27 / 30
第二十七話
解けぬ魔法の種明かし《前編》
しおりを挟む
廉斗からすると、叔母の悦子と自分の恋人である佐奈には、全く縁がなさそうに思える。しかし、実はこのふたりには、代々受け継がれてきた特別な因縁があった。
「あなた、本当の愛が何かを知らないの? ……それもそうか。廉斗くんの周りに、尊い愛が存在しているはずないものね」
悦子は勝利を確信して極めて冷たく嘲笑う。
二年前の夏、廉斗が呪いにかかったあの日、たしかに悦子は廉斗たちと同じ場所にいた。悦子は探偵事務所の担当者へ余分に金を払い、廉斗の恋人の行動を調べ上げ、セリオンリスタで彼女と鉢合わせすることを目論んでいた。そして、念願叶って佐奈に見える。そこで交わされた、佐奈とのふたりきりの会話。それこそが、廉斗と、あとひとり──ふたりの咎人への、復讐の始まりだった。この時点では間違いなく、呪いを用いた復讐の執行人は悦子であった。しかし、悦子には呪いを自由に扱える力はない。彼女の能力とは、言葉巧みに相手の心理をつき、自分の思い通りの行動へと誘導するだけだ。
「私にとっての呪いとは、ただの話術よ。だけど、あの子は違う」
悦子は廉斗に冷酷な目を向けて語る。
悦子は姉を喪ってからのある時期、頻繁に廉斗の実家へ足を運んでいた。それは、廉斗の妹である美香を従え、内側から憎き彼の大切な絆を粉々に破壊するためであったが、そこで悦子は思わぬ人物を目撃する。
──私、廉斗さんと同じクラスの平塚沙奈と言います。
あの女に似ている。間違いない。あの女の娘だ。悦子の女の勘が働く。
その一瞬で、何年も燻っていた復讐の炎が燃え上がり、彼女の心に火花を散らす。
──これ、学校で配られたプリントなんですけど、進路に関する大事な書類が入っているんです。廉斗さんの体調が良くなったら、できるだけ早く、この書類を見てもらってください。提出日が近いんです。よろしくお願いします。
佐奈は苦虫を噛み潰したような表情をする美香に頭を下げる。その際、サラサラの前下がりの髪がウィンドチャイムのように触れ合い、下方向に流れていった。その様は、彼女の口から発せられる美しい澄んだ音ととてもよく似合っていた。そのくらい、佐奈も人の気を引く見た目をしているのだ。
当時の佐奈の雰囲気は、一見すると穢れを知らない天使のようだったが、悦子は彼女の闇を敏感に感じ取っていた。
──あの……廉斗さんの具合はどうですか? 倒れた時、顔が真っ青で呼吸も浅くて……。
母親譲りのあの弱々しく、儚い表情。あれに男はみんな騙されたのだ。
悦子は佐奈を初めて目にした時の様子を鮮明に思い出し、奥歯を噛む。彼女を見てしまうと、どうしてもある女の影が目の前にちらつくのだ。その女から受けた屈辱を思い出すと、悔し涙が浮かんでくる。けれど、この男の前で泣くわけにはいかない。この手で止めを刺すまでは──。
悦子は苦々しい表情でわざとらしい演技を続けた。
「あの子は表情も、仕草も、声の使い方まであの女と同じ……。母親の生き写しみたいで反吐が出るわ」
「母親?」
なぜそこで佐奈の母親の名前が出てくるのだろうか。
廉斗は腑に落ちないといった表情で首を傾げる。
「あの子の母親はね、私から夫も、子どもも、私の全てを奪っていったのよ!」
悦子は怒りをぶつけるようにカッと目を見開く。急に風が変わり、あっという間に海が荒れていくようだった。
愛する者を無惨にも奪われた深い悲しみを一身に背負い、瞳を狂気的な憎しみで染めた悦子は、永遠に広がる黒い海に入水する。そこに躊躇いは一切なかった。
