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1巻
1-3
三日月がすっかり姿を消した真夜中、歩いている人は誰もいない。俺の情けない姿は誰にも見られずに済んだ。
「体、洗って、中、掻き出して、クラウスのフェロモンの匂い、全部消さなくちゃ」
独り言を言いながら、部屋に備え付けのシャワー室で体を洗い流す。
「っつ……痛っ!」
勢いを持って降り注ぐ湯がうなじに当たって、鋭く染みる痛みに襲われた。
嘘でしょ? どうしてここがズキズキ痛むの?
手が小刻みに震える。触りたくない。怖い、怖い、怖い、怖い。だけど……
「嘘、うなじ……うなじが……!」
指先で触れただけでわかる。俺のうなじには、つがいの刻印がしっかりと刻まれていた。
もう叫ぶどころではなかった。俺はシャワー室の床に崩れ落ちて、茫然自失となってしまう。
それからどれくらいシャワーに当たっていたかはわからない。ふと我にかえり、ともかく体を綺麗に洗った。不思議だった。我にかえってしまうと、体に活力が満ちているのを感じた。初めての行為のあとなのに、気怠さが少しもない。
これがつがいを得たということなのだろうか。だとしたらアルファであるクラウスも今、なにかしら体の変化を感じているのだろうか。
けれど願わくは、ヒートに陥った俺に過ちの記憶がないように、ラットになったクラウスの記憶もなくなっていればいい。過ちも、つがいになった記憶も、すべて憶えていませんように。
これから俺は、もう誰ともつがうことも結婚することもできないけれど、クラウスはアルファだからニコラとつがいになれる。ニコラにはクラウスと幸せになってもらいたいんだ。クラウスが思い出さなければ、すべて丸く収まる。
自分が招いたことだもの。俺はこれから先、抑制剤を使って耐えていく。今より強力な抑制剤を作って……いや、つがい解消薬を成功できれば、俺もやり直しができるはずだ。
頭の中で今後の不安を打ち消しながら、うなじの生傷と首や下半身に散らばったうっ血痕に治癒魔法をかける。つがいの刻印は怪我でも病気でもなく契約だから咬み痕自体は消えない。
時間をかけ、咬まれた直後の傷の生々しさとうっ血痕だけは消した。
「うなじの刻印はこれで隠していこう」
本当は日付が変わる前に寄宿舎を出ていないといけなかったから、荷物をまとめてある。そこから大判のスカーフを出して首にしっかりと巻きつけ、部屋を出る。
忍び足で敷地から出て、夜明けが近い仄暗い道を早足で歩いた。
アカデミーから俺の家まではさほど距離はない。
「おや、エルフィーぼっちゃん、今お帰りですか?」
「お帰りなさいませ、ご卒業おめでとうございます。お荷物をお運びしましょう」
家の門扉に着くと、いつでも早起きで仕事熱心な執事さんとメイド長さんに出くわして、声をかけられてしまった。
俺はろくに挨拶もせず、逃げるように家に飛び込む。そのまま一心不乱に廊下を進み、父様と母様の寝室、ニコラの寝室の前を通り過ぎて自室に入った。
ふぅ、家族に見つからなくてよか……
「ニ、ニコラ?」
安堵のため息をついたところで、ベッドにニコラが寝ているのが目に入った。
動揺して、荷物を入れた大きなバッグをどすん、と落としてしまう。
「ん~」
音で目が覚めてしまったようで、ニコラがベッドで伸びをした。
「よく寝たぁ……あれ? エルフィー!」
見えない矢で心臓を射られたようだった。体中の血が急激に心臓に移動するのに、その器である体は硬直して指一本動かせない。
代わりにニコラが満面の笑みでベッドから下りて近づいてくる。
「おかえり、朝帰りだね。ってことは、フェリクスとうまくいったんだね?」
喉も舌も硬直して返事ができない。冷たい汗だけが背中を伝う。
「……どうしたの? 珍しく顔色が悪いね。今頃緊張が出てきた? ひとまずベッドにおいでよ」
「あ、や……」
「わ、冷たい手。温めないと」
ニコラは俺の肩を抱き、もう一方の手で手をさすりながらベッドに連れて行ってくれる。
「どうしたの? もしかして、断られた、とか……? ううん、だけどエルフィーのものじゃない香りがするもの」
俺をベッドに座らせると、ニコラはくんくんと俺の体の匂いを嗅いできた。
「これって、フェリクスのフェロモン? エルフィー、フェリクスと経験したんだね?」
「えっ、まだフェロモンが匂ってるのか⁉」
あんなに洗い流したのにと驚いて、思わず口にしてしまう。
馬鹿っ、黙れ俺!
慌てて口を閉じるけれど、出てしまった言葉は消えず、ニコラがパッと笑顔になる。
「やっぱり! そっか、それでそんなに疲れてるんだね。アルファの交接は執拗で大変だと聞くもの。でも、でもおめでとう、エルフィー。これでもう、つがいになったも同然だね。僕でも感じるもの。エルフィーを絶対に離さない、一生愛し抜くって、フェロモンが主張するみたいに絡みついてる!」
俺はブルブルと首を振る。
そんなことがあるわけない。これはクラウスのフェロモンだ。クラウスは事故って俺としただけだ。クラウスが好きなのはニコラ、おまえなんだから!
「ちが、違うんだ、ニコラ、俺……」
けれど、それ以上は言えなかった。
クラウスと事故つがいになってしまったなんて、どれだけニコラを傷つけるか。
「どうして泣くの? フェリクスの交接が乱暴だったとか? 顔に似合わず加虐趣味があるとか? とにかく話を聞くから、まずは楽な服装になって寛ぎなよ」
ニコラの手が俺の首のスカーフに触れる。
「あっ、だ、駄目、ニコラ、取らないで!」
制止は間に合わなかった。ニコラはするりとスカーフを取り去り、次の瞬間、目を見開いた。
「つがいの……刻印?」
見られた! ニコラにうなじを見られた!
「どういうこと? 僕たち、発情期は来月だよね? この時期じゃ、咬まれたとしても契約には至らない……でもしっかりと契約が成立した刻印がついてる」
ニコラはベッドに上がり込み、背中から俺の肩を掴んでうなじに顔を寄せた。
体中から汗が吹き出す。息がうまくできなくなって、目の前がぐわんぐわんと回り出す。
どうしよう、どうしよう。つがい解消薬を作り上げるまでの間、隠し通すべきだったのに。
過呼吸になりかけて、息を吐き出そうと喉元に触れた、そのときだった。
「ぼっちゃん、朝食の準備が整いました」
ドアがノックされ、メイド長さんの声がした。
「……エルフィー。ひとまず朝食室に行こう。父様と母様は僕以上に驚くだろうから、朝食のあとにゆっくりと聞かせて?」
ニコラがベッドから降りる。俺はゴクンと唾を呑み下して、ゆっくりと息を吐いた。
なんとか過呼吸にはならずに済んだものの、今度は胸がムカムカして嘔吐しそうになる。
「大丈夫、僕はエルフィーの味方だよ。フェリクスとのこと、父様母様に僕からも口添えするから安心して」
ベッドから立ち上がれない俺に、ニコラが優しく声をかけてくれる。
俺がヒート誘発剤でヒートを起こしたと確実に気づいているはずなのに、外したスカーフを丁寧に巻き直して、そう言ってくれる。
相手がフェリクスだと信じているからだ。
――絶対に、相手がクラウスだったと知られてはいけない。
自分自身にそう命じながら、俺はニコラに連れられて朝食室に移動した。
「エルフィーもニコラもいよいよ社会人か。大人になったな」
「本当ねぇ。母様も感無量だわ。魔力が強いエルフィーと、勤勉なニコラのふたりが協力してくれるから、ラボも安泰ね」
俺は食事に手をつけられる状態ではなかったものの、父様と母様は久しぶりの息子たちとの朝食を喜んでいる。俺とニコラはセルドランラボラトリーで仕事をするから、それについても嬉しそうだ。
今日は休日だから、父様も母様もゆったりと過ごしている。食後は家族四人で茶話室に移り、それぞれに好きなお茶が用意されたテーブルに着いた。
俺にはまったくもって楽しむ余裕なんてないのだけれど。
「そうそう。大人になったといえばあなたたち! そろそろ素敵な伴侶を探す時期ね!」
皆がお茶に口をつけたあと、母様が見計らったように言い出した。
通常この国では、学校卒業後の十八歳から仕事に慣れ始めた二十一歳くらいまでの間に伴侶を探す。オメガ同士の父様と母様が結婚したのも二十歳のときだ。だから俺は、フェリクスもすぐに伴侶を決めてしまうと思って、焦っていたんだ。それがこんなことになるなんて。
「エルフィー」
今朝までのさまざまな場面が頭の中で散らかり、なにひとつ収拾がつかずにただただ狼狽していると、ニコラが目配せをして小声で呼びかけてくる。父様と母様に報告をするチャンスだよ、と知らせているんだ。
無理、無理、無理、無理。言えることなんてひとつもない。
「どうした、エルフィー。そんなに汗をかいて……泣いているのか?」
「朝食にもほとんど手をつけていなかったわよね。体調が優れないの?」
ふるふると首を振る俺に気づき、父様と母様が心配そうに声をかけてくれる。
その直後のことだった。リンゴーン、リンゴーン、リンゴーン! と、来客を報じる門扉の呼び鈴が連続して鳴った。
ずいぶんとけたたましいと思ったものの、とりあえず話が中断して救われた俺は、再び過呼吸になりそうだった呼吸を治癒魔法で整える。
けれど、その呼吸はすぐに乱された。
「失礼いたします! モンテカルスト公爵家のクラウス様が、旦那様にお目通りしたいとお見えです!」
執事さんが、お辞儀もそこそこに慌てた様子で茶話室に入ってきた。
「ぇえ⁉」
「クラウス殿が? 約束はしていないが、どうしたのだろう」
裏返ったような俺の声と、父様の声が重なる。
クラウスだって? アカデミーに入る前くらいから一度も家を訪れなかったのに現れて、それも父様に話だって?
