れられるものはなにもない。手に入るはずだった僕の欲しいものは、欠片も手に入れられない、と。
「……僕が本当に欲しかったのはなんだったんだろうって、途端にわからなくなった。そして、大好きな兄さんと幼馴染を傷付けたことをひどく後悔した」
そう思った時、ヒートで苦しい体がひとりでに動いていたそうだ。
ニコラはドアに向かい、内鍵を開けた。
俺はハッとして、ニコラの瞳を見つめる。
「……クラウスが外に出られるように、ドアを開けてくれたのはニコラだったんだな」
いつか話してくれる日が来たら聞きたいと思っていた。クラウスが閉じ込められていなかった理由を、ニコラが倒れているクラウスから離れた場所でうずくまっていた理由を……ニコラがクラウスとつがいを結ばなかった理由を。
ニコラは項垂れるように頷くと、話を再開した。
「それから僕は、試験台に置いてある薬草瓶に手を伸ばした。その一つにヒート抑制に即効性のある薬草エキスが入っていたから。それでヒートを抑えて、クラウスの意識がしっかりしたら出て行ってもらおうと思った。だけど体が思いどおりに動かなくて、瓶を落として割ってしまったんだ」
胸がヒリッと痛んだ。ニコラがその破片を手首に突き立てていたのを、クラウスから聞いていたからだ。
今はもう傷があるはずもないのに、俺はニコラの左手首を握りしめた。
ニコラはそこに視線を落とすと、緩く首を振る。
「償おうとしたわけじゃない。なにもかも上手くいかない僕は駄目な子で、お祖父様の言葉どおり価値のない人間なんだと思い知らされたんだ。こんなだから誰からも愛されない。じゃあ存在意義も、生きてる価値もないじゃないかと、命を断つことで自分の弱さから逃げようとしただけだ。またがっかりしたよね? ごめんなさい」
がっかりなんて……! そう言いたいのに、当時のニコラの絶望が喉を詰まらせる。
俺は唇を噛みしめ、手にもつい力が入ってしまった。
ニコラの手首を強く締め付けてしまったようで、ニコラが俺の手の上に手を重ねる。
「でもね、その瞬間聞こえてきたんだ。真っ暗闇の頭の中に直接――ちょうど今みたいに、ヒバリが囀るようなピロロ、ピロロ、という高い音だった。その時、乱用した薬草エキスとヒートの影響で意識は朦朧としていたはずなのに、その音だけは、はっきり聞こえた」
「あ……」
その音に心当たりがある俺は、ニコラの瞳を見つめた。
ニコラは俺のベストの下にいたヒバリを、革紐に指をかけて誘い出す。
「この笛の音は運命のつがいを呼ぶ囀りなんだってね。エルフィーはクラウスを呼んでいたんだろうけど、その音は僕にも届いて、暗闇に光を生んだ。その光を頼りに、僕は狭くて暗いトンネルを必死に這い出す幻影を見た」
そして、気付くと救護院に向かう馬車の中にいて、馬車の窓から差し込む光を受けながら涙を流す父様と母様に、しっかりと抱きしめられていたそうだ。
もう終わっている話なのに、それを聞いてようやくホッとできた。
「よかった……ニコラ、生きていてくれてありがとう」
もうそれしかない。ヒバリにも感謝する。
ニコラの耳にも囀りを届けてくれてありがとう、と。
「あ……そういえばニコラ」
ヒバリのこと、知っていたのか? と訊ねようとした。
俺がヒバリを身に着けている姿は見ていたと思うけれど、ニコラがこれを『つがい呼びの笛』と認識しているとは思わなかったからだ。
けれど訊ねる前に、ニコラが先に口を開いていた。
「……僕があの時命を断っていたら、確かにもっとエルフィーとクラウスを苦しめていたね」
「俺たちだけじゃないよ。父様も母様も、夫人も……アカデミーの同窓生だってみんな苦しむ!」
俺が声を強くすると、ニコラの瞳が潤んで揺れた。
「うん。エルフィーと離れて暮らしてみて、やっと気付いた。僕は同じ姿の双子のエルフィーをずっと意識してきて、自分自身を見つめることができていなかったって。そして自分と向き合っているうちに、僕に向けられている温かい瞳にもやっと気付けた。父様、母様。モンテカルスト夫人に教会の人々。みんな『ニコラ・セルドラン』を見ていてくれた。そして愛してくれている」
「うん、うん……そうだよ。そうなんだ。俺もニコラを愛してる!」
言葉は淀みなく出た。だってもう躊躇う必要はない。俺たちは家族なんだから。
「僕も、伝えてもいいかな?」
ニコラが遠慮がちに訊ねるので、当たり前だよと、今の心のままの返事をした。
ニコラの瞳がまっすぐに俺に向く。
「僕もエルフィーを愛してる」
――ああ、なんて清らかな瞳なんだろう。あの日の底のない沼のような瞳ではなく、朝露を乗せた若葉のように、命の輝きを宿した瞳だ。
やはり過去のニコラとは違う。
内面から溢れ出てくるようなその眩しさに、俺の目は自然と細まるのだった。
「――それでね、ニコラは本格的に教師を目指すんだって!」
その夜、俺はクラウスに今日のことを報告した。手紙が届いたことを伝えた昨日に引き続き、クラウスは俺のおしゃべりを中断せずに耳を傾けてくれる。
ニコラは話してくれた。
教会附属の孤児院で教師として奉仕をする日々の中、これまでに取得してきた知識や経験を伝えることで子どもたちのできることが増え、笑顔も増えていったのだと。
生誕と同時にバース判定が下されるリュミエールで孤児院に住むのは、親に捨てられて行き先を失くしたオメガの子どもばかりだ。
『彼らの中には僕のように魔力が低い子もいて、きっと将来の仕事に悩む子もいると思う。だけど皆、夢中になれること、一生懸命になれることがあるはずだ。全てのオメガの子どもの努力が報われるよう、少しでも助力になりたい。子どもたちが自分らしさを磨いて、輝いた気持ちで生きていけるお手伝いができたらいいな、と思うんだ』
俺はニコラの未来予想図に聞き入りながら、込み上げてくるものを感じていた。
とても素敵だ。ニコラは逆境に負けずに努力してきた。だからこそニコラにしかできない伝え方があると思うし、相手にわかりやすく伝えられると思う。
俺も先日、自分が貰った幸せを還元しようと浮かんだものの、まだ具体策を見つけるには至らなかった。これはニコラだからこそ見つけた未来だ。
本当に俺の弟は凄い。
ニコラにもそう伝えると、お義母様がその適性に気付いて、多くのアドバイスをしてくれたのだ、と言っていた。