「私があの女に流れる血の秘密に気付いたのは、私自身も呪術を操る物部一族と、先住民である安倍一族の混血民だと知ってからよ。二つの一族のルーツは、かつて日本国を治めていた出雲王朝の末裔であり、ヤマト王権に攻め滅ぼされて東に逃亡した出羽物部氏。彼らは秋田の地で、蝦夷の豪族である奥州安倍氏と共存し、子孫を残したとされているわ。物部氏は仏教伝来以前の古神道を司っていたと言われているし、大和朝廷に招かれた一部の物部氏だって、安倍晴明の先祖である阿部仲麻呂の時代から陰陽道と関わりがあるのよ」
彼女の口から語られる、一族のルーツと呪術の関係。廉斗は、自分の母親の旧姓が阿部であることを今更になって思い出す。なんせ母親は悦子と姉妹なのだから、それは当然のことなのだが、当たり前すぎて母親の旧姓を特別意識したことはなかった。まさか呪いのヒントが先祖にあるとは、想像すらしなかった。
そういえば、叔母は一度離婚していたはずだ。普段は下の名前で呼んでいる叔母の苗字が変わっていたことを、彼が気にした回数は極端に少ない。
廉斗は呪いから解放されるために、流暢に語る悦子の話に耳を傾ける。
「廉斗くんは、スサノオのヤマタノオロチ退治の伝説は知っている? あれはね、大和王権の神話であって、出雲では神として崇敬されている龍を『邪悪な怪物』として退治する話よ。でもね、これは征服者が原住民を服属させて、その地を制圧する話とも解釈できるの。事実、仏教に対する考え方の違いで覇権争いにまで発展し、物部氏を倒した蘇我氏の一部が、各地でスサノオの神社を守っているわ。スサノオは、疫病や怨霊除けの荒ぶる神として信仰されている。でも、もしも、時の権力者に仇なした者たちが怨霊として復活していたのなら、私とあの子にも古くからの因縁があることになるわ」
自信満々に早口で語る悦子だが、廉斗は呆然としていた。彼は最初こそ、自身にかけられた呪いを解明でき得る悦子の身の上話が聞けると思っていただけに、途中から聞かされた神話絡みのファンタジー要素が濃い話を真に受けることができなかったのだ。しかし、それは大きな間違いだった。
古い歴史を解き明かすことこそが、廉斗に呪いをかけた真犯人を暴くことになる。悦子はそれをよく知っていた。
「血に刻まれた根絶やしの呪い……」
ぽつりと呟かれた言葉は、いまいち頭が回っていなかった廉斗の心を大きく動かした。
「さっき教えてあげたでしょう? あの子の母親が、私から夫も、子どもも奪っていったって。あの一族……田口家の女には、他人の愛する者を奪う能力がある。あの母親は、その能力を私に使ったのよ」
憎しみや怒り、悲しさといった負の感情の中でひとり泳ぐ悦子は、内に抱えた汚れゆく海の深さを知らない。廉斗もその海がどんなに暗く、澱んでいるのかを知らなかった。
敵の懐に入るのが怖いかと聞かれれば、否定はできない。それでも、彼はこの先を知る必要があった。佐奈を愛し抜き、守る力が欲しかったからだ。
「待ってください。佐奈の苗字は平塚ですよ? 田口なんてどこから……」
「あなた、恋人について何も知らないのね」
会心の一撃。放たれた矢は、廉斗の心臓を貫いた。
この時、廉斗は初めて佐奈の両親が離婚していたことを知らされる。それも、本人の口からではなく、よりにもよって自分をひどく嫌う叔母の口から伝えられたのだ。それがどんなに惨めで、悲しくて、やりきれない思いなのか。
悦子は愉しそうに話を続けた。
「佐奈ちゃんの家は、彼女が中学二年生の時に一度離婚しているの。その時、佐奈ちゃんは母親について行ったわ。母親の名は、平塚静江よ。そいつの旧姓は田口だった。その田口の苗字は、田沢湖に伝わる辰子姫伝説に関連したもの。田口はね、辰子姫伝説のモデルと言われる滝夜叉姫の、五人娘の内の一人の苗字。そして、滝夜叉姫とは、日本三大怨霊で知られる平将門の娘よ」