これは、俺のヒートに巻き込まれたと、父様に賠償を求めにきたのでは。
「なんだ、おかしな声を出して。どうした、エルフィー」
父様が戸惑って俺を見る。
「クラウスがきてるの⁉」
ニコラは頬を染めて椅子から立ち上がった。
「エルフィー、やっぱりどこか調子が悪いんじゃないの?」
母様は心配そうに小首を傾げる。
「あ、あの、あの……」
俺は壊れたおしゃべり人形みたいに「あの」を何度も繰り返す。
そんな俺たちを視界に捉えつつも、執事さんはさらにそわそわした様子で父様に伝えた。
「約束もなく早朝から申しわけないが、たいへん重要なお話があるとのことで……その、装いも正装でおいでで……どちらにお通ししたらよいのでしょう」
執事さんの言葉を受けた父様は「重要な話に、正装で?」と独り言のようにつぶやくと、合点がいったかのように頷く。
「事業のことで、お忙しい公爵閣下の代わりにいらしたのかもしれないな。ラボの業績がいいから、先々代の際に取り決めた出資者ヘの歩合金の引き上げ要求か、それとも新たな出資の持ちかけか……わかった。私の書斎へお通ししてくれ」
「は、はい。ただそういった正装とはわけが違うのですが」
「違う? ともかくお通ししろ」
首を軽く傾げた父様は、俺たちにはここにいるよう言い残すと茶話室から出て行った。
母様もニコラも心配そうではあるものの、三人の中では俺の心拍数がもっとも高いだろう。ヒートのときよりもバクバクしている。このまま心臓が止まりそうだ。いや、いっそ止まってしまえばいい。
けれど心臓がそう簡単に止まるわけもなく、刻々と時間が過ぎていく。
「遅いわね、お父様」
ニコラと母様が二度お茶をおかわりしても父様は戻らず、母様がため息を吐くように言った。なにか公爵家に失礼なことをしたのかしら、と独り言をつぶやいている。
俺は寝不足と、昨夜から続く感情の大波に揺さぶられ、船酔いをしたような眩暈に陥っていた。もう治癒魔法を使う気力もない。
「俺、レストルームに行ってくる……」
一度顔を洗ってこよう。少しでも落ち着きたい。それと父様の書斎の前を通って、様子を窺いたい。
「僕も行くよ!」
するとニコラも椅子から立ち上がった。瞳を輝かせている。
「ねえ、母様。父様とクラウスのお話が終わったら、ここでのお茶にお誘いしてもいい? 僕、クラウスに話したいことがあるんだ」
「いいわね。私もクラウス様にお会いするのはとても久しぶりだし、クラウス様はじきに騎士団の遠征に出発されるのでしょう? 少しでもお顔を拝見できたら嬉しいわ」
ニコラの案に気が紛れたようで、母様に笑顔が戻った。俺の顔だけが蒼白虚無だ。
「そうだよね。じゃあ、書斎の前で待ってようかな。クラウスは真面目だから、用件が済んだらすぐに帰ってしまいそうだもの。エルフィー、行こう!」
返事もできなかった。ニコラはクラウスと会える嬉しさでいっぱいで、俺が白目がちになっていることに気がつかない。体が向かい合った体勢で腕を絡めてきて、後ろ向きのままになっている俺をずるずると引きずっていく。
「あ、ちょうどよかった。ドアが開くよ!」
「えっ」
とうとう俺の断罪が始まるのか。少しだけ待ってくれ、それなら先に、せめて俺からニコラに謝らせてくれ。他人の口から知らせたくない。
「出てきた! クラウ……え……?」
ニコラの動きがぴたりと止まった。
どうしたんだろう。怒りのあまりに剣を振りかざしたクラウスが、俺を斬りに向かっているとでもいうのか。
覚悟を決めて、茶話室がある方向を向いていた体をゆっくりと書斎側へ向ける。
「……えっ⁉」
驚愕で動けなくなった。
クラウスは剣を持っていない。いないけれど、手には結婚の申し込みを意味する白薔薇のラウンドブーケを持ち、正装は正装でも、騎士が慶事のときだけに着る純白の軍服を身に纏って向かってきている。
な、なんだ? プロポーズ? 俺を断罪でも、父様に賠償を求めにきたのでもなく、ニコラにプロポーズを?
クラウスは目覚めたときの状況から俺と行為に至ったことはわかっていても、つがいになったことまではわかっていない? それで、行為を過ちだと認めたうえで父様に話を付けて、ニコラにプロポーズにきた?
……やった! ひとまずの危機は脱した! あとは俺がつがい解消薬の錬成に集中するだけだ。
すっと眩暈が去り、世界が色づく。外から差し込む陽の光の温かさが存在していたことに気づいた。
そうか、今日は晴天だったのか。ニコラとクラウスの門出にふさわしい日だ。
おめでとう、ニコラとクラウス。
俺はふたりの幸せな瞬間の目撃者となるべく、ニコラの少し後ろに移動した。
いつもとさして変わらないといえば変わらない、神妙な表情のクラウスがもうそこまできている。
よかった。よかったなぁ、ニコラ。
半身のニコラがとうとう巣立つ寂しさからか、少し切ないような気持ちも相まって、涙まで出てきた。瞼を開けていられない。
「結婚しよう!」
きた! クラウスらしいストレートな言葉だ。とても素敵だと心から思う。
……だけど、なんだか声と気配が近いような……
不思議に思い、涙で潤んだ目をぱしぱしと瞬きしながら開ける。
「………………へっ?」
なぜだろう。クラウスは俺の真ん前にいた。
俺を真正面から、じっと見つめている。
目の端にニコラの腕が映るものの、クラウスの体が大きいから顔までは見えなくて。
なによりもこの現状を把握できないから、俺もクラウスを凝視することしかできなくて。
……えっ? えっ?
「エルフィー・セルドラン、結婚しよう」
クラウスが跪き、騎士服と同じ、真っ白なブーケを俺に差し出す。
えっ? えっ?