お義母様は俺に『ニコラちゃんを強く育てると約束するから安心して』と言ってくれていたけれど、本当に約束を叶えてくれたのだ。
屋敷に戻ってからすぐにお礼に向かうと『ニコラちゃんとたくさん遊べて楽しかったわ~。巣立っていっちゃうと思うとちょっと寂しいわね。まだまだ遊びたかったわ』なんて言うのだから、やはり咲き誇る薔薇は大物だ、と感嘆の息を漏らした。
「あっ、そうだ。あと一つ、とっても大切な報告があるんだ!」
お義母様とのやり取りも思い出し、俺はクラウスの膝をポン、と打った。
クラウスは口元に笑みをたたえ、俺の目を見つめ返してくれる。
「次はどんな慶事だ?」
「それだよ。本当に慶事なんだよ」
首を傾げるクラウスに、俺は満面の笑みで報告した。
「ニコラにね、好きな人ができたんだって」
それも、相手の人からのアプローチで、既にプロポーズも受けているそうだ。
「お義母様もだけど、その人もね、ニコラをずっとそばで支え続けてくれて、彼が俺に会っておいで、とニコラの背中を押してくれたようなんだ。詳しくはまだ聞いていないんだけど、プロポーズを受けていいかどうか、ニコラが俺の承諾が欲しいって言って」
ニコラも俺と同様に、自分は幸せになっていいのかと悩んでいた。だからこそ俺にも幸せでいてほしいと願い、そして問いたいのだと控えめに言った。
「もちろんこうしたのだろう?」
クラウスが俺を抱きしめてくる。息ができないくらいに強く強く。
「っ苦しい。苦しいよ!」
苦しいのに俺は笑う。
確かにクラウスの言うとおりだった。『当たり前だよ、一緒に幸せになろう』と俺がぎゅうっと抱きしめると、ニコラはもう『ごめんなさい』ではなく、『ありがとう』と言ってくれた。
絡まっていた糸が解けて、まん丸を描いたような、そんな気持ちになれた。
「……よかったな。エルフィーは、ニコラの訪れをずっと待っていたから」
クラウスは締め付けるのをやめ、背をぽんぽん、としてくれる。
「うん……! それでね、クラウスにも挨拶したいから、その人と一緒にモンテカルスト邸を訪れてくれることになっているんだ」
「そうか、それは嬉しいな。是非日程を合わせよう」
俺たちはすぐに日にちを話し合い、明日教会に行くというお義母様に伝言を頼んだ。
そして三日後。ニコラと恋人の彼が揃って会いに来てくれることになった。
◇◇◇
その日、朝から落ち着かない俺は、まさに居ても立っても居られない状態だった。
ニコラが訪ねてくるのは午後のお茶の時間なのに、外の様子を見に何度もエントランスホールまで足を運んだ。
時間が近付けば、門番さんにホールの扉を開放してもらい、今か今かとニコラの到着を待った。
気付けばクラウスも一緒に待っていてくれて、俺が冷えないようにとケープを肩にかけてくれた。
その優しさをありがたく思いながら、目線を門扉の方向へ向け続ける。
やがて遠くから蹄の音が聞こえてくると、馬車が門扉を通り抜けた。
馬車は敷地内の石畳に入ると、速度を落として停留箇所へと進んでくる。
「来た……!」
俺が待ちきれずに走り出すと、クラウスも後ろを追ってくれた。
そのすぐ後、馬車が停車し、扉が開いた。
先に長い黒髪の、すらりとした細身の男性が降りてくる。
彼は次に降りようとするニコラに手を貸し、ニコラはその手を取った。
けれど俺が名を呼びながら走り寄っていったせいだろう。
ニコラはこちらに視線を向けたために、少しバランスを崩してしまった。
「あっ、ニコラ」
俺も焦りすぎたあまり、足がもつれた。
「エルフィー!」
けれどすぐに背後からクラウスの手が伸びてきて、俺の体を支えてくれた。
ニコラは大丈夫かと慌てて視線を向ければ、長髪の彼にしっかりと支えられ、その人に溢れんばかりの笑みを向けている。
――ああ、ニコラ、今までに見たことがないほどに綺麗だ。
俺は今までニコラを『可愛い』と思ってきたけれど、綺麗だと形容したことはなかったように思う。
今のニコラは本当に、眩しいほど綺麗だ。
その様子を見てニコラへの彼への思いを感じ取ると共に、俺たちにはそれぞれに支えてくれる人ができたのだと実感する。
「こちら、ソンリュン・ヘイズさんです」
ニコラはクラウスと挨拶を交わしたのち、彼を紹介してくれた。
髪だけでなく瞳も黒い涼やかな目元に、黄色味を帯びた肌。
馬車を降りてきた時から気付いていたけれど、彼はリュミエールの人ではない。
ソンリュンさんは偶然にも、先日俺が謁見した王太子殿下の国、シャオレン出身だった。
世界各国を旅しながら創作活動をする芸術家で、昨年の盛夏に他国を経由してリュミエール王国に渡ってきたのだそうだ。
「初めまして、エルフィーさん。あなたのことはニコラさんからかねがね伺っておりました」
ニコラ、俺のことを彼によく話していてくれたのか。
それを聞いただけで胸がいっぱいになる。上手く笑顔を作れなかったかもしれないけれど、俺はソンリュンさんに挨拶を返した。
その後クラウスと二人の挨拶も終わると、俺たちは茶話室へと移動した。
その途中、窓からローズガーデンの手入れをしている庭師たちの様子が目に入り、俺の頭の中にふと、お義母様の顔が浮かんだ。
お気に入りの扇子で口元を隠していても、目が笑っている時の、あの顔だ。
今日はセルドラン家に立ち寄ると言って早くに外出しているけれど……『昨年の盛夏』『芸術家』『シャオレン』という語句が早馬のように、脳内のお義母様の顔の前を走り抜けた。
「――ねえ、ニコラとソンリュンさんはどうやって知り合ったの?」
振り返って問うと、後ろを歩いていたソンリュンさんとニコラは口を揃えて答えた。
「モンテカルスト公爵夫人の紹介で」
ああやっぱり! と声が漏れたことは言うまでもない。
幸あるところにリュミエールの薔薇ありき、とでも言うのだろうか。
お義母様は以前、昨年の夏にシャオレンから渡航した芸術家と交流があると言っていた。
その『芸術家』こそソンリュンさんだったのだ。彼は創作の才能をお義母様に惚れ込まれ、しばらくリュミエールに滞在を求められたそうだ。
「その際に教会での衣食住と報酬も保証するので、子どもたちに絵を学ぶ機会を作るのと、ニコラさんの肖像画を描いてほしいと言われましてね」
「僕は最初、あの頃の自分の姿を写されるのが本当に辛くて、断ったんだけど」
「私がニコラさんに一目惚れをしてしまいまして、猛アプローチしました」
「ソンリュンさん、恥ずかしいから……」
一瞬で頬を染めるニコラと、一見物静かに見えるのに情熱的な言葉を紡ぐソンリュンさんのやり取りに胸が温かくなり、口元が緩む。
もしかしてこれが、お義母様がたびたび口にする『尊い』では。なるほど、なるほど。
そう納得していると、茶話室に到着した。
そして、ニコラが外套を副執事さんに預けた時だ。
「エルフィー、これ、見て」
「ん? あっ」
ニコラが手のひらに置いて見せてくれたのは、俺と全く同じヒバリのペンダントトップだった。
「そうか、ソンリュンさんはシャオレンの人だから!」
シャオレンでは、これがつがいへの贈り物であり、プロポーズの贈り物として用いられている。
だからニコラはこれを『つがい呼びの笛』だと知っていたんだな。
納得しつつ、俺はニコラの手の上のヒバリをまじまじと見た。
「それにしても、これって間違いなく同じものだよね?」
俺も自分のヒバリを出し、ニコラの手の横で並べるように持つ。つがい呼びの笛は物により材質が違うと聞いた。だけど、どう見ても寸分違わず同じものに見える。
すると、ソンリュンさんが俺とニコラの頭の間から二匹のヒバリを見下ろした。
「ニコラさんからそうじゃないかと聞いていましたが……確かにどちらも私の作品です。私の実家は王侯貴族に納める宝飾品や調度品を手がける工房なのですが、こちらの二つはシャオレンでも稀少な種類の珊瑚に翡翠で作ってあります。私が原料の買い付けからこだわって創ったものなのです」
「ソンリュンさんの作品なんですか!」
思いがけない話につい声が高くなると、クラウスも俺の後ろで二匹のヒバリを覗き込んでいた。
「こんな偶然があるんだな」
「本当にそうですね」
ソンリュンさんは頷いて、俺が持つヒバリをじっくりと眺めた。
「私のヒバリは全てシャオレンの王家に納めているのですが、リュミエールから旅に来た商人に強く望まれて、他国の人なら、と一つだけ譲ったことがあるんです。どんな方の元で囀るのだろうかと考えたこともありましたが、よもや私の愛する人の双子のお兄さんの手に渡っているとは……偶然というよりは、運命なのかもしれないという気持ちになりますね」
運命……ソンリュンさんの言葉を聞きながら、俺の頭の中で商人のおじさんが『どうだい、ロマンティックだろう?』とウィンクした。
怪しいおじさんだと思ったけれど、俺とクラウスに二度目のつがいを結ばせてくれた人といえばそうだし、こんな繋がりまで持たせてくれるなんて……また今度、なにか買いに行くことにしよう。
内心でそう思いながらクラウスの目を見れば、さすがは俺のつがい。すぐに察したようで、穏やかな笑みで頷いてくれた。
俺も自然と笑顔になり、ソンリュンさんに伝える。
「そうですね。俺たち、出会うべき運命だったのかもしれません。あの、でも本当に、ニコラに出会ってくれて、ニコラを見つけ出してくれてありがとうございます。ニコラのこと、よろしくお願いします」
「ええ。お任せください。二人で人生の全てを分け合って、幸せを創造して参りますから」
俺が頭を下げると、ソンリュンさんは誓うように胸に手を当てる。
思ったとおり情熱的な人のようだ。彼は席に着いてからも、ニコラについて饒舌に語ってくれた。
「――初めてお会いした時、ニコラさんは今にも枝から落ちそうな葉のようでした」
その頃はニコラが解毒治療を終えて教会に移り住んだ時期……俺の結婚式に手紙を送ってくれる二月前だ。
「ですが必死に枝にしがみつこうとする様子もありました。そのアンバランスさが光と影を表すようで、私の創作心をおおいに刺激したのです」
一目惚れは、『つがい呼びの笛』をイメージする容姿に対してもあったと思うが、それ以上に、モチーフに対する創作者としてのものだった、とソンリュンさんは話す。
彼は最初、影を持つニコラの横顔を基調に、斜めに破り裂いたような境界線を描き、そこに光を切望する正面向きの顔を描き込もうと考えていた。ただしニコラは肖像画なんて描かれたくない、と拒否していたのでソンリュンさんの視線から逃げ回っていたそうだ。
そう思った直後だった。殿下はガラス容器を作業台に置くと、恍惚とした笑みで俺の両手を掬い上げた。
「これが治癒魔法なのだな。最下層のオメガからこれほどの力が生まれるとは、私の常識がいかに狭量であったかを確信した。素晴らしい。すぐにでもこの力をシャオレンの民に見せつけたい」
最下層……国風だから仕方ないとわかっていても、なに気なく発せられたその一言に胸の痛みを覚えながら、俺は左右に頭を振った。
「今のは治癒魔法士なら誰でもできます。それと、お伝えしようと思っていました。シャオレンに渡るのであれば、経験からいっても所長である父が適任です」
これは本当にそうだ。俺も役には立ちたいけれど、魔力だけではなく経験も知識も豊富な父様が行く方がどこの国にとっても有益だと思う。
すると、殿下も頭を左右に振った。
「ヒバリが魔法を使える、ということに価値があるのだ。シャオレンではオメガは最下層だ。誰でもいいわけではない。そなたが適任だ」
「ど、どういう意味ですか」
また『最下層』だ。そして『ヒバリ』。殿下の言っている意味が理解できない。
俺の困惑を感じ取ったのか、殿下は軽く頷くと、声を穏やかなものに戻した。
「先ほども申したように、シャオレンではオメガの身分は最下層だ。宮廷内ではそれが顕著ゆえ、オメガへの投資に不満を漏らす者もいるだろう。しかし『つがい呼びの笛』と同じ桃色と翠の麗しいオメガ――」
そう言いながら、殿下が俺の髪に指を通す。俺は思わず後ずさってしまったものの、殿下は笑みを絶やさずに続ける。
「そのオメガが随一の魔力を示せば、これ以上ない説得材料となる。そなたがシャオレンのオメガ差別を変える鍵になれるのだぞ」
困惑の中で、その言葉がするりと胸に入ってきた。
──シャオレンのオメガ差別を変えられる?
黒い瞳が俺をじっと見つめている。
その闇色は、もう一押しされた言葉と共に、俺の困惑を覆い隠していく。
「エルフィー殿。そなたの才をシャオレンのオメガのために使ってくれ」
──シャオレンのオメガのために俺の魔力や外見が少しでも役に立つなら、使えばいいんじゃないか。そうだ。先日、貰った幸せを還元しようと思ったところだ。こうして望んでもらえている今がその時なんじゃないか?