辰子姫伝説とは、秋田県仙北市にある田沢湖にまつわる民話だ。美貌と若さを永遠に保ちたいと願った見張るほどの美しい娘が、泉の水を飲み続けた結果、龍となって田沢湖に入水したとされる。田沢湖に身を沈めた辰子は、そこの主として暮らすようになった。悦子の話によると、この伝説には実在するモデルがいたらしい。
妖術を授けられて瀧夜叉姫と名乗った平将門の娘は、朝廷転覆の反乱を起こして、京都の神主の陰陽術によって成敗されたという物語がある。その一方で、瀧夜叉姫とは、三女の如蔵尼であるとする説もあった。たしかに、秋田県仙北市田沢湖生保内字堂ノ前には、姫塚と呼ばれる瀧夜叉姫の墓とされる塚がある。彼女は父である将門の死後、東北地方に逃れて仏門に入り、地蔵菩薩を信仰して如蔵尼と名乗ったと言われているのだ。他の説でも、平将門一族は東日本の独立を目指し、身内同士の争いで敗れて奥州に落ち延びたと言われているので、悦子の話はある程度は信憑性がありそうだ。
だが、今の廉斗には、複数の伝承の真偽をとやかく考える余裕は一切なかった。後にこの会話を振り返った時に忘れていないよう、ズタズタにされた心に留めておくことで精一杯だった。
「父である将門が討たれ、一族も滅ぼされて、生き残った滝夜叉姫は怨念を募らせ、妖術を授かって巨大な骸骨を出現させるほどの怨霊となった。後に彼女は朝廷転覆のため、日本最大の妖怪戦争を仕掛けるの。要するに、その娘の血を引く田口家の女は、呪術の類を操れても何ら不思議ではないわ」
廉斗はいい加減耳を塞ぎたかった。ところが、彼の身体はそれを拒絶する。それは、悦子から受けたと思っていた呪いの影響ではない。彼の心が真実を欲していたのだ。それが誰のためであるのか、廉斗にはもう分からなかった。
今、彼の頭の中で浮かんでいる愛しい人の顔は、黒い靄がかかってぼやけて見えている。
「でもね、伝説にも諸説あるの。滝夜叉姫の母──つまり、平将門の正妻の名前が、辰子姫伝説と同じ『辰子』という名だった。これが偶然じゃないのだとしたら、私たちは平家と陰陽師と同じ運命を辿るでしょうね」
悦子はこれまで考え抜いてきた言葉で、未だに戸惑う廉斗を追い詰める。恨みの籠もった言葉でできた氷の鎖は頑丈だ。悦子は懐からその鎖を取り出し、人々の愛を宿した廉斗の心を内に閉じ込めようとする。
その手に愛を抱かせてなるものか。檻はもうじき完成する。あとは、真相を知った彼が挫ければ、数年にわたる復讐劇は終わる。
悦子は計画に沿って慎重に言葉を選ぶ。
「私の阿部の字は、あの安倍晴明と同じ漢字にも表記することができる。そして、辰子姫は滝夜叉姫の母だったという異伝もあるけれど、広く伝わっている辰子の名は、蝦夷の在地豪族であった安倍氏の娘であり、平将門の正妻だったというもの……。これが、私たちも先祖と同じように、身内での深い因縁があるとされる謂れよ」
悦子は廉斗に最後の魔法をかけた。それは同時に、これまで彼が受けてきた呪いの種明かしでもあった。
「もうお分かりよね? あなたもまさか、最愛の人が自分を呪っていたなんて思いもしなかったでしょう?」
自分の心臓の音が大きくて、悦子の声が遠く聞こえるのに、なぜか彼女の言葉が身体に深く刻まれる。この感覚が気持ち悪い。
手がそこに触れなくても悦子に気道を塞がれ、廉斗は重く冷たい鎖を引き千切ろうと、首に手をかける。異様に熱いそこは、焼け爛れているのではないだろうか。
悦子は廉斗の急所に狙いを定めて、最後の矢を放つ。
「平塚佐奈は、平家の田口の家系。先祖が授かった妖術と、物部氏が持ち込んだ土着の呪術が混ざり合い、呪術師としての血が覚醒している。あの子が、あなたから愛の言葉を奪ったのよ」
あまりにも惨い仕打ちに涙も出なかった。