「君のうなじを咬み、つがいとなった一切の責任は俺が取る。結婚、しよう」
黄金色の目が、俺を射貫いた────
第二章 堅物幼馴染みがキャラ変して溺愛してくる
夢を、見ていた。
***
ギィン、キンッ、と剣と剣が激しくぶつかる金属音が響く。
銀色に輝く長くしなやかな両刃は重さがあり、鋒は鋭い。
生半可な気持ちで扱うことを許されない殺傷力のある真剣は、クラウスが属する国防騎士科の生徒が、賜剣の儀を経て国防長官からじきじきに授与されるものだ。
アカデミーで救護長の俺は役員たちと同じ天幕に入っていて、フェリクスと隣同士、最前列の席で国防騎士科の剣闘試合を見ていた。
年に一度開催される、アカデミーでも人気の行事だ。
「いいぞ、クラウス、そこだ!」
役員代表であるフェリクスは公平を期さないとならない立場なのに、つい親友のクラウスを推してしまうようだ。俺はフェリクスの、こういう友達思いの一面も好きだ。
俺の瞳は白熱試合が繰り広げられている闘技陣ではなく、麗しい彼の横顔ばかりを映している。
「おっと、エルフィーに聞かれちゃったね。俺がクラウスばかりを応援しているのは、内緒にしててね」
フェリクスは自身の唇の前で立てた人差し指を、俺の唇に触れない距離まですいっと近づけた。そんなロマンス小説のワンシーンみたいな仕草が自然とできてしまう彼に、俺は簡単にのぼせあがってしまう。
火照った頬に両手で触れる。と、ほぼ同時。ガシャンと剣が地面に落ちた音がした。フェリクスと共に闘技陣に視線を戻す。
剣を落としたのはクラウスで、右の手をこぶしにして、ギュッと握っていた。
「珍しいな、クラウスが剣を落とすなんて。おや? エルフィー、クラウスは少々怪我を負っているようだ。見てあげて」
「うん!」
決勝戦はクラウスの二勝一敗で休憩時間に入り、俺はクラウスに駆け寄った。
怪我といっても相手の攻撃による怪我ではなく、右手のまめが潰れて出血したようだ。
「おぉ、練習をすごく頑張ってるんだな。こういうのはいつ潰れるかわかんないから、次からは皮膚が薄くなりかけたら先に言うといいぞ」
クラウスの手を取り、魔法を送る。物語に出てくる魔法使いのような完全無欠の魔力ではないから、大病や大怪我の治癒はできない。けれど、日常の風邪や怪我程度ならすぐに治せる。
小鳥が隣の木へ移り飛ぶ程度の時間で、血が出ているまめも、潰れる前のまめもすっかり消えた。
もう大丈夫だ、とクラウスに言おうとすると、フェリクスが俺の肩越しに声をかけてくる。
「うん、さすがエルフィーの治癒魔法は効きが早い。素晴らしいね」
「えへへ。それほどでも」
「謙遜しないで。この手は奇跡の手だね」
嬉しい……! フェリクスが俺の手を両手で包んで微笑んでくれる。最高学年となり救護長に就いてから、こうやって讃えてくれることが増えた。だから俺は俄然張り切ってしまうんだ。
もちろん人の役に立ちたいというのが大前提だけれど、そのうえでフェリクスが目を留めてくれるのがとても嬉しい。もっともっと頑張らなくちゃ。
「クラウス、他に怪我は……あ」
改めて気合いを入れつつ振り向くと、クラウスはすでに俺とフェリクスに背を向け、休憩用の天幕に入って行くところだった。
愛想ないなぁ。お礼くらい言えないのか? 昔はさぁ……追いかけっこで転びかけた俺を助けて体を打って、俺が泣きながらまだ魔法が使えない手でさするとありがとうって。
エルフィーの手は神様の手みたいだって、大事そうに手を繋いでくれたじゃないか。
――幼いときからクラウスの手は俺より大きくて、そして温かかったな……
***
「エルフィー」
深みのある声が俺に呼びかけている。
俺の片方の手を大事そうに握っているのは、この声の主なのか。
大きくて温かい手だ。ごつごつとして厚みもあって、これぞ男の手、という感じ。
この手、誰の手だっけ……
知らず知らずのうちに閉じていたらしい瞼を開く。
するとなぜかクラウスが傍らにいて、俺の手をしっかりと握り、心配そうに顔を覗き込んでいた。
「……クラウス?」
いや、大人のクラウスがこんなことを俺にするわけがない。これは今見ていた夢の続き……?
そう思って目を眇めると、クラウスは心底安堵したように表情を緩めた。
「よかった。君は廊下で倒れてしまったんだ。呼びかけても応えてくれず、半日気を失ったままだった。気分はどうだ?」
倒れた? じゃあここは俺の部屋のベッドの上か? だけど倒れたって、なにがあったんだっけ。
「……あっ!」
意識が戻ったばかりの正常に働かない頭を動かすと、クラウスの後ろに怒りのオーラを纏っている人物が見えた。
「ニコラ……!」
その姿にすべてを思い出して、咄嗟にクラウスの手を払う。けれどもう遅かった。
俺が気を失ったのちクラウスは、父様に申し出たのと同じように「エルフィーと結婚させてください」と、母様とニコラにも頭を下げたそうだ。
「エルフィー。聞いたよ? クラウスとつがいになったんだってね。どういうことなのか、エルフィーの口からも聞かせてほしいな」
さあぁぁと血の気が引いた。泣き叫んでいないのに、それ以上の憤怒のオーラをニコラから感じる。まるで、歌劇で見た氷の王のよう。十八年間双子をやってきて、こんなニコラを見るのは初めてだった。
「エルフィー、どうした。顔が真っ青だ。体も震えている」
クラウスの片手が再び頬を包んでくる。俺は半分パニックになりながらベッドから飛び起き、それを振り払った。
「は、離せ! 俺に触るな! 俺は父様のところへ行く! クラウスと結婚なんてするつもりはない。つがいも解消する。絶対に解消する!」
静かな怒りのニコラとは対照的に、俺は喚いた。
普段は楽天的で呑気な俺が、こんなことになるのも初めてだ。感情が制御できない。
「エルフィー」
鎮めようとしているのか、クラウスが抱きしめてくる。暴れる俺を包むように、腕の中に閉じ込めた。
――嫌だ、触るなって言っただろ。離せ!
俺はその言葉を投げつけたいのに、声が出ない。
嫌なはずなのに、クラウスの体温と鼓動、そしてコーヒーみたいなこの香り……香ってくるフェロモンが一番よくない。これを嗅ぐと途端に反抗する気力を削がれ、身を委ねてしまう。
「つがいを解く術はない」
この声もだ。深く穏やかな声は俺の思考力を奪う。今すぐ突き飛ばしたいのに、できない。
「エルフィー、俺はこの生涯の契約に誠心誠意を尽くし、責任を持つと誓った。すでにお父上、お母上の承諾もいただいている。俺は絶対に君と結婚する」
「や、嫌……」
抱きしめられているからか、声が耳の中で響く。その中でも「絶対に」がもっとも大きく鼓膜に響いた。脊髄までびりりと響いて、足の力が抜けてしまう。
クラウスは脱力した俺を軽々と横抱きにかかえ、壊れ物のようにベッドに横たえた。
「ぅ……クラウス。あれは事故だ。俺が突発的なヒートを起こして、事故でつがってしまったんだ。だから責任を感じなくていい。急いでつがい解消薬を成功させるから、はやまるな」
クラウスの体が離れたことで体に力が戻ってくる。
自分の胸に手を当て、かすれる声を魔法で治しながら伝えた。
俺たちは事故つがいだ。互いに好きな人がいて、本来つがうのはその人、クラウスならニコラなのだと、心でも訴えながら。
それなのに、クラウスは怖いくらいに真剣な面持ちで言い切った。
「いいや。誓いを覆すのは騎士道に反する。つがいの解消も婚約の破棄も、天地が裂けてもあり得ない」
そんなクラウスの後ろでは、ニコラが見たことのない形相で腕組みをしている。
俺はもう、神様でも友人でも猫でも、なんでもいいからすがりたくて、枕の端をギュッと握った。
――ああ、頼むから、誰か昨夜の俺に言ってやってくれないか。
大変なことになってしまうから、ヒート誘発剤をお守りにするなんて、絶対にやめておくんだって。
翌日の午後。
モンテカルスト公爵家の紋章がついた豪奢な馬車が二台迎えにきて、それぞれに俺とクラウス、父様母様とニコラを乗せて、公爵家へと向かった。
じきに騎士団の新人遠征に合流するクラウスには時間がないからと、昨日の今日でもう婚約の儀の場を設定されてしまったのだ。
俺は了承しない、との言い分は即却下だった。縁談は当人同士だけではなく、家同士の関わりだ。我が家は事業に成功している家とはいってもしょせんは平民。公爵家から断られることはあっても、公爵家からの申し入れを断るなんて不敬に当たる。
ただ、断れないという表現は今回の場合には適さない。父様も母様も「オメガ一族のセルドラン家が、純血のアルファ一族の公爵家とご縁を持てるなんて! それもお付き合いの深いモンテカルスト家!」と大喜びで今日の顔合わせに挑んでいるからだ。
俺はほとんど放心状態で、向かいに座るクラウスに問いかけた。
「なあ、クラウス。閣下と夫人は、本当に了承したのか? おまえがひとりで突っ走っているだけなんじゃないのか?」
「何度同じことを問う? こうして迎えにきているのが答えだ。どうか安心してほしい」
にっこり、とはいかないまでも、柔らかな表情を俺に向けてくる。子どものとき以来俺を避け、会えば難しい顔を向けてきた男と同じ人物とは思えない。
これは、つがい契約が結ばれたために遺伝子を操作されて人格まで変わったんだ、と俺は推察している。なぜなら俺もなんとなくクラウスといると落ちつくというか、そばにいるとしっくりくるというか……
ハッとして首を振った。
しっかりしろ、エルフィー。落ち着くな、しっくりくるな。
俺とクラウスは「事故つがい」。
本能のまま体だけで繋がった関係で、そこに心はない。契約による遺伝子の操作に惑わされるな!