「……わかりました。俺でよければ、ぜひ協力させてください」
気付けば、俺は頷いていた。
その後、殿下が最も興味を示していたというつがい解消薬へと話題が移った。
そんな情報まで遠いシャオレンに届いているのか、と驚いたものの、完成後から国内の評判が高く、隣国の使者も一番に興味を示したことを思えば納得できた。
殿下の瞳は真剣そのものだ。
「他の薬は現存のものでも対応できる。だが、つがい解消薬はまだリュミエール王国にしかない。事故つがいは我が国にも多いのだ。その者たちが正しいつがいを結び直して幸福になれるよう、シャオレンでも一番につがい解消薬の研究を進めたい」
「その者たち……」
俺はその言葉が嬉しかった。
思い合っていない二人が事故つがいになるのは、確かに悲劇なのだ。
ただ厳密に言えば、別のオメガともつがいを結べるアルファには重大な影響が及ぶことがないため、アルファからつがい解消を希望することはほとんどない。
だから「その者たちが幸福に」とオメガの幸をも願う言葉を殿下が発したことが嬉しい。やはりこの方はオメガのことも考えてくれているのだ。
俺は薬の開発までの道のりを、クラウスと事故つがいになってからの日々を思い出しながら語った。
そして気付くと、殿下の視察時間が終わりを迎えている。
……しまった! また熱くなってしまった。
またも自省しながら、執務室で待機していた父様と共に殿下を見送る。
殿下を乗せたリュミエール王城の馬車が角を曲がって見えなくなると、俺は腰が抜けたようにへなへなと地面に座り込んでしまった。
「どうした、エルフィー」
父様が急いで支えてくれる。
「緊張の糸が解けた……」
「殿下のお相手を一人で務めたからな。お疲れ様だったな。しかし殿下はご機嫌麗しく帰られたじゃないか。治癒魔法についてしっかりとご理解いただけたんじゃないか?」
「それが……」
俺は父様に支えられながら執務室へ戻り、殿下にシャオレン来訪を求められたことを話した。
それを聞くやいなや、父様は一度座りかけた椅子から立ち上がってまで喜んでくれる。
「そうか! それは名誉なことだな!」
「俺は父様が適任だと思うんだけど、できることは挑戦してみようと思う」
「そうかそうか。それでいいんだ。何事も経験だ。エルフィーには持ち前の明るさと前進力がある。楽しんで務めを果たしてきなさい」
父様は猪突猛進な俺の性格をいいように言ってくれるんだから……
「でもほら、まだなにも決まっていないから、王命が下るのはずいぶん先だろうね」
照れくさくなりながらそう話していると、執務室のドアがノックされた。
返事をする間もなくドアが開く。訪れたのは母様で、ずいぶん華やいだ表情をしていた。
「母様、今日はどうしたの?」
「……これよ!」
少しだけもったいぶった母様が俺に見せたのは、一通の封書だった。
すみれの花が薄く描かれたその封書は、セルドラン家の紋章が刻まれた封緘で封じられている。
「それ、もしかして!」
「そう、ニコラからよ!」
俺は母様の言葉の途中で封書に手を伸ばし、なかば奪うように受け取った。
緊張で手が震えて、上手く中の手紙を取り出すことができない。
ニコラから手紙が届くのは結婚式以来だ。
なんて書いてある? どうしてる? なにかあったのか? ニコラ、ニコラ……
エルフィーへ
いつも僕を気にかけ、手紙を送り続けてくれてありがとう。
僕も、父様や母様だけでなく、教会を訪問されるモンテカルスト公爵夫人からも、エルフィーの様子を聞いています。
それなのに長い間手紙を返せなくてごめんなさい。
僕の解毒治療が終わっていくつかの季節が過ぎました。
もうすっかり体調も戻り、頭もすっきりしています。
今の日々があるのは周囲の方々のおかげです。僕は毎日を大切に、感謝して生きています。
罪は償いきれないとわかっているけれど、
自分自身と向き合いながら心を込めて教会の奉仕活動にも取り組んでいます。
そしてそんな日々の中で、僕は進みたい道を見つけました。
その報告と、これまでの謝罪を面と向かってさせてもらえないでしょうか。
返事を待っています。
ニコラより
文面の一字一句まで読めていたかは自分でもわからない。気持ちが先走って、拾い読みをしてしまった気がする。
それでも一番知りたかったことはちゃんと読み取れた。
俺は顔を上げると、二人に言った。
「ねえ、父様、母様! これって、ニコラが俺に会いに来てくれるってことだよね?」
「ええ、ええ」
母様は高揚している俺に涙目で頷き、父様は執務机の引き出しから便箋と封筒を出してくれる。
「返事を書いてやりなさい。そこに座って書くといい」
俺は父様に促された席に座り、ニコラの手紙も机に広げて置く。
改めてニコラからの文面を見ながら、冒頭の文章を書き始めた。
親愛なるニコラへ
手紙をありがとう。とてもとても嬉しく読みました。
俺の方はいつでも大丈夫です。
ニコラが指定してくれる場所へ行きます。
早く会
そこまで書いて、ペンを止めた。
ニコラからの手紙には『面と向かって』と書いてあるけれど『会いたい』とは書かれていない。
結婚式の時の手紙には『大好きな兄さんへ』と綴ってくれたのに、今回はその言葉がない。
……ニコラは今、俺に対してどんな思いを抱いているのだろう。
けじめとして会うけれど、本当は会いたくない?