悦子は今度こそ全身から生気を失った廉斗を見届けると、過去一番の優越感にとっぷりと浸かるのだった。
「あなた、本当の愛が何かを知らないの? ……それもそうか。廉斗くんの周りに、尊い愛が存在しているはずないものね」
悦子は勝利を確信して極めて冷たく嘲笑う。
二年前の夏、廉斗が呪いにかかったあの日、たしかに悦子は廉斗たちと同じ場所にいた。悦子は探偵事務所の担当者へ余分に金を払い、廉斗の恋人の行動を調べ上げ、セリオンリスタで彼女と鉢合わせすることを目論んでいた。そして、念願叶って佐奈に見える。そこで交わされた、佐奈とのふたりきりの会話。それこそが、廉斗と、あとひとり──ふたりの咎人への、復讐の始まりだった。この時点では間違いなく、呪いを用いた復讐の執行人は悦子であった。しかし、悦子には呪いを自由に扱える力はない。彼女の能力とは、言葉巧みに相手の心理をつき、自分の思い通りの行動へと誘導するだけだ。
「私にとっての呪いとは、ただの話術よ。だけど、あの子は違う」
悦子は廉斗に冷酷な目を向けて語る。
悦子は姉を喪ってからのある時期、頻繁に廉斗の実家へ足を運んでいた。それは、廉斗の妹である美香を従え、内側から憎き彼の大切な絆を粉々に破壊するためであったが、そこで悦子は思わぬ人物を目撃する。
──私、廉斗さんと同じクラスの平塚沙奈と言います。
あの女に似ている。間違いない。あの女の娘だ。悦子の女の勘が働く。
その一瞬で、何年も燻っていた復讐の炎が燃え上がり、彼女の心に火花を散らす。
──これ、学校で配られたプリントなんですけど、進路に関する大事な書類が入っているんです。廉斗さんの体調が良くなったら、できるだけ早く、この書類を見てもらってください。提出日が近いんです。よろしくお願いします。
佐奈は苦虫を噛み潰したような表情をする美香に頭を下げる。その際、サラサラの前下がりの髪がウィンドチャイムのように触れ合い、下方向に流れていった。その様は、彼女の口から発せられる美しい澄んだ音ととてもよく似合っていた。そのくらい、佐奈も人の気を引く見た目をしているのだ。
当時の佐奈の雰囲気は、一見すると穢れを知らない天使のようだったが、悦子は彼女の闇を敏感に感じ取っていた。
──あの……廉斗さんの具合はどうですか? 倒れた時、顔が真っ青で呼吸も浅くて……。
母親譲りのあの弱々しく、儚い表情。あれに男はみんな騙されたのだ。
悦子は佐奈を初めて目にした時の様子を鮮明に思い出し、奥歯を噛む。彼女を見てしまうと、どうしてもある女の影が目の前にちらつくのだ。その女から受けた屈辱を思い出すと、悔し涙が浮かんでくる。けれど、この男の前で泣くわけにはいかない。この手で止めを刺すまでは──。
悦子は苦々しい表情でわざとらしい演技を続けた。
「あの子は表情も、仕草も、声の使い方まであの女と同じ……。母親の生き写しみたいで反吐が出るわ」
「母親?」
なぜそこで佐奈の母親の名前が出てくるのだろうか。
廉斗は腑に落ちないといった表情で首を傾げる。
「あの子の母親はね、私から夫も、子どもも、私の全てを奪っていったのよ!」
悦子は怒りをぶつけるようにカッと目を見開く。急に風が変わり、あっという間に海が荒れていくようだった。
愛する者を無惨にも奪われた深い悲しみを一身に背負い、瞳を狂気的な憎しみで染めた悦子は、永遠に広がる黒い海に入水する。そこに躊躇いは一切なかった。
「私があの女に流れる血の秘密に気付いたのは、私自身も呪術を操る物部一族と、先住民である安倍一族の混血民だと知ってからよ。二つの一族のルーツは、かつて日本国を治めていた出雲王朝の末裔であり、ヤマト王権に攻め滅ぼされて東に逃亡した出羽物部氏。彼らは秋田の地で、蝦夷の豪族である奥州安倍氏と共存し、子孫を残したとされているわ。物部氏は仏教伝来以前の古神道を司っていたと言われているし、大和朝廷に招かれた一部の物部氏だって、安倍晴明の先祖である阿部仲麻呂の時代から陰陽道と関わりがあるのよ」