怒り狂っていたニコラだって、最終的にはそれを納得材料にしてくれた。
「エルフィー、心までは僕を裏切っていないんだよね? エルフィーはヒートトラップを起こすほどフェリクスを思っていて、クラウスのことは微塵も愛していない。だからつがい解消に向けてつがい解消薬の錬成を成功させ、婚約破棄に向けてクラウスに嫌われるよう努力する。これに間違いはないんだよね⁉」
自発的にヒートを起こしたわけじゃないけれど、立て続けに発せられるニコラの言葉を、途中で遮って釈明するのは難しかった。
また、誤作用でも結果的にヒート誘発剤で突発的なヒートを起こしたことに変わりはない。どう釈明しても起こった事実に変わりはなく、ニコラを裏切った俺には頷くことしかできなかった。
俺は昨夜のニコラとのやり取りを思い返しながら、腕に触れる。
ニコラにひと晩中掴まれ、揺さぶられていたそこが痛い。着替えるときに見てみると、青痣がニコラの手の形にできていた。
もちろん魔法で痛みと痣を消すことはできるけれど、俺はこの痛みを持っているべきだ。
ニコラの痛みは、どんな魔法を使おうと消えないのだから──
直感的・楽観的でそのときどきの状況に合わせて目標達成への手段を変える俺とは違い、ニコラは体裁に重きを置き、粛々と目標を達成していく性格だ。
父様と母様の前では子どものときのように癇癪を起こす姿を見せず、セルドラン家とセルドランラボラトリーの名誉のために、また、父様や母様に気苦労をかけないために、俺がヒート誘発剤でヒートを起こしたことは決して口にしなかった。
だからこそその抑圧は、俺の部屋に戻ってから炎のように俺に向かってきたのだけれど。
「俺がクラウスを愛することはない。つがいも婚約も必ず解消する」
クッションを投げつけられるたび、俺は同じ言葉を何度も重ねた。
「こっちから縁談を断るのは不可能なんだから、クラウスから解消したいと思わせるんだからね? モンテカルスト家からも、エルフィーじゃ駄目って思ってもらうんだ!」
「わかってる」
「だからって不躾な振る舞いはしないで! セルドランの家名に泥を塗るのは許さない。この婚約が解消できても、セルドラン家とは今後事業の縁も僕との縁も二度と結べないなんて言われないように!」
「それもわかってる。家にもニコラにも不利益なことがないよう、気をつける」
両手と両膝を床につけたまま顔を上げると、ニコラは奥歯を噛み締め、瞼を痙攣させながら俺を睨みつけていた。その容貌は普段の天使の笑みからは想像できるものではなかった。
俺が、ニコラにこんな顔をさせてしまったんだ。
「……っごめん、ニコラ。謝っても謝り――」
「謝っても事態は改善しないよ! エルフィーにできるのはつがい解消薬を一刻も早く作ることだ!」
そうして、両腕を掴まれたのだ。
「絶対に、僕の大好きなクラウスを奪わないで」
朝まで一睡もせず、まるで呪文をつぶやくようにそう言い続けながら。
「エルフィー、まだ顔色が悪いな」
「えっ、わ、なに」
向かいの座席に座っていたクラウスが急に立ち上がり、俺の隣に腰掛ける。
がっしりとした長躯が俺にぴたりとくっついた。
たくましい腕が肩に回され、俺はクラウスに寄りかかる姿勢になる。
「お、おいクラウス」
「こうしていれば休めるだろう。エルフィーの体にはずいぶんと負担をかけたから心配なんだ。着くまで俺に体を任せてくれ」
「や、いい、いいって……」
ああ、まずい。フェロモンを思わせるクラウスの香りを吸ってしまった。
密着したところから伝わる温かい体温を感じてしまった。
頭がぼんやりしてくる。睡眠が足りていないせいか、瞼が重くなってくる。
「少しの時間でも君の眠りが安らかでありますように」
穏やかな優しい声が遠くなっていく。
俺は、暖かくて柔らかくていい匂いのデュベに、すっぽりとくるまれている夢を見た────
それからどれくらいの時間が過ぎたのかは定かではないけれど、突如耳に飛び込んできた甲高い声に、夢は破られた。
「あらあらあら、クラウスったら、そんな情熱的なことができたのね! ママン感激よ!」
「まあ! エルフィーったらすっかりクラウス様に骨抜きで! 仲睦まじいふたりを見るとこちらも幸せな気分になれますわね、公爵夫人」
いつの間にか伏せていた瞼をしっかりと開けて面前を見れば、モンテカルスト公爵夫人と母様がにこやかに会話をしていて、その横では父様が苦笑いを、さらにその横ではニコラが目を吊り上げていた。
なぜかというと、俺がクラウスに横抱きにされて馬車から降りていたからだ。
「わ。わわ。下ろせ、クラウス」
「危ないぞ、エルフィー」
慌てて腕から下りようとした俺を、クラウスはしっかりと抱き止め、さらに盤石な横抱きにした。
「母上、エルフィーは、その……つがいになった際の疲労がいまだ残っているのでしょう。昨夜も気絶したのに、俺が待っていられずに予定を詰めたので心配です。このままで父上のところへ向かってもよろしいでしょうか」
「つ、つがいになったときのって、なに言ってんの? ちょ、クラウス、駄目だって! 下ろせよ!」
足をばたつかせるも、クラウスの鍛えられた体幹はびくともしない。
「体、洗って、中、掻き出して、クラウスのフェロモンの匂い、全部消さなくちゃ」
独り言を言いながら、部屋に備え付けのシャワー室で体を洗い流す。
「っつ……痛っ!」
勢いを持って降り注ぐ湯がうなじに当たって、鋭く染みる痛みに襲われた。
嘘でしょ? どうしてここがズキズキ痛むの?
手が小刻みに震える。触りたくない。怖い、怖い、怖い、怖い。だけど……
「嘘、うなじ……うなじが……!」
指先で触れただけでわかる。俺のうなじには、つがいの刻印がしっかりと刻まれていた。
もう叫ぶどころではなかった。俺はシャワー室の床に崩れ落ちて、茫然自失となってしまう。
それからどれくらいシャワーに当たっていたかはわからない。ふと我にかえり、ともかく体を綺麗に洗った。不思議だった。我にかえってしまうと、体に活力が満ちているのを感じた。初めての行為のあとなのに、気怠さが少しもない。
これがつがいを得たということなのだろうか。だとしたらアルファであるクラウスも今、なにかしら体の変化を感じているのだろうか。
けれど願わくは、ヒートに陥った俺に過ちの記憶がないように、ラットになったクラウスの記憶もなくなっていればいい。過ちも、つがいになった記憶も、すべて憶えていませんように。
これから俺は、もう誰ともつがうことも結婚することもできないけれど、クラウスはアルファだからニコラとつがいになれる。ニコラにはクラウスと幸せになってもらいたいんだ。クラウスが思い出さなければ、すべて丸く収まる。
自分が招いたことだもの。俺はこれから先、抑制剤を使って耐えていく。今より強力な抑制剤を作って……いや、つがい解消薬を成功できれば、俺もやり直しができるはずだ。
頭の中で今後の不安を打ち消しながら、うなじの生傷と首や下半身に散らばったうっ血痕に治癒魔法をかける。つがいの刻印は怪我でも病気でもなく契約だから咬み痕自体は消えない。
時間をかけ、咬まれた直後の傷の生々しさとうっ血痕だけは消した。
「うなじの刻印はこれで隠していこう」
本当は日付が変わる前に寄宿舎を出ていないといけなかったから、荷物をまとめてある。そこから大判のスカーフを出して首にしっかりと巻きつけ、部屋を出る。
忍び足で敷地から出て、夜明けが近い仄暗い道を早足で歩いた。
アカデミーから俺の家まではさほど距離はない。
「おや、エルフィーぼっちゃん、今お帰りですか?」
「お帰りなさいませ、ご卒業おめでとうございます。お荷物をお運びしましょう」
家の門扉に着くと、いつでも早起きで仕事熱心な執事さんとメイド長さんに出くわして、声をかけられてしまった。
俺はろくに挨拶もせず、逃げるように家に飛び込む。そのまま一心不乱に廊下を進み、父様と母様の寝室、ニコラの寝室の前を通り過ぎて自室に入った。
ふぅ、家族に見つからなくてよか……
「ニ、ニコラ?」
安堵のため息をついたところで、ベッドにニコラが寝ているのが目に入った。
動揺して、荷物を入れた大きなバッグをどすん、と落としてしまう。
「ん~」
音で目が覚めてしまったようで、ニコラがベッドで伸びをした。
「よく寝たぁ……あれ? エルフィー!」
見えない矢で心臓を射られたようだった。体中の血が急激に心臓に移動するのに、その器である体は硬直して指一本動かせない。
代わりにニコラが満面の笑みでベッドから下りて近づいてくる。
「おかえり、朝帰りだね。ってことは、フェリクスとうまくいったんだね?」
喉も舌も硬直して返事ができない。冷たい汗だけが背中を伝う。
「……どうしたの? 珍しく顔色が悪いね。今頃緊張が出てきた? ひとまずベッドにおいでよ」
「あ、や……」
「わ、冷たい手。温めないと」
ニコラは俺の肩を抱き、もう一方の手で手をさすりながらベッドに連れて行ってくれる。
「どうしたの? もしかして、断られた、とか……? ううん、だけどエルフィーのものじゃない香りがするもの」
俺をベッドに座らせると、ニコラはくんくんと俺の体の匂いを嗅いできた。
「これって、フェリクスのフェロモン? エルフィー、フェリクスと経験したんだね?」
「えっ、まだフェロモンが匂ってるのか⁉」
あんなに洗い流したのにと驚いて、思わず口にしてしまう。
馬鹿っ、黙れ俺!
慌てて口を閉じるけれど、出てしまった言葉は消えず、ニコラがパッと笑顔になる。
「やっぱり! そっか、それでそんなに疲れてるんだね。アルファの交接は執拗で大変だと聞くもの。でも、でもおめでとう、エルフィー。これでもう、つがいになったも同然だね。僕でも感じるもの。エルフィーを絶対に離さない、一生愛し抜くって、フェロモンが主張するみたいに絡みついてる!」
俺はブルブルと首を振る。
そんなことがあるわけない。これはクラウスのフェロモンだ。クラウスは事故って俺としただけだ。クラウスが好きなのはニコラ、おまえなんだから!
「ちが、違うんだ、ニコラ、俺……」
けれど、それ以上は言えなかった。
クラウスと事故つがいになってしまったなんて、どれだけニコラを傷つけるか。
「どうして泣くの? フェリクスの交接が乱暴だったとか? 顔に似合わず加虐趣味があるとか? とにかく話を聞くから、まずは楽な服装になって寛ぎなよ」
ニコラの手が俺の首のスカーフに触れる。
「あっ、だ、駄目、ニコラ、取らないで!」
制止は間に合わなかった。ニコラはするりとスカーフを取り去り、次の瞬間、目を見開いた。
「つがいの……刻印?」
見られた! ニコラにうなじを見られた!
「どういうこと? 僕たち、発情期は来月だよね? この時期じゃ、咬まれたとしても契約には至らない……でもしっかりと契約が成立した刻印がついてる」
ニコラはベッドに上がり込み、背中から俺の肩を掴んでうなじに顔を寄せた。
体中から汗が吹き出す。息がうまくできなくなって、目の前がぐわんぐわんと回り出す。
どうしよう、どうしよう。つがい解消薬を作り上げるまでの間、隠し通すべきだったのに。
過呼吸になりかけて、息を吐き出そうと喉元に触れた、そのときだった。
「ぼっちゃん、朝食の準備が整いました」
ドアがノックされ、メイド長さんの声がした。
「……エルフィー。ひとまず朝食室に行こう。父様と母様は僕以上に驚くだろうから、朝食のあとにゆっくりと聞かせて?」
ニコラがベッドから降りる。俺はゴクンと唾を呑み下して、ゆっくりと息を吐いた。
なんとか過呼吸にはならずに済んだものの、今度は胸がムカムカして嘔吐しそうになる。
「大丈夫、僕はエルフィーの味方だよ。フェリクスとのこと、父様母様に僕からも口添えするから安心して」
ベッドから立ち上がれない俺に、ニコラが優しく声をかけてくれる。
俺がヒート誘発剤でヒートを起こしたと確実に気づいているはずなのに、外したスカーフを丁寧に巻き直して、そう言ってくれる。
相手がフェリクスだと信じているからだ。
――絶対に、相手がクラウスだったと知られてはいけない。
自分自身にそう命じながら、俺はニコラに連れられて朝食室に移動した。
「エルフィーもニコラもいよいよ社会人か。大人になったな」
「本当ねぇ。母様も感無量だわ。魔力が強いエルフィーと、勤勉なニコラのふたりが協力してくれるから、ラボも安泰ね」
俺は食事に手をつけられる状態ではなかったものの、父様と母様は久しぶりの息子たちとの朝食を喜んでいる。俺とニコラはセルドランラボラトリーで仕事をするから、それについても嬉しそうだ。
今日は休日だから、父様も母様もゆったりと過ごしている。食後は家族四人で茶話室に移り、それぞれに好きなお茶が用意されたテーブルに着いた。
俺にはまったくもって楽しむ余裕なんてないのだけれど。
「そうそう。大人になったといえばあなたたち! そろそろ素敵な伴侶を探す時期ね!」
皆がお茶に口をつけたあと、母様が見計らったように言い出した。
通常この国では、学校卒業後の十八歳から仕事に慣れ始めた二十一歳くらいまでの間に伴侶を探す。オメガ同士の父様と母様が結婚したのも二十歳のときだ。だから俺は、フェリクスもすぐに伴侶を決めてしまうと思って、焦っていたんだ。それがこんなことになるなんて。
「エルフィー」
今朝までのさまざまな場面が頭の中で散らかり、なにひとつ収拾がつかずにただただ狼狽していると、ニコラが目配せをして小声で呼びかけてくる。父様と母様に報告をするチャンスだよ、と知らせているんだ。
無理、無理、無理、無理。言えることなんてひとつもない。
「どうした、エルフィー。そんなに汗をかいて……泣いているのか?」
「朝食にもほとんど手をつけていなかったわよね。体調が優れないの?」
ふるふると首を振る俺に気づき、父様と母様が心配そうに声をかけてくれる。
その直後のことだった。リンゴーン、リンゴーン、リンゴーン! と、来客を報じる門扉の呼び鈴が連続して鳴った。
ずいぶんとけたたましいと思ったものの、とりあえず話が中断して救われた俺は、再び過呼吸になりそうだった呼吸を治癒魔法で整える。
けれど、その呼吸はすぐに乱された。
「失礼いたします! モンテカルスト公爵家のクラウス様が、旦那様にお目通りしたいとお見えです!」
執事さんが、お辞儀もそこそこに慌てた様子で茶話室に入ってきた。
「ぇえ⁉」
「クラウス殿が? 約束はしていないが、どうしたのだろう」
裏返ったような俺の声と、父様の声が重なる。
クラウスだって? アカデミーに入る前くらいから一度も家を訪れなかったのに現れて、それも父様に話だって?
