暗闇坂お伽草紙

夏実朋可

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其の一の一

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 日本橋にあるお可奈の家の大店から錦糸掘までは、日本橋本町から両国橋を渡り、武家屋敷の多い本所界隈から錦糸掘あたりまで抜けていく。
 そう遠い訳でも無い。
 とは言え近い訳でも無い。
 その場所めざして二人は一時ほども歩いただろうか。
 目的である錦糸掘に到着したのはちょうど昼になろうかと言う頃だった。
 釣りによさそうな場所を探し、竿をたらし魚がかかるのをにぎり飯でも食べながら待とうかと思う矢先、大きく竿がたがんだ。
 「ほら、為松、見て見て」
 「はい、お嬢様」
 「早く、為松、引き上げて」
 「はい、お嬢様」
 四苦八苦の末、一匹釣ってまた竿をたらすと、すぐに竿がたわむ。 
 「ほらほら、また竿が」
 「はい、お嬢様」
 「為松ちゃん、早く」
 「はい」
 そんなふうに次から次へとせかされ、面白いように魚がかかる。にぎり飯を食べる暇どころか食べる事も忘れて二人は夢中になって釣っていた。
 あっという間に魚篭の中はいっぱいになった。
 篭にこれ以上の魚は入らない。
 ならばお可奈気もすんだだろう。
 そこで、為松は言った。「ねえ、お可奈ちゃん。こんなにたくさん釣れたんだしさ、もうそろそろ止めて帰ろよ」
 お可奈は、面白いように釣れるのを途中で止めて帰るのはもったいないと思ったが、時間も時間、そうそう長居はできないと言う為松の懇願するような言葉にしぶしぶ言う事を聞く事になった。
 帰路に就く前に、お腹が空いている事に気がついた二人。
 一度おなかがすいている事に気がつくと、どうにもこうにもお腹がすいている事を無視する事は出来なかった。
 お可奈が、どうしても握り飯を食べて帰るとせがむので、為松もせっかくだからと、持ってきたにぎり飯を二人で平らげた。
 そんな二人の様子を堀の中から見つめる視線があった。
 が、二人は気がつく事はない。
 腹もくちくなったところで、さあ帰ろうといっぱいになった魚篭を持って立ち上がると、何やら声が聞こえてくる。

 〈おいてけ~、おいてけ~〉

 最初はかなり小さい声だった。
 「ねえ為松ちゃん、何か聞こえない?」
 「はい…?」

 〈おいてけ~、おいてけ~〉

 そしてだんだんと声は大きくなる。
 「ね?」
 「はい、聞こえます。だけど、こんなまっ昼間から物の怪のたぐいが出るなんて…?」
 「物の怪だって、きっといろんなのがいるのよ」
 「どうします?」
 「どうしますって何言ってるの。言う事聞いて置いてっちゃったら、何者が声の主なのか確かめられないじゃない。ここはこの魚篭を持ってこのまま帰りましょう」
 「でも…」
 グズグズしている為松を無視し、かなりの重たさになっている魚篭を、お可奈はものともせずに持ち上げさっさと歩きだした。
 「お嬢様!待ってください。私が持ちますって」
 慌てて為松がお可奈の後を追おうとしたその時だった。
 いきなり沼から青い手が伸びて為松の足を掴んだ。
 「うわっっっ!」
 為松の悲鳴とも言えるような声にお可奈が振り向くと、沼から半分身を乗り出して為松の足に手を伸ばしている頭に皿を持つ全身が青緑の河童の姿が目に入った。
 「為松!」
 お可奈は持っていた魚篭を投げ出して為松に駆け寄り、必死にその手を振り払おうとしている為松を引っ張った。しかし、河童は二人の力を持っても有り余るほどの力持っていて、更に為松を沼に引きずり込もうとする。
 「分ったから、分ったから、お魚は置いていくから!」
 金切り声のお可奈の叫びなど聞く耳もなく河童は為松の足から手を離そうとしなかった。
 為松の足から血がにじみ、ついには滴り落ち始めていた。
 この河童の手から逃げようと、為松は必死で引きずられないように力を込めていた。そのおかげで痛みは感じなかった。お可奈も為松を助けようと為松の身体を引っ張り上げようとして力を込めていた。
 為松の足での綱引き状態だった。
 その時、どこからか声がした。

「おい! 」

 そして今一度。

「おい、河童。そいつをどうするつもりだ」

 年の頃は十八くらいだろうか。
 青年と呼ばれるにはまだ一歩手前。
 少年の面持ちを残している男が河童を睨みつけていた。
 「おい」と呼ぶその声は済んでおり、顔は凛としていた。
 袴をはいて、粋な小袖の上には膝中りまである長羽織。
 首元に襟巻を巻いている姿は一目で若い女性の心を奪うような姿だ。。
 そう、この少年こそがあの暗闇坂で占いをしていると言う少年だ。
 少々変わった生い立ちの末この江戸に送り出された少年は、摩訶不思議な力を持っていた。
 「どうするつもりなんだと聞いたんだ」
 「お前は誰だ?」
 河童は為松の足を離すこと無く、むしろ余計に力をこめたようで「ひいっ」と為松が声を漏らした。
 「私はナナ太郎。河童、お前の噂は聞いているぞ」
 「ナナ太郎? どこかで聞いたな…そうか辻占の。占い師には用はないぞ」
 「私もお前の噂はいろいろ聞いている。ここに来る釣り人を沼に引き込んでいるそうじゃないか」
 「そうだよ。ここに来て魚をたんまりと釣って持って帰られたんじゃあ、こっちの食が細くなっちまう。だから、ほんの少しのお仕置きなのさ。」
 「お仕置きのわりには性質が悪いんじゃないか?引きずり込んで殺しているという噂を聞くぞ。それとも食っちまってるのか?」
 「ふふん、そんな噂が流れてるんなら、もうここへ来る奴も少なくなるかもな」
 「とにかくその子を離せ」
 ナナ太郎は為松達に近づいた。
 為松の足を恐ろしいほどの力でギュッと掴んでいる河童の手。
 そのヌメッとした河童の手をナナ太郎の華奢な手が掴み取り振り払う。
 河童はナナ太郎に振り払われた勢いで、堀の中にざぶんと大きな水しぶきを上げ勢いよく落ちて行った。
 「おまえ、何するんだ」
 頭に血が上り堀の中から飛び出してきた河童は、今度はナナ太郎めがけて掴みかかるが、ナナ太郎はそれをヒョイッとかわし逆に河童の腕を捻じ曲げる。
 「おまえ……」
 河童とナナ太郎はお互いに睨み合っていた。
 突然、河童はハッと何かに気づいて首をかしげた。
 「おまえ懐に何か……そう言えばお前のような人間は今までに見た事がないな。いや、辻占をしている魔物とも聞いたが、人間なのか? 魔物なのか? いったい何に属するんだ。おまえは何者だ?」
 河童は、さらにナナ太郎を睨む。
 「人間だよ」
 河童は、しばらくナナ太郎を睨んでいたかと思うと、肩の力がフッと抜けたのが分かった。
 「俺にはとうていかなわないって感じだな。その懐……肝にあるものに免じて許してやるよ」
 分が悪い筈の河童だが、それでも強がって声の調子は張っていた。
 「何を言ってるんだ。許して欲しいのはお前の方だろ。二度とこんな事はしないと約束すれば手を離してやる」
 ナナ太郎は捻じ曲げた河童の腕をますます強く握る。
 「……もうしないよ」
 小さい声で発したその言葉を聞いたナナ太郎が手を離すと、河童は素早く堀の中に飛び込んだのだった。
 「な~んてな。お前なんかその懐にあるものがなかったら大した奴じゃあないんだろうさ。覚えてやがれ!」
 堀の底から響くような大きな声で怒鳴ったかと思うと、今までの駆け引きがうそのようにあたりは静かになった。
 「あの……」
 それまで事の成り行きをドキドキしながら見守っていたお可奈が、ナナ太郎の前におずおずと進み出る。
 「あの、助けていただいてありがとうございます。私はお可奈と申します。こっちは為松。後で何かお礼をしたいのですが。あの…お名前を教えてくださいますか?」
 「ああ、お礼なんていらないです。それより、魚篭を投げ出してしまって魚は堀に落ちてしまったし、魚が返ったんだから河童も後は追わないでしょう。あなた達ももうここへは来ない方がいいと思いますよ」
 「助けていただいたのに何もしないなんて事、おとっつあんに知れたら叱られます。あの、あなた様はここら辺りに住まわれておいでなのですか?」
 「いえ、今日はたまたまこの界隈に立ち寄っただけですよ」
 そう言いながらナナ太郎はお可奈たちの横をすり抜け、後ろを振り返る事もなく去って行った。
 
 ナナ太郎というあの人は確か占い師とか河童が言っていたけれど、いったいどこで占いをしているのかしら……。

 河童に足を掴まれ、とんだ怪我をして足を引きずっている為松に、後を追うようにとも言えず、ただただその姿を目で追うしかないお可奈のその胸は、初めての切ない思いで痛んでいた。
 そして為松は、お可奈のその様子に動揺している自分をはっきりと自覚する事になったのだった。
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