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最終話 春うらら
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春の穏やかな日差しは温かいけれど、時折流れる風はまだ少し冷たい。
澄み渡る青空には、綿あめのような雲が浮かんでいる。
外に出るのは久しぶりだ。
この数日は入院していて、ずっと病室にこもりきりだったから。
まぶしさに目を細めながら、深く深呼吸をする。
ほのかな花の香りに、病院の花壇に目を向けた。
「きれいでしょ」
私の隣で、小春さんが笑った。
こっちがアネモネ、こっちはラナンキュラスで、などと次々紹介してくれるものの、チューリップなんかのわかりやすい花以外は到底覚えられそうにない。
「お天気が良くてよかったわね」
「はい。明日から雨の予報ですもんね」
「お迎えは?」
「今車を回してくれています」
言い終わるころに、黒いコンパクトカーが病院のロータリーに停まった。
運転席から降りた父がトランクを開け、荷物を乗せてくれる。
荷物といっても、大きなボストンバッグと紙袋程度だけど。
「娘がお世話になりました」
「いえ、今回は私は担当外なので」
「もちろん担当してくださったみなさんにも感謝しています。でも、こまめに様子も見に来てくださったと聞きました。娘も心強かったはずです」
「そんな……」
小春さんは困ったように眉を下げた。
でもありがたかったのは本当だ。
不安な入院生活のなか、小春さんと過ごす時間は気を楽にしていられた。
あの非日常的な日々から、もう10年もの時間が過ぎたのかと思うと感慨深い。
普通じゃない自分のことがずっと大嫌いだった。
両親との関係に悩み、居場所なんてどこにもないと思い込み、どこかへ消えてしまえたらいいとさえ思っていた。
恭太さんに出会い、もやのコントロールを学び、父の愛情を知った。
つらいことも数えきれないほどあったけれど、あの日々がなければ、私はきっとこんな気持ちで今日という日を迎えることはできなかっただろう。
あの日、この病院で凪さんに出会ったこと。
そして恭太さんへとつないでもらえたことこそが、私の人生において一番の幸運だったといえるかもしれない。
いや。
小さくかぶりを振って、腕にちょっとだけ力を込めた。
一番の幸運はやっぱりこっちの方だなぁと、頬を緩ませる。
「寝てるのか?」
小声で父が問う。
目尻も眉も下がりきった、なんとも情けない表情には、ただただ愛おしいという感情だけが詰まっているように見えた。
私の腕の中でうぞうぞと蠢く小さな生き物。
何かを探すように彷徨う手に誘われるように父が指を差し出すと、きゅっとその手が握られた。
「見ろ!手、手握った!じいじがわかるんでちゅかぁ?」
小声ではしゃぐ父に苦笑いしつつも、それが赤ちゃん特有の反射であることは口にしなかった。
こんなに楽しそうなのに水を差すのは、なんだか悪い気がして。
「それじゃあ、気をつけてね」
「はい、ありがとうございます」
手を振る小春さんに会釈を返して、私は車に乗り込んだ。
チャイルドシートの使い方は確認していたが、実際に装着するとなるとスムーズにいかず、少し手こずる。
抱っこじゃだめなのか、と言う父に「危ないから」と返すと納得したようで、装着を手伝ってくれた。
車は実家に向かって走り出す。
母との関係は相変わらずだったから、本当は里帰りせず、自宅に戻ろうと思っていた。
でも夫と父が揃って泣きそうな顔で懇願してくるので、根負けする形でしばらく実家のお世話になることを決めたのだ。
大学進学を機に家を出たから、実家で暮らすのは8年ぶり。
夏休みや年末年始に帰省はしていたけど、数日で自宅に戻っていたから、これからしばらく実家で過ごすのだと思うと不思議な感じがする。
妹はすでに家を出ているし、父も仕事があるから、日中のほとんどは母と過ごすことになるだろう。
そう思うと、どうしても少し憂鬱だった。
「おかえりなさい」
迎え入れてくれた母に礼を言う。
家の中は綺麗に整えられていて、私と赤ちゃんが過ごせるようにと一階に部屋が用意されていた。
両親の寝室だったはずの部屋だ。
てっきり自分の部屋を使うものだとばかり思っていたが、母に「階段の上り下りなんて危ないじゃない」と当然のように言われてこそばゆい気分になった。
陣痛が予定日よりも3週も早く来てしまったので、実家の部屋の用意は夫と両親に任せきりになってしまった。
少し不安だったが、気合を入れて準備してくれたらしく、選んだ覚えのない育児用品がいくつも並んでいる。
「これ、こんなにどうしたの?」
「いや、頼まれてたものを買いに行ったら、ほかもあれこれ気になって……つい」
「ついって……」
だいぶ予算オーバーしちゃったな、なんて思いながらも、好意として素直に受け取る。
どうせ両親だけでなく、夫も次々カートに入れていったのだろうと容易に想像できたから。
幸い、夫とふたりでコツコツ貯めた貯金もそれなりの額がある。
このくらいの出費なら、なんとかなるだろう。
「大丈夫、費用はこっちで出したから!」
「は?何言ってんの、ちゃんと払うから!」
「出産祝いだと思って受け取りなさい」
「お祝いはもうもらったでしょ?これ以上は悪いよ」
「頼むよぉ。初孫に浮かれる年寄りの気持ちを理解してくれよぉ」
「なにそれ」
まさかの出資者に頭を抱える。
夫が素直に出してもらうとは思えないが、どうせこのノリで押し切ったのだろう。
父は例の一件以来何かが吹っ切れたらしく、信じられないほど押しが強くなった。
親の愛を免罪符に、私やのどかに手間もお金もどんどんかけるようになってきて、遠慮してもどこ吹く風でかわしてしまう。
ちなみに以前恭太さんに愚痴をこぼしたら、実家から逃げる必要がなくなったから、財布の紐が緩んだんじゃない?と笑われて納得した。
それが何とももどかしくて、でも嬉しいとも思ってしまうのは、ずっと両親の愛情を疑って生きてきたからなのかもしれない。
「……ありがとう」
少し硬い顔でそう言う私に、両親は嬉しそうに微笑んでくれた。
※
うつらうつらと意識が揺蕩う。
産後の身体はまだ万全には程遠く、それに昼夜を問わない育児が重なり、時折強い眠気に襲われる。
少し眠ろう。
布団に身体を横たえて、瞼を下す。
ゆらゆらと揺れる意識が沈んでいくような感覚を感じていたとき、ドタバタと激しい物音がして、私の意識は引っ張り上げられた。
そのまま部屋の扉が勢いよく開かれる。
ゼーゼーと息を切らしながら飛び込んできた夫を咎めようと思った瞬間、力強い鳴き声が響き渡った。
「もう、せっかく寝てたのに」
「ご、ごめんっ」
文句を言いながら、赤ちゃんを抱き上げる。
「手、洗った?」
「いや、まだ」
「じゃあ、早く洗ってきて」
「わかった!」
またドタバタと洗面所にかけていく後ろ姿を見送って、私は軽くため息をついた。
そのままリビングへ向かい、ソファに腰かける。
キッチンでは、両親が並んで料理をしていた。
正確には、料理をする母にまとわりつく形で、父が手伝いをしているのだけど。
まるで子どものお手伝いのような拙さだけど、母もまんざらではなさそうだ。
「洗ってきた!」
そう言って、夫が得意気に両手を広げて見せる。
私は笑いながら「よろしい」と言って、赤ちゃんを夫の腕に預けた。
「……うわぁ~……何回持ってもこえぇ」
「そろそろ慣れるころじゃないの?」
「いや、無理無理。壊しそうで怖い。でも抱っこしてたい」
デレデレと目尻と眉を下げている姿は、昼間の父に似ていた。
愛しさがあふれかえっているような、甘く優しい眼差しを見ていると、泣き出してしまいそうな気分になる。
「今日迎えに行けなくてごめんな」
「ううん。お父さんが来てくれたから」
「急なトラブルでさぁ、帰ってもいいって言われたんだけど、担当俺だし、結構面倒そうな内容だったから」
「うん。お疲れ様」
夫は私の肩口に頭をぐりぐりと押し付けてくる。
両手には赤ちゃんを抱っこしたままだから、頭しか使えなかったのだとわかって苦笑した。
「そっちこそ、お疲れさん。身体だいじょーぶ?」
「うん」
「ほんとは?」
「……あんまり?」
「だよなぁ。ごめんな、代わってやれなくて」
何を言っているんだと思わないわけでもないけど、本気で言っているのだから文句も言えない。
代わりに肩口に乗っかったままの頭を撫でてあげる。
父に見咎められたらうるさいので、少しだけ。