これは、俺のヒートに巻き込まれたと、父様に賠償を求めにきたのでは。
「なんだ、おかしな声を出して。どうした、エルフィー」
父様が戸惑って俺を見る。
「クラウスがきてるの⁉」
ニコラは頬を染めて椅子から立ち上がった。
「エルフィー、やっぱりどこか調子が悪いんじゃないの?」
母様は心配そうに小首を傾げる。
「あ、あの、あの……」
俺は壊れたおしゃべり人形みたいに「あの」を何度も繰り返す。
そんな俺たちを視界に捉えつつも、執事さんはさらにそわそわした様子で父様に伝えた。
「約束もなく早朝から申しわけないが、たいへん重要なお話があるとのことで……その、装いも正装でおいでで……どちらにお通ししたらよいのでしょう」
執事さんの言葉を受けた父様は「重要な話に、正装で?」と独り言のようにつぶやくと、合点がいったかのように頷く。
「事業のことで、お忙しい公爵閣下の代わりにいらしたのかもしれないな。ラボの業績がいいから、先々代の際に取り決めた出資者ヘの歩合金の引き上げ要求か、それとも新たな出資の持ちかけか……わかった。私の書斎へお通ししてくれ」
「は、はい。ただそういった正装とはわけが違うのですが」
「違う? ともかくお通ししろ」
首を軽く傾げた父様は、俺たちにはここにいるよう言い残すと茶話室から出て行った。
母様もニコラも心配そうではあるものの、三人の中では俺の心拍数がもっとも高いだろう。ヒートのときよりもバクバクしている。このまま心臓が止まりそうだ。いや、いっそ止まってしまえばいい。
けれど心臓がそう簡単に止まるわけもなく、刻々と時間が過ぎていく。
「遅いわね、お父様」
ニコラと母様が二度お茶をおかわりしても父様は戻らず、母様がため息を吐くように言った。なにか公爵家に失礼なことをしたのかしら、と独り言をつぶやいている。
俺は寝不足と、昨夜から続く感情の大波に揺さぶられ、船酔いをしたような眩暈に陥っていた。もう治癒魔法を使う気力もない。
「俺、レストルームに行ってくる……」
一度顔を洗ってこよう。少しでも落ち着きたい。それと父様の書斎の前を通って、様子を窺いたい。
「僕も行くよ!」
するとニコラも椅子から立ち上がった。瞳を輝かせている。
「ねえ、母様。父様とクラウスのお話が終わったら、ここでのお茶にお誘いしてもいい? 僕、クラウスに話したいことがあるんだ」
「いいわね。私もクラウス様にお会いするのはとても久しぶりだし、クラウス様はじきに騎士団の遠征に出発されるのでしょう? 少しでもお顔を拝見できたら嬉しいわ」
ニコラの案に気が紛れたようで、母様に笑顔が戻った。俺の顔だけが蒼白虚無だ。
「そうだよね。じゃあ、書斎の前で待ってようかな。クラウスは真面目だから、用件が済んだらすぐに帰ってしまいそうだもの。エルフィー、行こう!」
返事もできなかった。ニコラはクラウスと会える嬉しさでいっぱいで、俺が白目がちになっていることに気がつかない。体が向かい合った体勢で腕を絡めてきて、後ろ向きのままになっている俺をずるずると引きずっていく。
「あ、ちょうどよかった。ドアが開くよ!」
「えっ」
とうとう俺の断罪が始まるのか。少しだけ待ってくれ、それなら先に、せめて俺からニコラに謝らせてくれ。他人の口から知らせたくない。
「出てきた! クラウ……え……?」
ニコラの動きがぴたりと止まった。
どうしたんだろう。怒りのあまりに剣を振りかざしたクラウスが、俺を斬りに向かっているとでもいうのか。
覚悟を決めて、茶話室がある方向を向いていた体をゆっくりと書斎側へ向ける。
「……えっ⁉」
驚愕で動けなくなった。
クラウスは剣を持っていない。いないけれど、手には結婚の申し込みを意味する白薔薇のラウンドブーケを持ち、正装は正装でも、騎士が慶事のときだけに着る純白の軍服を身に纏って向かってきている。
な、なんだ? プロポーズ? 俺を断罪でも、父様に賠償を求めにきたのでもなく、ニコラにプロポーズを?
クラウスは目覚めたときの状況から俺と行為に至ったことはわかっていても、つがいになったことまではわかっていない? それで、行為を過ちだと認めたうえで父様に話を付けて、ニコラにプロポーズにきた?
……やった! ひとまずの危機は脱した! あとは俺がつがい解消薬の錬成に集中するだけだ。
すっと眩暈が去り、世界が色づく。外から差し込む陽の光の温かさが存在していたことに気づいた。
そうか、今日は晴天だったのか。ニコラとクラウスの門出にふさわしい日だ。
おめでとう、ニコラとクラウス。
俺はふたりの幸せな瞬間の目撃者となるべく、ニコラの少し後ろに移動した。
いつもとさして変わらないといえば変わらない、神妙な表情のクラウスがもうそこまできている。
よかった。よかったなぁ、ニコラ。
半身のニコラがとうとう巣立つ寂しさからか、少し切ないような気持ちも相まって、涙まで出てきた。瞼を開けていられない。
「結婚しよう!」
きた! クラウスらしいストレートな言葉だ。とても素敵だと心から思う。
……だけど、なんだか声と気配が近いような……
不思議に思い、涙で潤んだ目をぱしぱしと瞬きしながら開ける。
「………………へっ?」
なぜだろう。クラウスは俺の真ん前にいた。
俺を真正面から、じっと見つめている。
目の端にニコラの腕が映るものの、クラウスの体が大きいから顔までは見えなくて。
なによりもこの現状を把握できないから、俺もクラウスを凝視することしかできなくて。
……えっ? えっ?
「エルフィー・セルドラン、結婚しよう」
クラウスが跪き、騎士服と同じ、真っ白なブーケを俺に差し出す。
えっ? えっ?
「君のうなじを咬み、つがいとなった一切の責任は俺が取る。結婚、しよう」
黄金色の目が、俺を射貫いた────
第二章 堅物幼馴染みがキャラ変して溺愛してくる
夢を、見ていた。
***
ギィン、キンッ、と剣と剣が激しくぶつかる金属音が響く。
銀色に輝く長くしなやかな両刃は重さがあり、鋒は鋭い。
生半可な気持ちで扱うことを許されない殺傷力のある真剣は、クラウスが属する国防騎士科の生徒が、賜剣の儀を経て国防長官からじきじきに授与されるものだ。
アカデミーで救護長の俺は役員たちと同じ天幕に入っていて、フェリクスと隣同士、最前列の席で国防騎士科の剣闘試合を見ていた。
年に一度開催される、アカデミーでも人気の行事だ。
「いいぞ、クラウス、そこだ!」
役員代表であるフェリクスは公平を期さないとならない立場なのに、つい親友のクラウスを推してしまうようだ。俺はフェリクスの、こういう友達思いの一面も好きだ。
俺の瞳は白熱試合が繰り広げられている闘技陣ではなく、麗しい彼の横顔ばかりを映している。
「おっと、エルフィーに聞かれちゃったね。俺がクラウスばかりを応援しているのは、内緒にしててね」
フェリクスは自身の唇の前で立てた人差し指を、俺の唇に触れない距離まですいっと近づけた。そんなロマンス小説のワンシーンみたいな仕草が自然とできてしまう彼に、俺は簡単にのぼせあがってしまう。
火照った頬に両手で触れる。と、ほぼ同時。ガシャンと剣が地面に落ちた音がした。フェリクスと共に闘技陣に視線を戻す。
剣を落としたのはクラウスで、右の手をこぶしにして、ギュッと握っていた。
「珍しいな、クラウスが剣を落とすなんて。おや? エルフィー、クラウスは少々怪我を負っているようだ。見てあげて」
「うん!」
決勝戦はクラウスの二勝一敗で休憩時間に入り、俺はクラウスに駆け寄った。
怪我といっても相手の攻撃による怪我ではなく、右手のまめが潰れて出血したようだ。
「おぉ、練習をすごく頑張ってるんだな。こういうのはいつ潰れるかわかんないから、次からは皮膚が薄くなりかけたら先に言うといいぞ」
クラウスの手を取り、魔法を送る。物語に出てくる魔法使いのような完全無欠の魔力ではないから、大病や大怪我の治癒はできない。けれど、日常の風邪や怪我程度ならすぐに治せる。
小鳥が隣の木へ移り飛ぶ程度の時間で、血が出ているまめも、潰れる前のまめもすっかり消えた。
もう大丈夫だ、とクラウスに言おうとすると、フェリクスが俺の肩越しに声をかけてくる。
「うん、さすがエルフィーの治癒魔法は効きが早い。素晴らしいね」
「えへへ。それほどでも」
「謙遜しないで。この手は奇跡の手だね」
嬉しい……! フェリクスが俺の手を両手で包んで微笑んでくれる。最高学年となり救護長に就いてから、こうやって讃えてくれることが増えた。だから俺は俄然張り切ってしまうんだ。
もちろん人の役に立ちたいというのが大前提だけれど、そのうえでフェリクスが目を留めてくれるのがとても嬉しい。もっともっと頑張らなくちゃ。
「クラウス、他に怪我は……あ」
改めて気合いを入れつつ振り向くと、クラウスはすでに俺とフェリクスに背を向け、休憩用の天幕に入って行くところだった。
愛想ないなぁ。お礼くらい言えないのか? 昔はさぁ……追いかけっこで転びかけた俺を助けて体を打って、俺が泣きながらまだ魔法が使えない手でさするとありがとうって。
エルフィーの手は神様の手みたいだって、大事そうに手を繋いでくれたじゃないか。
――幼いときからクラウスの手は俺より大きくて、そして温かかったな……
***
「エルフィー」
深みのある声が俺に呼びかけている。
俺の片方の手を大事そうに握っているのは、この声の主なのか。
大きくて温かい手だ。ごつごつとして厚みもあって、これぞ男の手、という感じ。
この手、誰の手だっけ……
知らず知らずのうちに閉じていたらしい瞼を開く。
するとなぜかクラウスが傍らにいて、俺の手をしっかりと握り、心配そうに顔を覗き込んでいた。
「……クラウス?」
いや、大人のクラウスがこんなことを俺にするわけがない。これは今見ていた夢の続き……?