愛憎入り混じった気持ちを俺に抱いていたニコラ。
ずっとニコラのそばにいたのに、俺は募っていく彼の苦悩を見逃していた。
その場しのぎの慰めじゃなく、心の深淵にまで寄り添う器量が俺にあれば違っただろうに、俺は未熟で浅はかな子どもだった。クラウスはそんな俺に『ニコラは君を心から愛している』と言ってくれたけれど、本当にそうだったのだろうか。
あれから一年半近くを経た今、ニコラは俺のことや当時のことをどんなふうに思っているのだろう。
俺は、父様に頼んで新しい便箋をもらうと、手紙を書き直した。
『会いたい』という言葉はニコラの心に負担になるかもしれないから書くのをやめ、【ニコラが指定してくれる場所へ行きます。】まででペンを置く。
封筒に入れ、不安と緊張を感じながら母様に手紙を預けた。
すると、翌朝のことだ。
俺に届いたのは、ニコラがラボの応接室で待っている、という父様からの言葉だった。
高まる緊張に手に汗を握りながら、応接室の扉の取っ手を握る。
引くまでに少し時間と勇気が必要だった。天を仰いで深呼吸をしてから、勢い半分で扉を開く。
すぐに青年の後ろ姿が目に入った。
柔らかそうなピンクブロンドの髪は肩を越えたくらいの長さで、サイドで一つに結んである。最後に会った時の髪型とは違うけれど、後ろ姿は間違いなくニコラのものだ。
「――ニコラ」
俺の声にニコラの細い肩が揺れる。それでも立ち上がろうとせず、俺に背を向けたまま黙っている。
どうしよう。もう一度声をかけてみようか。
俺は渇いた喉に唾を送り、口を開こうとした。その時だった。
ニコラがスッと立ち上がり、俺に振り向いた。
エメラルドグリーンの瞳が大洪水を起こし、頬は涙に濡れている。唇はなにか言葉を発しようとしているけれど、震えて声が出ていない。
けれど俺にはわかった。ニコラは俺の名を呼んでいる。
そこからはもう言葉はいらなかった。
気付くと二人とも最初に立っていた場所から離れていて、固く抱き合っていた。
やはり双子だから、兄弟だから……ううん。なによりも、俺たちは家族なのだから。
やがて止まらない涙と鼻水に困り、どちらからともなくハンカチーフを出して頬を拭い合った。
「ニコラ、顔がぐしゃぐしゃだ」
「エルフィーだって……ふ、ぅっ……」
涙を拭いてやるそばからニコラが嗚咽を漏らして肩を揺らす。
俺はニコラと一緒にソファに座り、肩を抱いた。
「会いたかったよ。会いに来てくれてありがとう」
ありのままの気持ちを声に出すと、ニコラは堰を切ったかのように「ごめんなさい」を繰り返す。
「ごめんなさい、エルフィー。上手に書けなくて、貰った手紙に返事ができないままでごめんなさい。もっと早くから会いたい気持ちはあったのに、いざとなると勇気が出なくてこんなに遅くなってしまった。だけどだからこそ君への思いは手紙ではなく直接伝えたくて。遅くなってごめんなさい。自分の弱さを薬で誤魔化してひどいことをした。ごめんなさい。ごめんなさい……!」
「いいんだ」とすぐにでも言いたかった。
俺こそ謝るべきだし、ニコラの思いは充分に伝わっている。
けれどそれでは今までと同じだ。ニコラの心の中の澱が全て吐き出されるまで、俺はなにも言わずにニコラの肩を強く抱いていた。
やがて部屋に差し込んでいた朝日の眩しさが和らぎ、外からヒバリの鳴き声が聞こえてきた時、細くなっていたニコラの啜り泣きが止まった。
俺はもう一度ニコラの涙を拭い、しっかりと視線を合わせる。
「俺こそごめんな。ニコラの募った思いに気付けずにいた。ニコラの治療中、なにもできずにいた。ニコラが治療を終えるのを待たずに……幸せを感じる日々を送っていた」
とても言い難い言葉だった。懺悔の日々を送っていたニコラに「自分は幸せだった」なんて、傲慢にもほどがある。
それでも日々に幸せを感じていることを罪だと感じていた俺は、ニコラに謝りたかった。
時折思い出しては仕舞うことを繰り返していた過去を、心のチェストから取り出す。
『自分だけ幸せになろうとしてるの?』
俺はニコラにそう問われた時、『自分だけなんて思ってない。一緒に幸せを見つけたい。だけど嘘をついたままじゃ、先へ進めないから』とクラウスへの思いを吐露した。
ニコラは今回、手紙に『進みたい道を見つけた』と書いていた。
――当時と同じように心を誤魔化さずに伝え、ニコラと先へ進みたい。
唇を噛んでニコラの言葉を待つ。すると、ニコラの細い指が俺の唇に触れた。
「謝らないで。悪いと思わないで。僕も同じだった。僕はエルフィーが幸せでないと、幸せになってはいけないと思ってる」
唇から指が離れる。俺がその結びを解いて「ニコラも?」と問うと、ニコラは頷いて続けた。
「僕がしたことで捻じ曲げてしまったものを戻して、クラウスと幸せになってほしかった。エルフィーが心底幸せでないと、僕も先へ進めない。だから夫人からエルフィーの様子を聞かせてもらうたび、勝手だけど赦された気持ちになっていたよ? でもエルフィーはきっと幸せであることを後ろめたく思っていて、その分前のめりで突っ走っているようにも思えて、心配だった。エルフィーは、昔から空回りすることがあったから」
その言葉に胸がいっぱいになる。
離れていたのに、ニコラも俺のことをずっと考えていてくれたのか。
ニコラは俺の内心を読んだように、また続ける。
「僕だけじゃないよ? 母様も夫人もわかってた」
「え……やだな、俺ってやっぱりわかりやすいのかな」
苦笑してしまうと、ニコラも苦笑する。けれど以前のように鏡に映った自分自身のように感じないのは、ニコラが大人びたからだろうか。
以前とは雰囲気が変わったニコラのことを知りたくなって、俺は改めてニコラの長くなった髪に触れた。
「ねぇ、ニコラ。……ニコラの今までとこれからのこと、聞かせてくれる?」
ニコラが頷く。居住まいを正すと、話して聞かせてくれた。
つがい解消薬を発動させたあの日のことから、ゆっくり、ゆっくりと。
「――あの日、僕はエルフィーの心が僕には戻らないことを悟った。それと同時に、つがいを解消され、意識が混濁してもなおエルフィーの名を呼び続けるクラウスを見た」
そこでニコラの心がグラグラと揺れたという。
ここまで来たのに、こんなことまでして辿り着いたのに、僕が手に入れられるものはなにもない。手に入るはずだった僕の欲しいものは、欠片も手に入れられない、と。
「……僕が本当に欲しかったのはなんだったんだろうって、途端にわからなくなった。そして、大好きな兄さんと幼馴染を傷付けたことをひどく後悔した」
そう思った時、ヒートで苦しい体がひとりでに動いていたそうだ。
ニコラはドアに向かい、内鍵を開けた。
