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第九話
残された子どもたち
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音もなく降りしきる雪が、川瀬家に冷たい空気を運ぶ。
深雪の中、東京からひとりやって来た姉の成海を囲って、ダイニングチェアに座った三人姉弟に会話はまだない。伯父夫婦は気を利かせて別室に移動してくれたが、廉斗の内心はできることならば伯父夫婦に仲介役として残っていてほしかった。
とんだ元日だ。気まずいったらありゃしない。成海はまだしも、嫌われている美香の前に自分から姿を現すのは、気分のいいものではない。美香が自分にだけ当たりが強いことは、成海も知っているはずだ。
それでも、わざわざ「三人で話がしたい」と要求したということは、成海にそれ相応の理由があるのだろう。
廉斗が姉に会うのも、姉弟三人が全員揃うのも久しぶりだ。会ったのは昨年の秋、廉斗の誕生日から十日後──父の三回忌が最後だった。
それにしても沈黙が痛い。
「私、今月に結婚するの」
「えっ、そんなまた急な……」
居心地の悪さを紛らわすため、廉斗は口に飲み物を運ぼうとしていたが、驚きでテーブルの上にゆっくりとコップを戻す。
成海は相変わらず我が道を行く人間だ。良くも悪くも、あまり人に頼らず、親にさえ甘えない。幼い頃から姉として美香の相談に乗ることはあっても、家の中で成海が弱音を吐いたことなどあっただろうか。少なくとも廉斗は、一度も見たことがなかった。
「まあ、でも……おめでとう」
「ありがとう」
成海は眉尻を下げて笑う。
きっと、ようやく成海も家族に言えない思いを吐き出すことができる相手を見つけたのだろう。家族として、姉の幸せは喜ばしいことだ。
姉弟ふたりの心の距離は、近くも遠くもない。廉斗が小学校低学年までは、美香を入れた三人でよく遊んでいたものだが、次第にお互い興味があるものが変化していき、価値観も少しずつ合わなくなっていった。価値観の違いを、否定もしなければ肯定もしない。こうして、あまり干渉しない姉と弟の関係ができたのだ。
廉斗は男女の姉弟ならば、こういう関係が普通だと思っていた。むしろ、寂しがり屋は美香の方だ。
美香は何でも姉の真似をしたがる。中学校でバレーボールを始めたのがいい例だ。
その美香が静かなのは、一体どういうことだろうか。
「今月に結婚するってことは、入籍はこれから?」
「うん。入籍は一月十六日の午後にするつもり。その日が直近で一番縁起が良いの。結婚式は身内だけで、五月八日に挙げようと思っている。大安と一粒万倍日が重なるってのもあるけど、土曜日だからみんなも動きやすいだろうし」
廉斗は頭の中で一応、五月八日の予定を確認した。
「あれ? 今日はここに旦那さんも来ないんだ?」
「そう、今日は来ない。実は、稔伯父さんたちとは昨年の内にもう会っているの」
「えっ」
いつの間に? という言葉を廉斗は飲み込んだ。なるほど。だから美香は黙っていたのか。おおかた美香は、実家で先に成海の未来の旦那に会っていたのだろう。
いつ成海に結婚を意識した恋人ができたのかは知らないが、そもそも普段から連絡を取り合っていない姉弟なら、報告が遅れるのは仕方ない。
廉斗がそんなことを考えていると、成海は質問攻めをしていた廉斗に、少しだけ申し訳なさそうな表情を見せた。
いつも威張っていたわけではないが、ほんの数ヶ月だけ顔を見ない内に、姉は随分と表情が柔らかくなったものだ。廉斗は成海の態度の変わりように感心する。
「三月には旦那と秋田に戻ってくる予定。戻ってくるのは旦那の仕事の関係もあるけど、私もお母さんとお父さんの近くにいたいからさ」
「どこに住むんだっけ?」
美香が恐る恐るといった感じで、やっと口を開いた。
「実家と同じ秋田市だよ。今度こそ、何かあった時にすぐ美香たちの力になれるでしょう?」
成海は隣に座る美香を安心させるように微笑んだ。
どうやら成海は離れた場所に住んでいた両親の死を通して、家族を顧みたようだ。