そう思って目を眇めると、クラウスは心底安堵したように表情を緩めた。
「よかった。君は廊下で倒れてしまったんだ。呼びかけても応えてくれず、半日気を失ったままだった。気分はどうだ?」
倒れた? じゃあここは俺の部屋のベッドの上か? だけど倒れたって、なにがあったんだっけ。
「……あっ!」
意識が戻ったばかりの正常に働かない頭を動かすと、クラウスの後ろに怒りのオーラを纏っている人物が見えた。
「ニコラ……!」
その姿にすべてを思い出して、咄嗟にクラウスの手を払う。けれどもう遅かった。
俺が気を失ったのちクラウスは、父様に申し出たのと同じように「エルフィーと結婚させてください」と、母様とニコラにも頭を下げたそうだ。
「エルフィー。聞いたよ? クラウスとつがいになったんだってね。どういうことなのか、エルフィーの口からも聞かせてほしいな」
さあぁぁと血の気が引いた。泣き叫んでいないのに、それ以上の憤怒のオーラをニコラから感じる。まるで、歌劇で見た氷の王のよう。十八年間双子をやってきて、こんなニコラを見るのは初めてだった。
「エルフィー、どうした。顔が真っ青だ。体も震えている」
クラウスの片手が再び頬を包んでくる。俺は半分パニックになりながらベッドから飛び起き、それを振り払った。
「は、離せ! 俺に触るな! 俺は父様のところへ行く! クラウスと結婚なんてするつもりはない。つがいも解消する。絶対に解消する!」
静かな怒りのニコラとは対照的に、俺は喚いた。
普段は楽天的で呑気な俺が、こんなことになるのも初めてだ。感情が制御できない。
「エルフィー」
鎮めようとしているのか、クラウスが抱きしめてくる。暴れる俺を包むように、腕の中に閉じ込めた。
――嫌だ、触るなって言っただろ。離せ!
俺はその言葉を投げつけたいのに、声が出ない。
嫌なはずなのに、クラウスの体温と鼓動、そしてコーヒーみたいなこの香り……香ってくるフェロモンが一番よくない。これを嗅ぐと途端に反抗する気力を削がれ、身を委ねてしまう。
「つがいを解く術はない」
この声もだ。深く穏やかな声は俺の思考力を奪う。今すぐ突き飛ばしたいのに、できない。
「エルフィー、俺はこの生涯の契約に誠心誠意を尽くし、責任を持つと誓った。すでにお父上、お母上の承諾もいただいている。俺は絶対に君と結婚する」
「や、嫌……」
抱きしめられているからか、声が耳の中で響く。その中でも「絶対に」がもっとも大きく鼓膜に響いた。脊髄までびりりと響いて、足の力が抜けてしまう。
クラウスは脱力した俺を軽々と横抱きにかかえ、壊れ物のようにベッドに横たえた。
「ぅ……クラウス。あれは事故だ。俺が突発的なヒートを起こして、事故でつがってしまったんだ。だから責任を感じなくていい。急いでつがい解消薬を成功させるから、はやまるな」
クラウスの体が離れたことで体に力が戻ってくる。
自分の胸に手を当て、かすれる声を魔法で治しながら伝えた。
俺たちは事故つがいだ。互いに好きな人がいて、本来つがうのはその人、クラウスならニコラなのだと、心でも訴えながら。
それなのに、クラウスは怖いくらいに真剣な面持ちで言い切った。
「いいや。誓いを覆すのは騎士道に反する。つがいの解消も婚約の破棄も、天地が裂けてもあり得ない」
そんなクラウスの後ろでは、ニコラが見たことのない形相で腕組みをしている。
俺はもう、神様でも友人でも猫でも、なんでもいいからすがりたくて、枕の端をギュッと握った。
――ああ、頼むから、誰か昨夜の俺に言ってやってくれないか。
大変なことになってしまうから、ヒート誘発剤をお守りにするなんて、絶対にやめておくんだって。
翌日の午後。
モンテカルスト公爵家の紋章がついた豪奢な馬車が二台迎えにきて、それぞれに俺とクラウス、父様母様とニコラを乗せて、公爵家へと向かった。
じきに騎士団の新人遠征に合流するクラウスには時間がないからと、昨日の今日でもう婚約の儀の場を設定されてしまったのだ。
俺は了承しない、との言い分は即却下だった。縁談は当人同士だけではなく、家同士の関わりだ。我が家は事業に成功している家とはいってもしょせんは平民。公爵家から断られることはあっても、公爵家からの申し入れを断るなんて不敬に当たる。
ただ、断れないという表現は今回の場合には適さない。父様も母様も「オメガ一族のセルドラン家が、純血のアルファ一族の公爵家とご縁を持てるなんて! それもお付き合いの深いモンテカルスト家!」と大喜びで今日の顔合わせに挑んでいるからだ。
俺はほとんど放心状態で、向かいに座るクラウスに問いかけた。
「なあ、クラウス。閣下と夫人は、本当に了承したのか? おまえがひとりで突っ走っているだけなんじゃないのか?」
「何度同じことを問う? こうして迎えにきているのが答えだ。どうか安心してほしい」
にっこり、とはいかないまでも、柔らかな表情を俺に向けてくる。子どものとき以来俺を避け、会えば難しい顔を向けてきた男と同じ人物とは思えない。
これは、つがい契約が結ばれたために遺伝子を操作されて人格まで変わったんだ、と俺は推察している。なぜなら俺もなんとなくクラウスといると落ちつくというか、そばにいるとしっくりくるというか……
ハッとして首を振った。
しっかりしろ、エルフィー。落ち着くな、しっくりくるな。
俺とクラウスは「事故つがい」。
本能のまま体だけで繋がった関係で、そこに心はない。契約による遺伝子の操作に惑わされるな!