キッチンからは、おいしそうな匂いが漂っている。
今日は退院祝いだと、母が腕をふるってくれているのだ。
「ありゃ」
ぶわりとあふれ出るもやに、私は微笑んだ。
「おむつかな?お腹すいたかな?」
ふにゃふにゃと夫の腕の中で動く赤ちゃんの頬をつんつんと優しく突きながら問いかける。
「おむつ替え、俺やりたい」
「おっきい方かもよ?」
「別にいいよ」
じゃあよろしく、と言いつつも、部屋へ向かう夫のあとをついていく。
病院の面会時間は短くて、夫はおむつ替えの経験はほとんどないから心配なのだ。
夫に密着するように歩くと、器用に上半身をこちらに傾けてくる。
そういうじゃれあいがなんだか心地よくて、私は声をあげて笑った。
「あ、あの写真、懐かしいな」
部屋の壁には、写真がいくつも飾られている。
その中のひとつを見て、夫が目を細めた。
2年前の結婚式の写真だ。
身内だけで済ませた小さな式だった。
写真の中で幸せそうに寄り添う私たちの周りには、うっすらもやが包み込んでいる。
あの日はまるで夢みたいで幸せで、どうしても抑えることができなかったのだ。
「お前のもいい色だけどさ、この子のもやも、きれいな色だな」
夫が穏やかな声で言った。
生まれたばかりでまだ判断はつかないけれど、多分この子は負の感情が高まったときにもやが溢れるのだろう。
眠っていたり、機嫌よく起きているときはもやが出ないから十中八九そうだろうと、父が言っていた。
陽だまりのようなオレンジ色のもやを慈しむように眺める夫を見て、改めてこの人を選んでよかったと思う。
おむつを替えてもらってもなお機嫌が悪そうな赤ちゃんを抱き上げて、そのもやに包まれる。
昔は心底嫌いだったもやも、我が子のものだと思えばいとおしい。
「あぁ……幸せ……」
腕の中の確かなぬくもりを抱きしめながら、しみじみ呟いた。
私は今日も、これからも、温かなもやの中で生きていく。
(終)
-----------------------------------------------------------
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました!
ちなみに夫は雪成くんです。
長い交際期間を経て、無事にゴールインしました。
澄み渡る青空には、綿あめのような雲が浮かんでいる。
外に出るのは久しぶりだ。
この数日は入院していて、ずっと病室にこもりきりだったから。
まぶしさに目を細めながら、深く深呼吸をする。
ほのかな花の香りに、病院の花壇に目を向けた。
「きれいでしょ」
私の隣で、小春さんが笑った。
こっちがアネモネ、こっちはラナンキュラスで、などと次々紹介してくれるものの、チューリップなんかのわかりやすい花以外は到底覚えられそうにない。
「お天気が良くてよかったわね」
「はい。明日から雨の予報ですもんね」
「お迎えは?」
「今車を回してくれています」
言い終わるころに、黒いコンパクトカーが病院のロータリーに停まった。
運転席から降りた父がトランクを開け、荷物を乗せてくれる。
荷物といっても、大きなボストンバッグと紙袋程度だけど。
「娘がお世話になりました」
「いえ、今回は私は担当外なので」
「もちろん担当してくださったみなさんにも感謝しています。でも、こまめに様子も見に来てくださったと聞きました。娘も心強かったはずです」
「そんな……」
小春さんは困ったように眉を下げた。
でもありがたかったのは本当だ。
不安な入院生活のなか、小春さんと過ごす時間は気を楽にしていられた。
あの非日常的な日々から、もう10年もの時間が過ぎたのかと思うと感慨深い。
普通じゃない自分のことがずっと大嫌いだった。
両親との関係に悩み、居場所なんてどこにもないと思い込み、どこかへ消えてしまえたらいいとさえ思っていた。
恭太さんに出会い、もやのコントロールを学び、父の愛情を知った。
つらいことも数えきれないほどあったけれど、あの日々がなければ、私はきっとこんな気持ちで今日という日を迎えることはできなかっただろう。
あの日、この病院で凪さんに出会ったこと。
そして恭太さんへとつないでもらえたことこそが、私の人生において一番の幸運だったといえるかもしれない。