心に傷を負ったのは、姉弟全員同じだ。廉斗はそんな成海の気持ちに寄り添う。もしかすると、成海は家族の危機に駆けつけられなかったことを、ずっと後悔していたのかもしれない。
幼い頃、迷路のアトラクションで先頭を切って、自分と美香を出口に導く姉の後ろ姿を廉斗は思い出す。なんだかんだ成海は、頼りになる優しい姉なのだ。
「今さら遅いよね。親孝行って、私が自立できればいずれ何とかなると思ってた。でも、肝心な時にそばにいないんじゃ意味ない。最初から、もっと近くにいたら良かった……」
成海がダイニングテーブルの上で、悔しそうに拳を強く握る。
廉斗の脳裏には生前の母親の笑顔と、病室のベッドで泣き崩れる父親の姿が浮かんでいた。
「僕は近くにいても……何もできなかったよ」
「そんなことない。お母さんの時は廉斗も美香も、お父さんを真っ先に支えてくれた。お父さんの時は私が東京から来るまで、廉斗が喪主の代理をしてくれたし。ふたりが亡くなってから私、ずっと廉斗たちや稔伯父さんに家のこと全部任せっきりだった」
廉斗は肌寒くなる秋に父親を、凍えるような雪が降る冬は母親をどうしても思い出してしまう。電話の着信音は今でも廉斗に、塾の自習室の外で鳴り響いた時の嫌な感覚を彷彿させる。
今、リビングのドア下の隙間から入り込んだ冷たい空気が、廉斗の汗ばむ皮膚を這うように触れていた。冷たい手で追い縋るように廉斗を拘束していたのは、彼の罪の意識だった。
「特に廉斗、今まで背負わせてごめんね」
「え? 何だよ、急に……」
濁流のように押し寄せる後悔の念を振り払うように、廉斗は乾いた喉に張り付く言葉を成海に向かって強引に絞り出す。
「成海! 廉斗は……」
「美香も聞いて」
廉斗の斜向かいに座っていた美香が、廉斗を糾弾するべくテーブルの上に身を乗り出す。
成海は冷静だった。
「お母さんの事故は廉斗のせいじゃない。あの日、廉斗はお母さんと美香の誕生日ケーキを予約しに行くはずだった。一緒に行こうと誘ったのは、お母さんの方なの」
廉斗は姉の言葉で、呼吸も忘れて固まる。
「廉斗、そうでしょう?」
再び訪れた沈黙が、この場の緊張感を際立たせていた。
深雪の中、東京からひとりやって来た姉の成海を囲って、ダイニングチェアに座った三人姉弟に会話はまだない。伯父夫婦は気を利かせて別室に移動してくれたが、廉斗の内心はできることならば伯父夫婦に仲介役として残っていてほしかった。
とんだ元日だ。気まずいったらありゃしない。成海はまだしも、嫌われている美香の前に自分から姿を現すのは、気分のいいものではない。美香が自分にだけ当たりが強いことは、成海も知っているはずだ。
それでも、わざわざ「三人で話がしたい」と要求したということは、成海にそれ相応の理由があるのだろう。
廉斗が姉に会うのも、姉弟三人が全員揃うのも久しぶりだ。会ったのは昨年の秋、廉斗の誕生日から十日後──父の三回忌が最後だった。
それにしても沈黙が痛い。
「私、今月に結婚するの」
「えっ、そんなまた急な……」
居心地の悪さを紛らわすため、廉斗は口に飲み物を運ぼうとしていたが、驚きでテーブルの上にゆっくりとコップを戻す。
成海は相変わらず我が道を行く人間だ。良くも悪くも、あまり人に頼らず、親にさえ甘えない。幼い頃から姉として美香の相談に乗ることはあっても、家の中で成海が弱音を吐いたことなどあっただろうか。少なくとも廉斗は、一度も見たことがなかった。
「まあ、でも……おめでとう」
「ありがとう」
成海は眉尻を下げて笑う。
きっと、ようやく成海も家族に言えない思いを吐き出すことができる相手を見つけたのだろう。家族として、姉の幸せは喜ばしいことだ。
姉弟ふたりの心の距離は、近くも遠くもない。廉斗が小学校低学年までは、美香を入れた三人でよく遊んでいたものだが、次第にお互い興味があるものが変化していき、価値観も少しずつ合わなくなっていった。価値観の違いを、否定もしなければ肯定もしない。こうして、あまり干渉しない姉と弟の関係ができたのだ。