俺はハッとして、ニコラの瞳を見つめる。
「……クラウスが外に出られるように、ドアを開けてくれたのはニコラだったんだな」
いつか話してくれる日が来たら聞きたいと思っていた。クラウスが閉じ込められていなかった理由を、ニコラが倒れているクラウスから離れた場所でうずくまっていた理由を……ニコラがクラウスとつがいを結ばなかった理由を。
ニコラは項垂れるように頷くと、話を再開した。
「それから僕は、試験台に置いてある薬草瓶に手を伸ばした。その一つにヒート抑制に即効性のある薬草エキスが入っていたから。それでヒートを抑えて、クラウスの意識がしっかりしたら出て行ってもらおうと思った。だけど体が思いどおりに動かなくて、瓶を落として割ってしまったんだ」
胸がヒリッと痛んだ。ニコラがその破片を手首に突き立てていたのを、クラウスから聞いていたからだ。
今はもう傷があるはずもないのに、俺はニコラの左手首を握りしめた。
ニコラはそこに視線を落とすと、緩く首を振る。
「償おうとしたわけじゃない。なにもかも上手くいかない僕は駄目な子で、お祖父様の言葉どおり価値のない人間なんだと思い知らされたんだ。こんなだから誰からも愛されない。じゃあ存在意義も、生きてる価値もないじゃないかと、命を断つことで自分の弱さから逃げようとしただけだ。またがっかりしたよね? ごめんなさい」
がっかりなんて……! そう言いたいのに、当時のニコラの絶望が喉を詰まらせる。
俺は唇を噛みしめ、手にもつい力が入ってしまった。
ニコラの手首を強く締め付けてしまったようで、ニコラが俺の手の上に手を重ねる。
「でもね、その瞬間聞こえてきたんだ。真っ暗闇の頭の中に直接――ちょうど今みたいに、ヒバリが囀るようなピロロ、ピロロ、という高い音だった。その時、乱用した薬草エキスとヒートの影響で意識は朦朧としていたはずなのに、その音だけは、はっきり聞こえた」
「あ……」
その音に心当たりがある俺は、ニコラの瞳を見つめた。
ニコラは俺のベストの下にいたヒバリを、革紐に指をかけて誘い出す。
「この笛の音は運命のつがいを呼ぶ囀りなんだってね。エルフィーはクラウスを呼んでいたんだろうけど、その音は僕にも届いて、暗闇に光を生んだ。その光を頼りに、僕は狭くて暗いトンネルを必死に這い出す幻影を見た」
そして、気付くと救護院に向かう馬車の中にいて、馬車の窓から差し込む光を受けながら涙を流す父様と母様に、しっかりと抱きしめられていたそうだ。
もう終わっている話なのに、それを聞いてようやくホッとできた。
「よかった……ニコラ、生きていてくれてありがとう」
もうそれしかない。ヒバリにも感謝する。
ニコラの耳にも囀りを届けてくれてありがとう、と。
「あ……そういえばニコラ」
ヒバリのこと、知っていたのか? と訊ねようとした。
俺がヒバリを身に着けている姿は見ていたと思うけれど、ニコラがこれを『つがい呼びの笛』と認識しているとは思わなかったからだ。
けれど訊ねる前に、ニコラが先に口を開いていた。
「……僕があの時命を断っていたら、確かにもっとエルフィーとクラウスを苦しめていたね」
「俺たちだけじゃないよ。父様も母様も、夫人も……アカデミーの同窓生だってみんな苦しむ!」
俺が声を強くすると、ニコラの瞳が潤んで揺れた。
「うん。エルフィーと離れて暮らしてみて、やっと気付いた。僕は同じ姿の双子のエルフィーをずっと意識してきて、自分自身を見つめることができていなかったって。そして自分と向き合っているうちに、僕に向けられている温かい瞳にもやっと気付けた。父様、母様。モンテカルスト夫人に教会の人々。みんな『ニコラ・セルドラン』を見ていてくれた。そして愛してくれている」
「うん、うん……そうだよ。そうなんだ。俺もニコラを愛してる!」
言葉は淀みなく出た。だってもう躊躇う必要はない。俺たちは家族なんだから。
「僕も、伝えてもいいかな?」
ニコラが遠慮がちに訊ねるので、当たり前だよと、今の心のままの返事をした。
ニコラの瞳がまっすぐに俺に向く。
「僕もエルフィーを愛してる」
――ああ、なんて清らかな瞳なんだろう。あの日の底のない沼のような瞳ではなく、朝露を乗せた若葉のように、命の輝きを宿した瞳だ。
やはり過去のニコラとは違う。
内面から溢れ出てくるようなその眩しさに、俺の目は自然と細まるのだった。
「――それでね、ニコラは本格的に教師を目指すんだって!」
その夜、俺はクラウスに今日のことを報告した。手紙が届いたことを伝えた昨日に引き続き、クラウスは俺のおしゃべりを中断せずに耳を傾けてくれる。
ニコラは話してくれた。
教会附属の孤児院で教師として奉仕をする日々の中、これまでに取得してきた知識や経験を伝えることで子どもたちのできることが増え、笑顔も増えていったのだと。
生誕と同時にバース判定が下されるリュミエールで孤児院に住むのは、親に捨てられて行き先を失くしたオメガの子どもばかりだ。
『彼らの中には僕のように魔力が低い子もいて、きっと将来の仕事に悩む子もいると思う。だけど皆、夢中になれること、一生懸命になれることがあるはずだ。全てのオメガの子どもの努力が報われるよう、少しでも助力になりたい。子どもたちが自分らしさを磨いて、輝いた気持ちで生きていけるお手伝いができたらいいな、と思うんだ』
俺はニコラの未来予想図に聞き入りながら、込み上げてくるものを感じていた。
とても素敵だ。ニコラは逆境に負けずに努力してきた。だからこそニコラにしかできない伝え方があると思うし、相手にわかりやすく伝えられると思う。
俺も先日、自分が貰った幸せを還元しようと浮かんだものの、まだ具体策を見つけるには至らなかった。これはニコラだからこそ見つけた未来だ。
本当に俺の弟は凄い。
ニコラにもそう伝えると、お義母様がその適性に気付いて、多くのアドバイスをしてくれたのだ、と言っていた。
お義母様は俺に『ニコラちゃんを強く育てると約束するから安心して』と言ってくれていたけれど、本当に約束を叶えてくれたのだ。
屋敷に戻ってからすぐにお礼に向かうと『ニコラちゃんとたくさん遊べて楽しかったわ~。巣立っていっちゃうと思うとちょっと寂しいわね。まだまだ遊びたかったわ』なんて言うのだから、やはり咲き誇る薔薇は大物だ、と感嘆の息を漏らした。
「あっ、そうだ。あと一つ、とっても大切な報告があるんだ!」
お義母様とのやり取りも思い出し、俺はクラウスの膝をポン、と打った。
クラウスは口元に笑みをたたえ、俺の目を見つめ返してくれる。
「次はどんな慶事だ?」
「それだよ。本当に慶事なんだよ」
首を傾げるクラウスに、俺は満面の笑みで報告した。
「ニコラにね、好きな人ができたんだって」