彼女の口から語られる、一族のルーツと呪術の関係。廉斗は、自分の母親の旧姓が阿部であることを今更になって思い出す。なんせ母親は悦子と姉妹なのだから、それは当然のことなのだが、当たり前すぎて母親の旧姓を特別意識したことはなかった。まさか呪いのヒントが先祖にあるとは、想像すらしなかった。
そういえば、叔母は一度離婚していたはずだ。普段は下の名前で呼んでいる叔母の苗字が変わっていたことを、彼が気にした回数は極端に少ない。
廉斗は呪いから解放されるために、流暢に語る悦子の話に耳を傾ける。
「廉斗くんは、スサノオのヤマタノオロチ退治の伝説は知っている? あれはね、大和王権の神話であって、出雲では神として崇敬されている龍を『邪悪な怪物』として退治する話よ。でもね、これは征服者が原住民を服属させて、その地を制圧する話とも解釈できるの。事実、仏教に対する考え方の違いで覇権争いにまで発展し、物部氏を倒した蘇我氏の一部が、各地でスサノオの神社を守っているわ。スサノオは、疫病や怨霊除けの荒ぶる神として信仰されている。でも、もしも、時の権力者に仇なした者たちが怨霊として復活していたのなら、私とあの子にも古くからの因縁があることになるわ」
自信満々に早口で語る悦子だが、廉斗は呆然としていた。彼は最初こそ、自身にかけられた呪いを解明でき得る悦子の身の上話が聞けると思っていただけに、途中から聞かされた神話絡みのファンタジー要素が濃い話を真に受けることができなかったのだ。しかし、それは大きな間違いだった。
古い歴史を解き明かすことこそが、廉斗に呪いをかけた真犯人を暴くことになる。悦子はそれをよく知っていた。
「血に刻まれた根絶やしの呪い……」
ぽつりと呟かれた言葉は、いまいち頭が回っていなかった廉斗の心を大きく動かした。
「さっき教えてあげたでしょう? あの子の母親が、私から夫も、子どもも奪っていったって。あの一族……田口家の女には、他人の愛する者を奪う能力がある。あの母親は、その能力を私に使ったのよ」
憎しみや怒り、悲しさといった負の感情の中でひとり泳ぐ悦子は、内に抱えた汚れゆく海の深さを知らない。廉斗もその海がどんなに暗く、澱んでいるのかを知らなかった。
敵の懐に入るのが怖いかと聞かれれば、否定はできない。それでも、彼はこの先を知る必要があった。佐奈を愛し抜き、守る力が欲しかったからだ。
「待ってください。佐奈の苗字は平塚ですよ? 田口なんてどこから……」
「あなた、恋人について何も知らないのね」
会心の一撃。放たれた矢は、廉斗の心臓を貫いた。
この時、廉斗は初めて佐奈の両親が離婚していたことを知らされる。それも、本人の口からではなく、よりにもよって自分をひどく嫌う叔母の口から伝えられたのだ。それがどんなに惨めで、悲しくて、やりきれない思いなのか。
悦子は愉しそうに話を続けた。
「佐奈ちゃんの家は、彼女が中学二年生の時に一度離婚しているの。その時、佐奈ちゃんは母親について行ったわ。母親の名は、平塚静江よ。そいつの旧姓は田口だった。その田口の苗字は、田沢湖に伝わる辰子姫伝説に関連したもの。田口はね、辰子姫伝説のモデルと言われる滝夜叉姫の、五人娘の内の一人の苗字。そして、滝夜叉姫とは、日本三大怨霊で知られる平将門の娘よ」
辰子姫伝説とは、秋田県仙北市にある田沢湖にまつわる民話だ。美貌と若さを永遠に保ちたいと願った見張るほどの美しい娘が、泉の水を飲み続けた結果、龍となって田沢湖に入水したとされる。田沢湖に身を沈めた辰子は、そこの主として暮らすようになった。悦子の話によると、この伝説には実在するモデルがいたらしい。