いや。
小さくかぶりを振って、腕にちょっとだけ力を込めた。
一番の幸運はやっぱりこっちの方だなぁと、頬を緩ませる。
「寝てるのか?」
小声で父が問う。
目尻も眉も下がりきった、なんとも情けない表情には、ただただ愛おしいという感情だけが詰まっているように見えた。
私の腕の中でうぞうぞと蠢く小さな生き物。
何かを探すように彷徨う手に誘われるように父が指を差し出すと、きゅっとその手が握られた。
「見ろ!手、手握った!じいじがわかるんでちゅかぁ?」
小声ではしゃぐ父に苦笑いしつつも、それが赤ちゃん特有の反射であることは口にしなかった。
こんなに楽しそうなのに水を差すのは、なんだか悪い気がして。
「それじゃあ、気をつけてね」
「はい、ありがとうございます」
手を振る小春さんに会釈を返して、私は車に乗り込んだ。
チャイルドシートの使い方は確認していたが、実際に装着するとなるとスムーズにいかず、少し手こずる。
抱っこじゃだめなのか、と言う父に「危ないから」と返すと納得したようで、装着を手伝ってくれた。
車は実家に向かって走り出す。
母との関係は相変わらずだったから、本当は里帰りせず、自宅に戻ろうと思っていた。
でも夫と父が揃って泣きそうな顔で懇願してくるので、根負けする形でしばらく実家のお世話になることを決めたのだ。
大学進学を機に家を出たから、実家で暮らすのは8年ぶり。
夏休みや年末年始に帰省はしていたけど、数日で自宅に戻っていたから、これからしばらく実家で過ごすのだと思うと不思議な感じがする。
妹はすでに家を出ているし、父も仕事があるから、日中のほとんどは母と過ごすことになるだろう。
そう思うと、どうしても少し憂鬱だった。
「おかえりなさい」
迎え入れてくれた母に礼を言う。
家の中は綺麗に整えられていて、私と赤ちゃんが過ごせるようにと一階に部屋が用意されていた。
両親の寝室だったはずの部屋だ。
てっきり自分の部屋を使うものだとばかり思っていたが、母に「階段の上り下りなんて危ないじゃない」と当然のように言われてこそばゆい気分になった。
陣痛が予定日よりも3週も早く来てしまったので、実家の部屋の用意は夫と両親に任せきりになってしまった。
少し不安だったが、気合を入れて準備してくれたらしく、選んだ覚えのない育児用品がいくつも並んでいる。
「これ、こんなにどうしたの?」
「いや、頼まれてたものを買いに行ったら、ほかもあれこれ気になって……つい」
「ついって……」
だいぶ予算オーバーしちゃったな、なんて思いながらも、好意として素直に受け取る。
どうせ両親だけでなく、夫も次々カートに入れていったのだろうと容易に想像できたから。
幸い、夫とふたりでコツコツ貯めた貯金もそれなりの額がある。
このくらいの出費なら、なんとかなるだろう。
「大丈夫、費用はこっちで出したから!」
「は?何言ってんの、ちゃんと払うから!」
「出産祝いだと思って受け取りなさい」
「お祝いはもうもらったでしょ?これ以上は悪いよ」
「頼むよぉ。初孫に浮かれる年寄りの気持ちを理解してくれよぉ」
「なにそれ」
まさかの出資者に頭を抱える。
夫が素直に出してもらうとは思えないが、どうせこのノリで押し切ったのだろう。
父は例の一件以来何かが吹っ切れたらしく、信じられないほど押しが強くなった。
親の愛を免罪符に、私やのどかに手間もお金もどんどんかけるようになってきて、遠慮してもどこ吹く風でかわしてしまう。
ちなみに以前恭太さんに愚痴をこぼしたら、実家から逃げる必要がなくなったから、財布の紐が緩んだんじゃない?と笑われて納得した。
それが何とももどかしくて、でも嬉しいとも思ってしまうのは、ずっと両親の愛情を疑って生きてきたからなのかもしれない。
「……ありがとう」
少し硬い顔でそう言う私に、両親は嬉しそうに微笑んでくれた。
※
うつらうつらと意識が揺蕩う。
産後の身体はまだ万全には程遠く、それに昼夜を問わない育児が重なり、時折強い眠気に襲われる。
少し眠ろう。
布団に身体を横たえて、瞼を下す。
ゆらゆらと揺れる意識が沈んでいくような感覚を感じていたとき、ドタバタと激しい物音がして、私の意識は引っ張り上げられた。
そのまま部屋の扉が勢いよく開かれる。