それも、相手の人からのアプローチで、既にプロポーズも受けているそうだ。
「お義母様もだけど、その人もね、ニコラをずっとそばで支え続けてくれて、彼が俺に会っておいで、とニコラの背中を押してくれたようなんだ。詳しくはまだ聞いていないんだけど、プロポーズを受けていいかどうか、ニコラが俺の承諾が欲しいって言って」
ニコラも俺と同様に、自分は幸せになっていいのかと悩んでいた。だからこそ俺にも幸せでいてほしいと願い、そして問いたいのだと控えめに言った。
「もちろんこうしたのだろう?」
クラウスが俺を抱きしめてくる。息ができないくらいに強く強く。
「っ苦しい。苦しいよ!」
苦しいのに俺は笑う。
確かにクラウスの言うとおりだった。『当たり前だよ、一緒に幸せになろう』と俺がぎゅうっと抱きしめると、ニコラはもう『ごめんなさい』ではなく、『ありがとう』と言ってくれた。
絡まっていた糸が解けて、まん丸を描いたような、そんな気持ちになれた。
「……よかったな。エルフィーは、ニコラの訪れをずっと待っていたから」
クラウスは締め付けるのをやめ、背をぽんぽん、としてくれる。
「うん……! それでね、クラウスにも挨拶したいから、その人と一緒にモンテカルスト邸を訪れてくれることになっているんだ」
「そうか、それは嬉しいな。是非日程を合わせよう」
俺たちはすぐに日にちを話し合い、明日教会に行くというお義母様に伝言を頼んだ。
そして三日後。ニコラと恋人の彼が揃って会いに来てくれることになった。
◇◇◇
その日、朝から落ち着かない俺は、まさに居ても立っても居られない状態だった。
ニコラが訪ねてくるのは午後のお茶の時間なのに、外の様子を見に何度もエントランスホールまで足を運んだ。
時間が近付けば、門番さんにホールの扉を開放してもらい、今か今かとニコラの到着を待った。
気付けばクラウスも一緒に待っていてくれて、俺が冷えないようにとケープを肩にかけてくれた。
その優しさをありがたく思いながら、目線を門扉の方向へ向け続ける。
やがて遠くから蹄の音が聞こえてくると、馬車が門扉を通り抜けた。
馬車は敷地内の石畳に入ると、速度を落として停留箇所へと進んでくる。
「来た……!」
俺が待ちきれずに走り出すと、クラウスも後ろを追ってくれた。
そのすぐ後、馬車が停車し、扉が開いた。
先に長い黒髪の、すらりとした細身の男性が降りてくる。
彼は次に降りようとするニコラに手を貸し、ニコラはその手を取った。
けれど俺が名を呼びながら走り寄っていったせいだろう。
ニコラはこちらに視線を向けたために、少しバランスを崩してしまった。
「あっ、ニコラ」
俺も焦りすぎたあまり、足がもつれた。
「エルフィー!」
けれどすぐに背後からクラウスの手が伸びてきて、俺の体を支えてくれた。
ニコラは大丈夫かと慌てて視線を向ければ、長髪の彼にしっかりと支えられ、その人に溢れんばかりの笑みを向けている。
――ああ、ニコラ、今までに見たことがないほどに綺麗だ。
俺は今までニコラを『可愛い』と思ってきたけれど、綺麗だと形容したことはなかったように思う。
今のニコラは本当に、眩しいほど綺麗だ。
その様子を見てニコラへの彼への思いを感じ取ると共に、俺たちにはそれぞれに支えてくれる人ができたのだと実感する。
「こちら、ソンリュン・ヘイズさんです」
ニコラはクラウスと挨拶を交わしたのち、彼を紹介してくれた。
髪だけでなく瞳も黒い涼やかな目元に、黄色味を帯びた肌。
馬車を降りてきた時から気付いていたけれど、彼はリュミエールの人ではない。
ソンリュンさんは偶然にも、先日俺が謁見した王太子殿下の国、シャオレン出身だった。
世界各国を旅しながら創作活動をする芸術家で、昨年の盛夏に他国を経由してリュミエール王国に渡ってきたのだそうだ。
「初めまして、エルフィーさん。あなたのことはニコラさんからかねがね伺っておりました」
ニコラ、俺のことを彼によく話していてくれたのか。
それを聞いただけで胸がいっぱいになる。上手く笑顔を作れなかったかもしれないけれど、俺はソンリュンさんに挨拶を返した。
その後クラウスと二人の挨拶も終わると、俺たちは茶話室へと移動した。
その途中、窓からローズガーデンの手入れをしている庭師たちの様子が目に入り、俺の頭の中にふと、お義母様の顔が浮かんだ。
お気に入りの扇子で口元を隠していても、目が笑っている時の、あの顔だ。
今日はセルドラン家に立ち寄ると言って早くに外出しているけれど……『昨年の盛夏』『芸術家』『シャオレン』という語句が早馬のように、脳内のお義母様の顔の前を走り抜けた。
「――ねえ、ニコラとソンリュンさんはどうやって知り合ったの?」
振り返って問うと、後ろを歩いていたソンリュンさんとニコラは口を揃えて答えた。
「モンテカルスト公爵夫人の紹介で」
ああやっぱり! と声が漏れたことは言うまでもない。
幸あるところにリュミエールの薔薇ありき、とでも言うのだろうか。
お義母様は以前、昨年の夏にシャオレンから渡航した芸術家と交流があると言っていた。
その『芸術家』こそソンリュンさんだったのだ。彼は創作の才能をお義母様に惚れ込まれ、しばらくリュミエールに滞在を求められたそうだ。
「その際に教会での衣食住と報酬も保証するので、子どもたちに絵を学ぶ機会を作るのと、ニコラさんの肖像画を描いてほしいと言われましてね」
「僕は最初、あの頃の自分の姿を写されるのが本当に辛くて、断ったんだけど」
「私がニコラさんに一目惚れをしてしまいまして、猛アプローチしました」
「ソンリュンさん、恥ずかしいから……」
一瞬で頬を染めるニコラと、一見物静かに見えるのに情熱的な言葉を紡ぐソンリュンさんのやり取りに胸が温かくなり、口元が緩む。
もしかしてこれが、お義母様がたびたび口にする『尊い』では。なるほど、なるほど。
そう納得していると、茶話室に到着した。
そして、ニコラが外套を副執事さんに預けた時だ。
「エルフィー、これ、見て」
「ん? あっ」
ニコラが手のひらに置いて見せてくれたのは、俺と全く同じヒバリのペンダントトップだった。
「そうか、ソンリュンさんはシャオレンの人だから!」
シャオレンでは、これがつがいへの贈り物であり、プロポーズの贈り物として用いられている。
だからニコラはこれを『つがい呼びの笛』だと知っていたんだな。
納得しつつ、俺はニコラの手の上のヒバリをまじまじと見た。
「それにしても、これって間違いなく同じものだよね?」
俺も自分のヒバリを出し、ニコラの手の横で並べるように持つ。つがい呼びの笛は物により材質が違うと聞いた。だけど、どう見ても寸分違わず同じものに見える。
