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23 愛とは
リネアが去ろうとしていることを知り、一睡もできないまま朝を迎えた。
何も考えられないまま兵舎に向かった。その日は、1対1の模擬試合を行う予定だった。
それほど疲れていないはずだった。なのに体以上に心が重く、まるで力が入らない。
イアンデはたいてい、どんな騎士でも一撃で打ち負かすことができる。けれどその日は、部下の兵たちに次々に切り伏せられた。防御すら上手くできず、いつの間にか全身が打ち身だらけになっていた。刃先を丸めた訓練用の剣でなければ、一体何回死んでいたことだろう。
今日のイアンデなら勝てるかもと、周りにのせられた従士のレオにすら負けるほどだった。あまりに情けない状態なので、笑っていた者たちも徐々に顔を見合わせて不安げな顔になり、ついには体調が悪いのではとおろおろと心配しだした。
少し休んだほうがいいと腕を引っぱられ、誰もいない休憩室に押し込まれる。
部屋の隅で壁を見つめていると、分隊長のラグナルと、副官のエドミュアが入ってきた。
ラグナルが、イアンデの背中をバシリと叩く。
「イアンデ、リネア様と何があったんだ?」
「…………なぜ、リネアが原因だとわかる」
「お前がポンコツになるのは、リネア様絡みと決まってるからな」
ラグナルは「世話が焼けるなあ」と言いながら、イアンデの隣の椅子にドカリと腰掛けた。
「悩みがあるなら言ってみろ。番を愛することにかけては誰よりも詳しい俺に、安心してすべてを吐き出せ」
自信に満ちた笑みを向けたラグナルと、無言で冷静な眼差しを向けるエドミュアを見つめる。
こんな個人的な話をして良いものかと一瞬迷う。けれど相談できるのは付き合いの長いこの二人くらいだと思い直し、重い口を開いた。
「出て行くそうだ」
「え? リネア様が? なんでまた急に」
「王命がなくなった。もう結婚する必要がない」
「はあ? なんだそれ?」
「昨日俺とリネアに、それぞれの国から通達があった」
ラグナルは大きく目を見開いて驚いた。彼には以前、リネアに番痕をつける瞬間を見られている。番のいる狼獣人であるラグナルは、それが何を意味するかを身をもって理解しているのだろう。
「それでお前……言われるがまま結婚をやめるのか? 無理だろう……? ここまできて、今さら」
「無理だ。だから俺は、王命がなくなっても、リネアと結婚するつもりだった……だが…………」
「リネア様は、違った、というわけだな」
静かに会話を聞いていたエドミュアが、はじめて口を開く。
「お二人は、満月の夜を一緒に過ごされたんじゃないんですか? それならもう、既成事実があるのでは?」
「いや、あれは……そこまでのものではない」
明け透けな内容を口にするのが気が引けるが、率直に話さなければ相談にならない。
ラグナルが「よく我慢できたな」と感嘆の声を上げる。
「出て行こうとしてるなら、そんなのもう、なんとしてでも止めないとダメじゃないか。リネア様を、愛しているんだろう?」
「愛…………?」
「お前、まだそんなこと言ってるのか? あれだけ、べったべたの、ぎっとぎとに、痕をつけておいて」
確かに痕はつけた。匂いも噛み痕も思うがままに残した。
番にしたい――目の前のこの人を、丸ごと自分のものにしたい。リネアを前にすると、そんな込み上げる衝動を抑えることができなかった。
けれどその気持ちを、愛と呼んでいいのかわからなかった。それはこんな淀んだ感情ではなく、もっと美しく清らかなものだと想像していたからだ。愛と呼ばれる物がどんなものかわからなかった。本当は存在しないのではないかとすら思っていた。
愛なんて幻想だ。
誰かがその言葉を口にするたび、そう思っていた。
しかもイアンデは、自分の気持ちを言葉にするのが苦手だという自覚があった。そもそも自分自身ですら、自らの気持ちがよくわからないことが多い。
リネアのことを考える。
心の奥で、名前のない感情たちがぐちゃぐちゃと複雑に絡み合っていた。そのもつれを注意深くほどきながら、どうにか言葉を紡いでいく。
「愛かどうかは、わからないが……リネアが喜んでくれると、俺も嬉しくなる。リネアが悲しそうにしていると、守ってやりたくなる。傍にいると、幸せな気持ちになる」
「……イアンデ。そんな台詞、誰がどう聞いても、リネア様を愛していると言っているとしかしか聞こえないぞ。傍にいてほしいなら引き留めないと駄目だろう?」
「だが、リネアはここにいて、幸せなのかがわからない。引き留めていいのかも」
イルヴァとエリクは、逢瀬を重ね、深く想い合い、共にいることを選んだ。
しかしリネアは違う。命令でこの地に来たのだ。おそらく断ることなど不可能だっただろう。
その命令がなくなった今、リネアは別の道を選ぶことができる。こんな異種族だらけの場所ではなく、大勢の仲間がいる、兎獣人の国に帰ることができる。
生まれ育った、家族が待つ故郷に。
ラグナルが太い腕を組み、難しい顔で唸った。
「それは、リネア様に聞いてみないとわからないな」
「リネアに聞いた。ここから出て行くと……王命がなくなったからと、笑っていた」
黙ってイアンデの言葉を聞いていたエドミュアが、冷静な声を上げる。
「イアンデ様は、ご自分の気持ちをリネア様に伝えたんですか? ちゃんと、言葉で」
「俺の、気持ち?」
「はい。傍にいてほしいんですよね? リネア様に」
「……いや、言葉では、伝えていない、気がする」
エドミュアが眉をぎゅっと顰め、はあ、と深くため息をついた。ガタン、と椅子が倒れる音と共に、ラグナルが立ち上がる。
「そのせいじゃないのか? リネア様が出て行くって言ってるのって。だってあの人、いつも周りにめちゃくちゃ気を遣っているだろう? 本心じゃないんじゃないのか? だって知らないんだろう? お前の気持ちを」
狼獣人には、愛を言葉で語る習慣はない。
その愛を乞う匂いづけだけで、言葉以上に想いの全てが伝わるからだ。
エドミュアが呆れたように言う。
「イアンデ様。リネア様は違う種族なんです。ただでさえイアンデ様は無表情でわかりにくいんですから、ちゃんと言葉で言わないと、伝わりません」
「言葉で、伝える……」
ラグナルがイアンデの顔を覗き込み、大きく声を張り上げた。
「いいのか? リネア様がこのままいなくなっても。引き留めるかどうかなんてそもそも迷う事じゃない。引き留めた上でどうするかを、リネア様が決めるんだから」
エドミュアとラグナルの言葉ひとつひとつが、ぐさぐさと胸に突き刺さるかのようだった。刃物でえぐられたように心が痛むのは、それがすべて図星だったからだ。自分の甘さも、愚かさも、誰より自分自身が一番よくわかっていた。
「そうだな……二人の言う通りだ」
言い返すこともできず、耳を下げて俯いた。
するとエドミュアが、ふっと、吹き出す音が聞こえた。
「動揺しすぎですよ、イアンデ様。何をしたらいいのか、わからないんですよね? だって、人をこんなふうに好きになるのは初めてなんでしょう? 俺は子供の頃からイアンデ様を知っています。嬉しいですよ。イアンデ様がようやくそういう方と出会えたのだと」
エドミュアが一歩近づき、ラグナルと並び立つ。イアンデの肩あたりにチラリと視線を落としたあと、その瞳を見上げた。
「少しでも可能性があるなら、それに賭けるべきです。だってリネア様だって、イアンデ様に匂いをつけてくれたんでしょう?」
エドミュアの言葉に、イアンデは、はっとする。
王宮に向かう前日の夜に、リネアが自分につけてくれた小さな痕。その匂いは、もうほとんどわからなくなるほどに消えかけていた。
初めてつけてもらえた瞬間の、震えるほどの喜びがよみがえる。