廉斗は男女の姉弟ならば、こういう関係が普通だと思っていた。むしろ、寂しがり屋は美香の方だ。
美香は何でも姉の真似をしたがる。中学校でバレーボールを始めたのがいい例だ。
その美香が静かなのは、一体どういうことだろうか。
「今月に結婚するってことは、入籍はこれから?」
「うん。入籍は一月十六日の午後にするつもり。その日が直近で一番縁起が良いの。結婚式は身内だけで、五月八日に挙げようと思っている。大安と一粒万倍日が重なるってのもあるけど、土曜日だからみんなも動きやすいだろうし」
廉斗は頭の中で一応、五月八日の予定を確認した。
「あれ? 今日はここに旦那さんも来ないんだ?」
「そう、今日は来ない。実は、稔伯父さんたちとは昨年の内にもう会っているの」
「えっ」
いつの間に? という言葉を廉斗は飲み込んだ。なるほど。だから美香は黙っていたのか。おおかた美香は、実家で先に成海の未来の旦那に会っていたのだろう。
いつ成海に結婚を意識した恋人ができたのかは知らないが、そもそも普段から連絡を取り合っていない姉弟なら、報告が遅れるのは仕方ない。
廉斗がそんなことを考えていると、成海は質問攻めをしていた廉斗に、少しだけ申し訳なさそうな表情を見せた。
いつも威張っていたわけではないが、ほんの数ヶ月だけ顔を見ない内に、姉は随分と表情が柔らかくなったものだ。廉斗は成海の態度の変わりように感心する。
「三月には旦那と秋田に戻ってくる予定。戻ってくるのは旦那の仕事の関係もあるけど、私もお母さんとお父さんの近くにいたいからさ」
「どこに住むんだっけ?」
美香が恐る恐るといった感じで、やっと口を開いた。
「実家と同じ秋田市だよ。今度こそ、何かあった時にすぐ美香たちの力になれるでしょう?」
成海は隣に座る美香を安心させるように微笑んだ。
どうやら成海は離れた場所に住んでいた両親の死を通して、家族を顧みたようだ。
心に傷を負ったのは、姉弟全員同じだ。廉斗はそんな成海の気持ちに寄り添う。もしかすると、成海は家族の危機に駆けつけられなかったことを、ずっと後悔していたのかもしれない。
幼い頃、迷路のアトラクションで先頭を切って、自分と美香を出口に導く姉の後ろ姿を廉斗は思い出す。なんだかんだ成海は、頼りになる優しい姉なのだ。
「今さら遅いよね。親孝行って、私が自立できればいずれ何とかなると思ってた。でも、肝心な時にそばにいないんじゃ意味ない。最初から、もっと近くにいたら良かった……」
成海がダイニングテーブルの上で、悔しそうに拳を強く握る。
廉斗の脳裏には生前の母親の笑顔と、病室のベッドで泣き崩れる父親の姿が浮かんでいた。
「僕は近くにいても……何もできなかったよ」
「そんなことない。お母さんの時は廉斗も美香も、お父さんを真っ先に支えてくれた。お父さんの時は私が東京から来るまで、廉斗が喪主の代理をしてくれたし。ふたりが亡くなってから私、ずっと廉斗たちや稔伯父さんに家のこと全部任せっきりだった」
廉斗は肌寒くなる秋に父親を、凍えるような雪が降る冬は母親をどうしても思い出してしまう。電話の着信音は今でも廉斗に、塾の自習室の外で鳴り響いた時の嫌な感覚を彷彿させる。
今、リビングのドア下の隙間から入り込んだ冷たい空気が、廉斗の汗ばむ皮膚を這うように触れていた。冷たい手で追い縋るように廉斗を拘束していたのは、彼の罪の意識だった。
「特に廉斗、今まで背負わせてごめんね」
「え? 何だよ、急に……」
濁流のように押し寄せる後悔の念を振り払うように、廉斗は乾いた喉に張り付く言葉を成海に向かって強引に絞り出す。
「成海! 廉斗は……」
「美香も聞いて」
廉斗の斜向かいに座っていた美香が、廉斗を糾弾するべくテーブルの上に身を乗り出す。
成海は冷静だった。
「お母さんの事故は廉斗のせいじゃない。あの日、廉斗はお母さんと美香の誕生日ケーキを予約しに行くはずだった。一緒に行こうと誘ったのは、お母さんの方なの」
廉斗は姉の言葉で、呼吸も忘れて固まる。
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