怒り狂っていたニコラだって、最終的にはそれを納得材料にしてくれた。
「エルフィー、心までは僕を裏切っていないんだよね? エルフィーはヒートトラップを起こすほどフェリクスを思っていて、クラウスのことは微塵も愛していない。だからつがい解消に向けてつがい解消薬の錬成を成功させ、婚約破棄に向けてクラウスに嫌われるよう努力する。これに間違いはないんだよね⁉」
自発的にヒートを起こしたわけじゃないけれど、立て続けに発せられるニコラの言葉を、途中で遮って釈明するのは難しかった。
また、誤作用でも結果的にヒート誘発剤で突発的なヒートを起こしたことに変わりはない。どう釈明しても起こった事実に変わりはなく、ニコラを裏切った俺には頷くことしかできなかった。
俺は昨夜のニコラとのやり取りを思い返しながら、腕に触れる。
ニコラにひと晩中掴まれ、揺さぶられていたそこが痛い。着替えるときに見てみると、青痣がニコラの手の形にできていた。
もちろん魔法で痛みと痣を消すことはできるけれど、俺はこの痛みを持っているべきだ。
ニコラの痛みは、どんな魔法を使おうと消えないのだから──
直感的・楽観的でそのときどきの状況に合わせて目標達成への手段を変える俺とは違い、ニコラは体裁に重きを置き、粛々と目標を達成していく性格だ。
父様と母様の前では子どものときのように癇癪を起こす姿を見せず、セルドラン家とセルドランラボラトリーの名誉のために、また、父様や母様に気苦労をかけないために、俺がヒート誘発剤でヒートを起こしたことは決して口にしなかった。
だからこそその抑圧は、俺の部屋に戻ってから炎のように俺に向かってきたのだけれど。
「俺がクラウスを愛することはない。つがいも婚約も必ず解消する」
クッションを投げつけられるたび、俺は同じ言葉を何度も重ねた。
「こっちから縁談を断るのは不可能なんだから、クラウスから解消したいと思わせるんだからね? モンテカルスト家からも、エルフィーじゃ駄目って思ってもらうんだ!」
「わかってる」
「だからって不躾な振る舞いはしないで! セルドランの家名に泥を塗るのは許さない。この婚約が解消できても、セルドラン家とは今後事業の縁も僕との縁も二度と結べないなんて言われないように!」
「それもわかってる。家にもニコラにも不利益なことがないよう、気をつける」
両手と両膝を床につけたまま顔を上げると、ニコラは奥歯を噛み締め、瞼を痙攣させながら俺を睨みつけていた。その容貌は普段の天使の笑みからは想像できるものではなかった。
俺が、ニコラにこんな顔をさせてしまったんだ。
「……っごめん、ニコラ。謝っても謝り――」
「謝っても事態は改善しないよ! エルフィーにできるのはつがい解消薬を一刻も早く作ることだ!」
そうして、両腕を掴まれたのだ。
「絶対に、僕の大好きなクラウスを奪わないで」
朝まで一睡もせず、まるで呪文をつぶやくようにそう言い続けながら。
「エルフィー、まだ顔色が悪いな」
「えっ、わ、なに」
向かいの座席に座っていたクラウスが急に立ち上がり、俺の隣に腰掛ける。
がっしりとした長躯が俺にぴたりとくっついた。
たくましい腕が肩に回され、俺はクラウスに寄りかかる姿勢になる。
「お、おいクラウス」
「こうしていれば休めるだろう。エルフィーの体にはずいぶんと負担をかけたから心配なんだ。着くまで俺に体を任せてくれ」
「や、いい、いいって……」
ああ、まずい。フェロモンを思わせるクラウスの香りを吸ってしまった。
密着したところから伝わる温かい体温を感じてしまった。
頭がぼんやりしてくる。睡眠が足りていないせいか、瞼が重くなってくる。
「少しの時間でも君の眠りが安らかでありますように」
穏やかな優しい声が遠くなっていく。
俺は、暖かくて柔らかくていい匂いのデュベに、すっぽりとくるまれている夢を見た────
それからどれくらいの時間が過ぎたのかは定かではないけれど、突如耳に飛び込んできた甲高い声に、夢は破られた。
「あらあらあら、クラウスったら、そんな情熱的なことができたのね! ママン感激よ!」
「まあ! エルフィーったらすっかりクラウス様に骨抜きで! 仲睦まじいふたりを見るとこちらも幸せな気分になれますわね、公爵夫人」
いつの間にか伏せていた瞼をしっかりと開けて面前を見れば、モンテカルスト公爵夫人と母様がにこやかに会話をしていて、その横では父様が苦笑いを、さらにその横ではニコラが目を吊り上げていた。
なぜかというと、俺がクラウスに横抱きにされて馬車から降りていたからだ。
「わ。わわ。下ろせ、クラウス」
「危ないぞ、エルフィー」
慌てて腕から下りようとした俺を、クラウスはしっかりと抱き止め、さらに盤石な横抱きにした。
「母上、エルフィーは、その……つがいになった際の疲労がいまだ残っているのでしょう。昨夜も気絶したのに、俺が待っていられずに予定を詰めたので心配です。このままで父上のところへ向かってもよろしいでしょうか」
「つ、つがいになったときのって、なに言ってんの? ちょ、クラウス、駄目だって! 下ろせよ!」
足をばたつかせるも、クラウスの鍛えられた体幹はびくともしない。
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番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か
雪兎
BL
第二性が存在する世界。
Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。
しかし入学初日、彼の前に現れたのは――
幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。
成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。
だが湊だけが知っている。
彼が異常なほど執着深いことを。
「大丈夫、全部管理してあげる」
「君が困らないようにしてるだけだよ」
座席、時間割、交友関係、体調管理。
いつの間にか整えられていく環境。
逃げ場のない距離。
番を拒みたいΩと、手放す気のないα。
これは保護か、それとも束縛か。
閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。
【完結済】極上アルファを嵌めた俺の話
降魔 鬼灯
BL
ピアニスト志望の悠理は子供の頃、仲の良かったアルファの東郷司にコンクールで敗北した。
両親を早くに亡くしその借金の返済が迫っている悠理にとって未成年最後のこのコンクールの賞金を得る事がラストチャンスだった。
しかし、司に敗北した悠理ははオメガ専用の娼館にいくより他なくなってしまう。
コンサート入賞者を招いたパーティーで司に想い人がいることを知った悠理は地味な自分がオメガだとバレていない事を利用して司を嵌めて慰謝料を奪おうと計画するが……。
事故つがいの夫は僕を愛さない ~15歳で番になった、オメガとアルファのすれちがい婚~【本編完結】
カミヤルイ
BL
2023.9.19~完結一日目までBL1位、全ジャンル内でも20位以内継続。
2025.4.28にも1位に返り咲きました。
ありがとうございます!
美形アルファと平凡オメガのすれ違い結婚生活
(登場人物)
高梨天音:オメガ性の20歳。15歳の時、電車内で初めてのヒートを起こした。
高梨理人:アルファ性の20歳。天音の憧れの同級生だったが、天音のヒートに抗えずに番となってしまい、罪悪感と責任感から結婚を申し出た。
(あらすじ)*自己設定ありオメガバース
「事故番を対象とした番解消の投与薬がいよいよ完成しました」
ある朝流れたニュースに、オメガの天音の番で、夫でもあるアルファの理人は釘付けになった。
天音は理人が薬を欲しいのではと不安になる。二人は五年前、天音の突発的なヒートにより番となった事故番だからだ。
理人は夫として誠実で優しいが、番になってからの五年間、一度も愛を囁いてくれたこともなければ、発情期以外の性交は無く寝室も別。さらにはキスも、顔を見ながらの性交もしてくれたことがない。
天音は理人が罪悪感だけで結婚してくれたと思っており、嫌われたくないと苦手な家事も頑張ってきた。どうか理人が薬のことを考えないでいてくれるようにと願う。最近は理人の帰りが遅く、ますます距離ができているからなおさらだった。
しかしその夜、別のオメガの匂いを纏わりつけて帰宅した理人に乱暴に抱かれ、翌日には理人が他のオメガと抱き合ってキスする場面を見てしまう。天音ははっきりと感じた、彼は理人の「運命の番」だと。
ショックを受けた天音だが、理人の為には別れるしかないと考え、番解消薬について調べることにするが……。
表紙は天宮叶さん@amamiyakyo0217
「オレの番は、いちばん近くて、いちばん遠いアルファだった」
星井 悠里
BL
大好きだった幼なじみのアルファは、皆の憧れだった。
ベータのオレは、王都に誘ってくれたその手を取れなかった。
番にはなれない未来が、ただ怖かった。隣に立ち続ける自信がなかった。
あれから二年。幼馴染の婚約の噂を聞いて胸が痛むことはあるけれど、
平凡だけどちゃんと働いて、それなりに楽しく生きていた。
そんなオレの体に、ふとした異変が起きはじめた。
――何でいまさら。オメガだった、なんて。
オメガだったら、これからますます頑張ろうとしていた仕事も出来なくなる。
2年前のあの時だったら。あの手を取れたかもしれないのに。
どうして、いまさら。
すれ違った運命に、急展開で振り回される、Ωのお話。
ハピエン確定です。(全10話)
2025年 07月12日 ~2025年 07月21日 なろうさんで完結してます。
「お前を愛する事はない」を信じたので
あんど もあ
ファンタジー
「お前を愛することは無い。お前も私を愛するな。私からの愛を求めるな」
お互いの利益のために三年間の契約結婚をしたアヴェリンとロデリック。楽しく三年を過ごしたアヴェリンは屋敷を出ていこうとするのだが……。