兎獣人なのに。本来匂いなんてまるでわからないはずなのに。まさかつけてもらえるなんて、夢にも思っていなかったのだ。
その奇跡のような痕が残る首筋に、イアンデはそっと触れる。
目線をあげると、エドミュアが笑みを浮かべていた。ラグナルはイアンデの背中を、励ますようにバシンと叩く。
イアンデは二人に礼を言い、部屋を後にした。訓練場の部下たちにも声をかけに行くと「こんな所にいる場合ではないだろう」としっしっと迷い込んだ野良犬にするように追い出されてしまった。
兵舎の外に出る。見渡す限り広がる庭園の先に聳え建つ、ノースエンド城に向けて足を踏み出した。気持ちがはやり、早足になる。今すぐリネアに、会いに行かなければならなかった。
(早く城に、帰らなければ)
ふいに頭に浮かんだ台詞に、思わずはっとした。
“城に帰る”
こんな風に思うなんて、昔の自分から思えば考えられないことだった。城を与えられたものの住む気にはなれず、今まで通り兵舎で寝泊まりすればいいと思っていた。馬鹿でかいばかりのがらんとした城が、自分の家だなんて到底思えなかったからだ。
家族のいたことのない自分には、今まで帰るべき場所があったことがない。
子供の頃に王宮の兵舎にいたときも、休暇で周りの者たちが嬉しそうに実家に帰って行くのをただ見送るだけだった。その後、誰もいなくなった訓練場で、一人黙々と鍛錬を続けていた。
家というものが、家族というものが、どういうものか全くわからなかった。
だから記憶にある限りでは、特に恋しいとか寂しいとか、そういう感情はなかったはずだった。
自分にとっては、それが当たり前だったから。
だから結婚をしろと命令が下っても、まるでピンとこなかった。
面倒を見る部下が一人増えるのか、くらいの気持ちだった。だから結婚相手なんて誰でもいいと思っていた。
我ながら、投げやりなひどい態度だったと思う。
なのにリネアは文句ひとつ言わずに、持てる力を尽くして、この荒れ果てた城を立派な貴族の城へと磨き上げてくれた。
いつの間にか、空からぽつぽつと細かい雨が降り始めていた。かすかな霧雨の感触を頬に感じながら、城に辿り着く。
イアンデは、城の玄関口の重い扉を開いた。
その先には、誰もいなかった。
かつてこのエントランスホールは、埃が積もり、カーテンは破れ、床も石がむき出しで、廃城そのものの殺伐とした場所だった。
今や床には清潔な絨毯が敷かれ、調度品はピカピカに磨き上げられ、棚には花まで飾られていた。
そこは完璧に整えられた、貴族の城だった。
けれど。
城として必要なものは何もかもがあるというのに、そこは寂しい場所に成り果てていた。
自分が欲しいと思えるものは、何ひとつない。
そう、感じた。
「おかえりなさい。イアンデ様」
帰れば必ず、ここにはリネアがいてくれた。
足音を聞きつけて、ラベンダー色の澄んだ瞳を輝かせて。
待っていてくれる人がいた。
抱きしめることができる人がいた。
口づけを受け入れてくれる人がいた。
いなくなって初めて、それは何物にも変え難い幸せな瞬間だったことに気づいた。
これまでずっと一人で生きてきた自分は知らなかったのだ。帰るべき場所に、大切な人がいてくれるという喜びを。
誰でもいいなんてことは、絶対にない。
ここにいなければいけないのは、触れると少し恥ずかしそうに笑いながら、嬉しい匂いをこぼれさせてくれる、小柄な兎獣人のこの人でなければならなかった。
真っ暗で冷たい城に、リネアは光を灯してくれた。あたたかな命を吹き込んでくれた。殺伐としたこの場所を、帰りたい我が家に変えてくれた。
彼の存在がこの暗闇を、かけがえのない美しい場所へと輝かせていた。
その瞬間、イアンデは初めて理解したのだ。
リネアを想う時、胸に込み上げるこの気持ちが、なんであるのかを。
その感情を、愛と呼ぶのだと。
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