妖術を授けられて瀧夜叉姫と名乗った平将門の娘は、朝廷転覆の反乱を起こして、京都の神主の陰陽術によって成敗されたという物語がある。その一方で、瀧夜叉姫とは、三女の如蔵尼であるとする説もあった。たしかに、秋田県仙北市田沢湖生保内字堂ノ前には、姫塚と呼ばれる瀧夜叉姫の墓とされる塚がある。彼女は父である将門の死後、東北地方に逃れて仏門に入り、地蔵菩薩を信仰して如蔵尼と名乗ったと言われているのだ。他の説でも、平将門一族は東日本の独立を目指し、身内同士の争いで敗れて奥州に落ち延びたと言われているので、悦子の話はある程度は信憑性がありそうだ。
だが、今の廉斗には、複数の伝承の真偽をとやかく考える余裕は一切なかった。後にこの会話を振り返った時に忘れていないよう、ズタズタにされた心に留めておくことで精一杯だった。
「父である将門が討たれ、一族も滅ぼされて、生き残った滝夜叉姫は怨念を募らせ、妖術を授かって巨大な骸骨を出現させるほどの怨霊となった。後に彼女は朝廷転覆のため、日本最大の妖怪戦争を仕掛けるの。要するに、その娘の血を引く田口家の女は、呪術の類を操れても何ら不思議ではないわ」
廉斗はいい加減耳を塞ぎたかった。ところが、彼の身体はそれを拒絶する。それは、悦子から受けたと思っていた呪いの影響ではない。彼の心が真実を欲していたのだ。それが誰のためであるのか、廉斗にはもう分からなかった。
今、彼の頭の中で浮かんでいる愛しい人の顔は、黒い靄がかかってぼやけて見えている。
「でもね、伝説にも諸説あるの。滝夜叉姫の母──つまり、平将門の正妻の名前が、辰子姫伝説と同じ『辰子』という名だった。これが偶然じゃないのだとしたら、私たちは平家と陰陽師と同じ運命を辿るでしょうね」
悦子はこれまで考え抜いてきた言葉で、未だに戸惑う廉斗を追い詰める。恨みの籠もった言葉でできた氷の鎖は頑丈だ。悦子は懐からその鎖を取り出し、人々の愛を宿した廉斗の心を内に閉じ込めようとする。
その手に愛を抱かせてなるものか。檻はもうじき完成する。あとは、真相を知った彼が挫ければ、数年にわたる復讐劇は終わる。
悦子は計画に沿って慎重に言葉を選ぶ。
「私の阿部の字は、あの安倍晴明と同じ漢字にも表記することができる。そして、辰子姫は滝夜叉姫の母だったという異伝もあるけれど、広く伝わっている辰子の名は、蝦夷の在地豪族であった安倍氏の娘であり、平将門の正妻だったというもの……。これが、私たちも先祖と同じように、身内での深い因縁があるとされる謂れよ」
悦子は廉斗に最後の魔法をかけた。それは同時に、これまで彼が受けてきた呪いの種明かしでもあった。
「もうお分かりよね? あなたもまさか、最愛の人が自分を呪っていたなんて思いもしなかったでしょう?」
自分の心臓の音が大きくて、悦子の声が遠く聞こえるのに、なぜか彼女の言葉が身体に深く刻まれる。この感覚が気持ち悪い。
手がそこに触れなくても悦子に気道を塞がれ、廉斗は重く冷たい鎖を引き千切ろうと、首に手をかける。異様に熱いそこは、焼け爛れているのではないだろうか。
悦子は廉斗の急所に狙いを定めて、最後の矢を放つ。
「平塚佐奈は、平家の田口の家系。先祖が授かった妖術と、物部氏が持ち込んだ土着の呪術が混ざり合い、呪術師としての血が覚醒している。あの子が、あなたから愛の言葉を奪ったのよ」
あまりにも惨い仕打ちに涙も出なかった。
悦子は今度こそ全身から生気を失った廉斗を見届けると、過去一番の優越感にとっぷりと浸かるのだった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる