オオカミ様の契約婚約者になりました――兄がやらかしたので、逃げます!――

ととせ

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41 羽立野家

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 明興がカフェで騒ぎを起こす少し前に時間は遡る。

 羽立野家はたてのけの客間では、当主夫人の峰子みねこが優雅にワイングラスを傾けていた。

(彩愛さんが明興の婚約者になってから、良いことばかりだよ)

 元は芸者をしていた峰子は剛蔵に見初められ、上手く正妻の座に納まった。血筋を重んじる親族からは煙たがられたが、いま峰子を煩わせる者達はこの屋敷に居ない。

 跡取りだった剛蔵の実兄は死に義両親も亡き今、ただ一つの問題は家督を継ぐ権利のある三葉の存在だけだ。

「……全く使えないやつばかりだ」

 峰子とは反対に、向かいのソファで苛々と煙草を吹かす剛蔵を見て峰子は内心ため息を吐く。

「まだ三葉は見つからないんですか? 羽立野の使用人は術を使えるんじゃなかったの?」
「神排をして力が落ちたらしい。まさか使用人達まで力を失うとは計算外だ」

 本家筋の剛蔵も術を使えて当然だが、才能がないらしくちょっとした失せ物探しくらいしかできないと知ったのは籍を入れてからだ。

 それでも羽立野の財で術士を雇えばよいと考えていたが、事態は思わぬ方向に転がっている。
 まさか三葉がこの家から逃げるとは思ってもみなかった。出自は『妾の子』として育ててきたが、もしかしたら誰かが真実を伝えて逃がしたのかもしれない。

 そうなれば自分達は窮地に立たされる。
 しかし運は剛蔵と峰子に味方したようだ。

「お父様、お母様! ただいま戻りました」
「桃香、こんな時間までどこへ行って……」
「良いことがあったから、お友達と流行のバーで飲んでいたの」

 あっけらかんと答える桃香に、剛蔵は眉間の皺を深くして峰子を見遣る。
 しかし峰子はどこ吹く風で、娘を叱るどころか庇う始末だ。

「別にいいじゃないか。私なんかもっと小さい頃からお座敷に出ていたんだよ。このご時世、女だって酒を飲めなきゃなめられちまうよ。それで、良い事ってなんだい?」
「三葉を捕まえたわ! シエキを使ったの!」

 襖を開けて飛び込んできた娘の桃香が、誇らしげに言い放ち胸を張る。

「どうして連れ帰らなかった!」

 褒められると思っていたのに、どうしてか父は顔を真っ赤にして桃香を怒鳴りつけた。
 桃香はきょとんとして、剛蔵を見返す。

「だって、あんな女顔も見たくないもの」
「捕まえたならそれでいいじゃないですか。あんな子を家に入れるなんて、私は反対よ」

 身柄さえ抑えられれば、別に羽立野家に連れ戻す必要はないのだ。

「しかし……」

 娘と妻に反論され、剛蔵が苦虫を噛み潰したような顔になる。
 とその時、騒ぎを聞きつけたのか彩愛が部屋に入って来た。

「あら、何か楽しいことがあったのかしら?」

 まだ十七歳だというのに彩愛は酷く大人びており、その声には老成した貴婦人のような落ち着きがある。
 彼女が言葉をかけると、一家は自然と彩愛に対して頭を下げた。

「皆さん顔を上げてくださいな。私は明興さんの許嫁となったのですから、家族として接してほしいとお願いしているでしょう?」
「いゃあ、神排の重鎮である彩愛様に、そう気安い態度は……」
「そうよね! 彩愛さんは家族ですもの」

 ぱあっと笑顔になった桃香が、冷や汗をかく父を無視して彩愛に抱きつく。
 そして、三葉を捕まえ、彩愛が投資を斡旋したカフェで働かせる事に成功したと耳打ちする。

「まあ! 素晴らしいわ桃香さん。こんなに早く三葉が手に入るなんて予想以上よ」

 普段柔らかい微笑みしか浮かべない彩愛が、珍しく破顔した。自分の娘以外の若い女を褒めることなどない峰子でも、その艶やかな笑顔に見惚れる程だ。
 なので剛蔵が、息子の許嫁だと忘れて劣情を覚えたのも仕方のない事だろう。

「これも彩愛さんのおかげだわ」

 懐から出て腕に絡みつくシエキを桃香はまるで子猫でも愛でるように撫でた。

「このシエキという式神はとても優秀ね」
「それは桃香さんの能力が高いからよ」
「そうなの?」

 シエキは使う人間の能力と同等の力を発揮するのだと、彩愛は分かりやすく説明してくれる。

「この子達は、怒りや憎しみといった負の感情を食べて成長するの。食われた人間は、負の感情が減った分、美しくなるのよ。ほら、髪が艶やかになっているでしょう?」

 白魚のような彩愛の指が、桃香の栗色の髪に絡む。髪はするりと指から滑り落ち、電灯の明かりにキラキラと輝いた。

「嫌いな相手に負の感情をぶつけて美しくなれるなんて素晴らしいわ! 神排になってよかった」
「私も肌が十年は若返ったわ。化粧の乗りが違うのよ」
「まあお義母様でしたら、化粧なんて必要ありませんわ」
「あらあら、彩愛さんはお上手ね」

 笑い合う三人の女を前にして、剛蔵だけが気まずい様子で小さくなっている。

「お義父様もシエキをお使いになればよろしいのに」
「……それはまあ、追々……しかし彩愛さん、先日のパーティーからどうにもうちの評判が思わしくない。幾つかの事業も、頓挫してしまった。どうにかならんか?」
「焦ってはいけませんよ。本当に私たちの利益となる家をふるいにかけている所なのです」

 羽立野家でシエキを使っていないのは、剛蔵一人だ。当主として術の能力もない上に、神排をしたので神の加護は全くなくなっている。

 だからシエキを持つべきだと峰子からも散々言われているが、踏ん切りが付かないでいる。

「桃香さんが三葉を手に入れてくださったことですし、何も不安に思うことはありませんわ」

 そう彩愛に諭されてしまうと、剛蔵は何も言えなくなる。最初は美しい娘を迎え入れることができたと、単純に喜んでいた。
 神排の一員で、それなりの地位にある彩愛が息子に嫁げば、当然羽立野家の地位も上がる。財界でも一目置かれると喜んでいたのだが、最近はどうにも彩愛と居ると調子が狂う。

「あら、丁度明興さんもお帰りになったみたいだわ」

 玄関の方を見遣って、彩愛が呟く。玄関から客間までは距離があるので、扉を開ける音は聞こえない。なのに彩愛は全ての事に耳ざとく、時に気味悪く思えるほどだ。

 数分後、彩愛が言ったとおり明興が興奮した様子で家族の集まる客間に姿を現す。

 そして大神と商談が纏まったと意気揚々と告げたのだ。

「あの大神家か! しかし神排ではない者に融資を受けるのは納得いかん」

 苛立つ剛蔵に、明興は苦笑で返す。

「父さんは黙っててくれないか? 彩愛も賛成してくれるだろう?」
「ええ、勿論ですわ」
「彩愛様。先日聞いた話と違うのでは……?」
「お義父さま。何ごとも柔軟に考えてくださいまし。神排でなくとも、手を取り合える相手はおります。そしていずれ、神排の素晴らしさを知ることになるでしょう。それがたとえ、大神家であっても」

 やんわりと、しかし冷たい声音の彩愛に剛蔵が視線を逸らす。

「暫くは様子を見ましょう。ね、明興さん?」
「そうだよ父さん、彩愛の言うとおりだ。大神がうちについたと知れ渡れば、他の連中も頭を下げに来る。今は羽立野家が財界になくてはならない存在だと知らしめるのが先決だ」

 息子の言葉は尤もだ。
 しかし……その隣で微笑む彩愛が、理由分からないがどうしても恐ろしかった。

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