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王の側妃
しおりを挟む俺の名前はアルアリック・ドラケンソウル。強大な王国、ヴァルドリアの第一王子であり、王位継承者である。
――少なくとも、表向きは、まだそう呼ばれてはいる。
しかし今、この玉座の間の重い空気が、全てを物語っていた。七ヶ月前、偉大なる父王マグヌス・ドラケンソウルが、一人の女を連れてきてから、全てが歪んでしまったのだ。
「……何か言いたいことはあるのか、アルアリック。」
玉座から響く低い声は、以前のような温かみを一切感じさせない。
「いいえ、父上。」
俺は恭しく頭を下げる。だが、拳は知らず知らずのうちに硬く握りしめられていた。
その女――リアナ・ヴェイラ。
炎のように揺らめく艶やかな赤髪。透き通るような碧い瞳。どこに立っても、周囲の光を全て吸い込むような、圧倒的な美貌の持ち主だ。
彼女の到来は、父王の心を動かしただけでなく、ゆっくりと、確実に、王国の基盤、そして俺自身の人生までも蝕み始めている。
* * *
ほんの数ヶ月前まで、城はもっと違う空気に満ちていた。
母后が二人目の子を身ごもり、新しい命の訪れを祝う祝宴の準備が、城内を活気づけていた。俺はあの頃、愚かにも思っていた。我々は完璧な家族であり、この王国の繁栄は永遠に続くのだと。
しかし、それは過ちだった。
ヴァルドリアの街並みを眺めれば、誰の目にも明らかだ。
先の大戦は、我々の「勝利」で終わった。だが、それはどんな代償を払っての勝利だったのか?
数えきれぬ兵士の命。王国の財宝の大半。撤退する敵軍は、我が国の豊穣の象徴であった小麦畑を焼き払い、食糧の供給源を絶った。
勝利の名の下に、我々はむしろ膝をつき、這いつくばるような状態に追い込まれたのだ。
「増税と食糧制限が必要だ。」
父王は議会でそう宣言した。表向きは「戦後の復興のため」。しかし、その結果は明白だった。
城壁の内側では、相変わらずパンは焼かれ、肉や葡萄酒が宴会に並ぶ。一方で、城下町では――。
「聞こえていますか、陛下。民の叫びが。」
書斎で、俺は父王に直訴した。
「彼らは飢えています! 『王族は飽食している』という噂が広がり、反乱の気配さえあります!」
「アルアリック。」
父王の声は冷たく鋭い。
「お前はまだ若い。政治とは、時に痛みを伴う選択をすることだ。王国全体を守るためには、一部の不満は……やむを得ない。」
「一部の不満、ですって? それはあまりに――」
「よかろう!」
机を叩く音が書斎に響き渡る。
「この話はここまでだ。お前は王太子としての務めを果たせばそれでよい。余計な外出は控えよ。特に、変装しての城下への潜入など、以ての外だ。」
父王は全てを知っていた。俺が密かに城を抜け出し、民の声を聞きに行っていたことを。
そして、そこで見たものは、絶望そのものだった。
痩せ細った子供たち。希望を失った大人たちの眼。そして、俺に向けられる、偽りのない憎悪の言葉。
「王子様、何がお出来るというおつもりですか?」
「城の中では、美味しいもの食べてるんでしょう?」
「俺たちの苦しみが、分かるわけがない!」
俺は何もできなかった。何も言えなかった。ただ、無力さが歯がゆく、胸を締め付ける。
* * *
そんな混乱の最中、父王は新たに併合した領土への視察に向かった。遠く離れた地域だ。ダリウス将軍をはじめとする側近と精鋭兵たちに護衛され、馬車で向かうという。
俺は同行を許されなかった。代わりに、城に流れてくる報告や、廷臣たちの囁きが、情報源となった。
「――現地の状況は、予想以上に悪いようです。」
遠征から戻った伝令の報告は重苦しかった。
「食糧不足は深刻で、疫病も広がりつつあります。ダリウス将軍は、早急な支援を要請していました。」
玉座の父王は、微動だにしない。
「ダリウスは何と言っている?」
「は、はい。将軍は『このままでは、多くの死者が出る』と……」
「……よかろう。」
父王の言葉は、あまりに冷淡だった。
「ならば、死ぬ者がいても仕方あるまい。ヴァルドリア本国の安定が最優先だ。併合地など、二の次で構わぬ。」
その言葉を聞いた時、背筋に凍りつくような寒気が走った。これは、かつて民を慈しんでいた父ではない。別人だ。
一方、現地での父王は、ある意味で歓迎されていたようだ。本国では憎悪の的となっている王が、征服された土地では、新たな支配者として、ある者は畏れ、ある者は(わずかな希望を抱いて)讃えていた。
その歓声が、父王の心を微妙に変質させていった。ダリウス将軍の忠告も虚しく、王は予定を延長し、その地に留まることを決断する。旧王宮の温泉を楽しみ、贅沢な時間を過ごしたという。それは、危険な逃避であり、現実からの遊離だった。
* * *
そして、運命の日が訪れる。
王が街を閲兵中、事件は起きた。
「やめろっ!」
誰かの怒声。そして、何かを殴打する鈍い音。
群衆がざわめく。その中心で、一人の男が、赤毛の若い女性を激しく打ち据えていた。
「この疫病神め! お前が来てから、全てがおかしくなった!」
「お願いです……やめて……!」
女性は地面に転がり、必死にうずくまる。そのはだけた服の肩から、白い肌がのぞく。
「衛兵! 何をしている!」
ダリウス将軍が鋭く叱責する。衛兵が動こうとしたその時――。
「待て。」
父王の低く、しかし威厳に満ちた声が、全ての動きを止めた。
「我が自ら対処する。」
王はゆっくりと馬車から降り立つ。黒い王の外套が風に揺れる。腰には、純黒の輝きを放つ伝説の剣、オブシディア。
群衆は道を開き、息を殺して見守る。王は悠然と歩み寄り、今まさに再び振り上げられた男の手首を、鉄の掟のように固く掴んだ。
「我の面前で、無粋な真似をすることではたいした度胸だな。」
父王の声には、静かな怒りが込められている。しかし、その眼は――倒れている女性を見つめていた。
「か、王様!? 申し訳ございません! こ、この女が――」
「弁解は聞き飽きた。」
王は男をぽいと衛兵に押しやる。
「不敬罪として処刑せよ。」
一言で、男の運命が決まった。哀願する声は、衛兵たちによって遮られる。
そして王は、倒れている女性の前にしゃがみ込んだ。
「怪我はないか?」
「……はい。陛下、お気遣い……痛。」
立ち上がろうとして、足元をふらつく女性。王は素早くその細い腰を支えた。
その瞬間、彼女の顔が間近に見える。涙で曇った碧い瞳。打たれて赤く腫れた頬。それですら損なわれない、妖精のような可憐な美貌。
ふわりと甘い香りが漂う。
「お、おそれおおい……すぐに離れます……」
「気にすることはない。」
王の声は、なぜか以前の俺が知っていた、どこか柔らかい響きを帯びている。
「お前はもう安全だ。」
王はダリウス将軍を見た。
「ダリウス、この者を宮殿に連れて行け。医師の手当てを受けさせ、清潔な服と食事を与えよ。」
「陛下? それは……」
ダリウス将軍は困惑の色を浮かべる。しかし、王の意志は固い。
「我が言った通りにせよ。」
「陛下……どうか、そんな……わたしのような者が……」
女性は俯き、もじもじと服の裾を弄る。そのしぐさが、かえって無防備な魅力を際立たせる。
「構わぬ。」
父王は微笑んだ。この数ヶ月間、見たことのない穏やかな笑顔だった。
「これも、王の務めだ。」
女性は衛兵に導かれながら、去り際に一瞬、父王を見上げた。そして、ほんのり、かすかに――しかし、確実に、唇の端を上げた。
それは、感謝の笑みとも、媚態とも、勝利の微笑とも取れる、危険なものだった。
そして、父王の瞳の奥に、一筋の狂おしいほどの執着の炎が灯るのを、ダリウス将軍も、遠く離れた城でこの報告を聞く俺も、感じ取っていた。
これがすべての始まりであった。
リアナ・ヴェイラという名の女が、運命の舞台に登場した瞬間。
やがて王国を、王族を、そして俺自身をも飲み込んでいく、側妃との出会い――。
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