すると、ソンリュンさんが俺とニコラの頭の間から二匹のヒバリを見下ろした。
「ニコラさんからそうじゃないかと聞いていましたが……確かにどちらも私の作品です。私の実家は王侯貴族に納める宝飾品や調度品を手がける工房なのですが、こちらの二つはシャオレンでも稀少な種類の珊瑚に翡翠で作ってあります。私が原料の買い付けからこだわって創ったものなのです」
「ソンリュンさんの作品なんですか!」
思いがけない話につい声が高くなると、クラウスも俺の後ろで二匹のヒバリを覗き込んでいた。
「こんな偶然があるんだな」
「本当にそうですね」
ソンリュンさんは頷いて、俺が持つヒバリをじっくりと眺めた。
「私のヒバリは全てシャオレンの王家に納めているのですが、リュミエールから旅に来た商人に強く望まれて、他国の人なら、と一つだけ譲ったことがあるんです。どんな方の元で囀るのだろうかと考えたこともありましたが、よもや私の愛する人の双子のお兄さんの手に渡っているとは……偶然というよりは、運命なのかもしれないという気持ちになりますね」
運命……ソンリュンさんの言葉を聞きながら、俺の頭の中で商人のおじさんが『どうだい、ロマンティックだろう?』とウィンクした。
怪しいおじさんだと思ったけれど、俺とクラウスに二度目のつがいを結ばせてくれた人といえばそうだし、こんな繋がりまで持たせてくれるなんて……また今度、なにか買いに行くことにしよう。
内心でそう思いながらクラウスの目を見れば、さすがは俺のつがい。すぐに察したようで、穏やかな笑みで頷いてくれた。
俺も自然と笑顔になり、ソンリュンさんに伝える。
「そうですね。俺たち、出会うべき運命だったのかもしれません。あの、でも本当に、ニコラに出会ってくれて、ニコラを見つけ出してくれてありがとうございます。ニコラのこと、よろしくお願いします」
「ええ。お任せください。二人で人生の全てを分け合って、幸せを創造して参りますから」
俺が頭を下げると、ソンリュンさんは誓うように胸に手を当てる。
思ったとおり情熱的な人のようだ。彼は席に着いてからも、ニコラについて饒舌に語ってくれた。
「――初めてお会いした時、ニコラさんは今にも枝から落ちそうな葉のようでした」
その頃はニコラが解毒治療を終えて教会に移り住んだ時期……俺の結婚式に手紙を送ってくれる二月前だ。
「ですが必死に枝にしがみつこうとする様子もありました。そのアンバランスさが光と影を表すようで、私の創作心をおおいに刺激したのです」
一目惚れは、『つがい呼びの笛』をイメージする容姿に対してもあったと思うが、それ以上に、モチーフに対する創作者としてのものだった、とソンリュンさんは話す。
彼は最初、影を持つニコラの横顔を基調に、斜めに破り裂いたような境界線を描き、そこに光を切望する正面向きの顔を描き込もうと考えていた。ただしニコラは肖像画なんて描かれたくない、と拒否していたのでソンリュンさんの視線から逃げ回っていたそうだ。
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両親を早くに亡くしその借金の返済が迫っている悠理にとって未成年最後のこのコンクールの賞金を得る事がラストチャンスだった。
しかし、司に敗北した悠理ははオメガ専用の娼館にいくより他なくなってしまう。
コンサート入賞者を招いたパーティーで司に想い人がいることを知った悠理は地味な自分がオメガだとバレていない事を利用して司を嵌めて慰謝料を奪おうと計画するが……。
事故つがいの夫は僕を愛さない ~15歳で番になった、オメガとアルファのすれちがい婚~【本編完結】
カミヤルイ
BL
2023.9.19~完結一日目までBL1位、全ジャンル内でも20位以内継続。
2025.4.28にも1位に返り咲きました。
ありがとうございます!
美形アルファと平凡オメガのすれ違い結婚生活
(登場人物)
高梨天音:オメガ性の20歳。15歳の時、電車内で初めてのヒートを起こした。
高梨理人:アルファ性の20歳。天音の憧れの同級生だったが、天音のヒートに抗えずに番となってしまい、罪悪感と責任感から結婚を申し出た。
(あらすじ)*自己設定ありオメガバース
「事故番を対象とした番解消の投与薬がいよいよ完成しました」
ある朝流れたニュースに、オメガの天音の番で、夫でもあるアルファの理人は釘付けになった。
天音は理人が薬を欲しいのではと不安になる。二人は五年前、天音の突発的なヒートにより番となった事故番だからだ。
理人は夫として誠実で優しいが、番になってからの五年間、一度も愛を囁いてくれたこともなければ、発情期以外の性交は無く寝室も別。さらにはキスも、顔を見ながらの性交もしてくれたことがない。
天音は理人が罪悪感だけで結婚してくれたと思っており、嫌われたくないと苦手な家事も頑張ってきた。どうか理人が薬のことを考えないでいてくれるようにと願う。最近は理人の帰りが遅く、ますます距離ができているからなおさらだった。
しかしその夜、別のオメガの匂いを纏わりつけて帰宅した理人に乱暴に抱かれ、翌日には理人が他のオメガと抱き合ってキスする場面を見てしまう。天音ははっきりと感じた、彼は理人の「運命の番」だと。
ショックを受けた天音だが、理人の為には別れるしかないと考え、番解消薬について調べることにするが……。
表紙は天宮叶さん@amamiyakyo0217
「オレの番は、いちばん近くて、いちばん遠いアルファだった」
星井 悠里
BL
大好きだった幼なじみのアルファは、皆の憧れだった。
ベータのオレは、王都に誘ってくれたその手を取れなかった。
番にはなれない未来が、ただ怖かった。隣に立ち続ける自信がなかった。
あれから二年。幼馴染の婚約の噂を聞いて胸が痛むことはあるけれど、
平凡だけどちゃんと働いて、それなりに楽しく生きていた。
そんなオレの体に、ふとした異変が起きはじめた。
――何でいまさら。オメガだった、なんて。
オメガだったら、これからますます頑張ろうとしていた仕事も出来なくなる。
2年前のあの時だったら。あの手を取れたかもしれないのに。
どうして、いまさら。
すれ違った運命に、急展開で振り回される、Ωのお話。
ハピエン確定です。(全10話)
2025年 07月12日 ~2025年 07月21日 なろうさんで完結してます。
「お前を愛する事はない」を信じたので
あんど もあ
ファンタジー
「お前を愛することは無い。お前も私を愛するな。私からの愛を求めるな」
お互いの利益のために三年間の契約結婚をしたアヴェリンとロデリック。楽しく三年を過ごしたアヴェリンは屋敷を出ていこうとするのだが……。