ゼーゼーと息を切らしながら飛び込んできた夫を咎めようと思った瞬間、力強い鳴き声が響き渡った。
「もう、せっかく寝てたのに」
「ご、ごめんっ」
文句を言いながら、赤ちゃんを抱き上げる。
「手、洗った?」
「いや、まだ」
「じゃあ、早く洗ってきて」
「わかった!」
またドタバタと洗面所にかけていく後ろ姿を見送って、私は軽くため息をついた。
そのままリビングへ向かい、ソファに腰かける。
キッチンでは、両親が並んで料理をしていた。
正確には、料理をする母にまとわりつく形で、父が手伝いをしているのだけど。
まるで子どものお手伝いのような拙さだけど、母もまんざらではなさそうだ。
「洗ってきた!」
そう言って、夫が得意気に両手を広げて見せる。
私は笑いながら「よろしい」と言って、赤ちゃんを夫の腕に預けた。
「……うわぁ~……何回持ってもこえぇ」
「そろそろ慣れるころじゃないの?」
「いや、無理無理。壊しそうで怖い。でも抱っこしてたい」
デレデレと目尻と眉を下げている姿は、昼間の父に似ていた。
愛しさがあふれかえっているような、甘く優しい眼差しを見ていると、泣き出してしまいそうな気分になる。
「今日迎えに行けなくてごめんな」
「ううん。お父さんが来てくれたから」
「急なトラブルでさぁ、帰ってもいいって言われたんだけど、担当俺だし、結構面倒そうな内容だったから」
「うん。お疲れ様」
夫は私の肩口に頭をぐりぐりと押し付けてくる。
両手には赤ちゃんを抱っこしたままだから、頭しか使えなかったのだとわかって苦笑した。
「そっちこそ、お疲れさん。身体だいじょーぶ?」
「うん」
「ほんとは?」
「……あんまり?」
「だよなぁ。ごめんな、代わってやれなくて」
何を言っているんだと思わないわけでもないけど、本気で言っているのだから文句も言えない。
代わりに肩口に乗っかったままの頭を撫でてあげる。
父に見咎められたらうるさいので、少しだけ。
キッチンからは、おいしそうな匂いが漂っている。
今日は退院祝いだと、母が腕をふるってくれているのだ。
「ありゃ」
ぶわりとあふれ出るもやに、私は微笑んだ。
「おむつかな?お腹すいたかな?」
ふにゃふにゃと夫の腕の中で動く赤ちゃんの頬をつんつんと優しく突きながら問いかける。
「おむつ替え、俺やりたい」
「おっきい方かもよ?」
「別にいいよ」
じゃあよろしく、と言いつつも、部屋へ向かう夫のあとをついていく。
病院の面会時間は短くて、夫はおむつ替えの経験はほとんどないから心配なのだ。
夫に密着するように歩くと、器用に上半身をこちらに傾けてくる。
そういうじゃれあいがなんだか心地よくて、私は声をあげて笑った。
「あ、あの写真、懐かしいな」
部屋の壁には、写真がいくつも飾られている。
その中のひとつを見て、夫が目を細めた。
2年前の結婚式の写真だ。
身内だけで済ませた小さな式だった。
写真の中で幸せそうに寄り添う私たちの周りには、うっすらもやが包み込んでいる。
あの日はまるで夢みたいで幸せで、どうしても抑えることができなかったのだ。
「お前のもいい色だけどさ、この子のもやも、きれいな色だな」
夫が穏やかな声で言った。
生まれたばかりでまだ判断はつかないけれど、多分この子は負の感情が高まったときにもやが溢れるのだろう。
眠っていたり、機嫌よく起きているときはもやが出ないから十中八九そうだろうと、父が言っていた。
陽だまりのようなオレンジ色のもやを慈しむように眺める夫を見て、改めてこの人を選んでよかったと思う。
おむつを替えてもらってもなお機嫌が悪そうな赤ちゃんを抱き上げて、そのもやに包まれる。
昔は心底嫌いだったもやも、我が子のものだと思えばいとおしい。
「あぁ……幸せ……」
腕の中の確かなぬくもりを抱きしめながら、しみじみ呟いた。
私は今日も、これからも、温かなもやの中で生きていく。
(終)
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最後までお付き合いくださり、ありがとうございました!
ちなみに夫は雪成くんです。
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