余り侍~喧嘩仲裁稼業~

たい陸

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「そんな顔をするな」
 正貫和尚は、布団の上で、胡坐をかいていた。高昌寺の和尚が倒れたと聞いて、急いで駆け付けてみれば、いつも調子である。余一郎は、露骨に嫌な顔をする。

「儂はもう少ししたら、死ぬるよ」
 人はいずれ死ぬ。それが早いか、遅いかだけの話しで、自分にその番が回って来ただけだと和尚は笑う。

「くそ坊主がそう簡単にくたばるものか」
 余一郎は、殊更に悪態をついていたが、報せを聞くと、すぐに寺へ駆け出した事をあんずは知っていた。

 いつもなら、余一郎が悪態をつけば、和尚もそれに応戦してきた筈だが、今日は、勝手が違っていた。和尚は、あんずの顔を見やると言った。
「一蔵が殺される前に、ここに来た」

 和尚は決意した様子で、あんずへ語り始めた。それは、あんずが求めていた、或いは、知らない方が良かったかもしれない真実であった。

「彼の者は、ひょっとすると殺される事が分かって居たのかもしれない」
 いや、小津藩に留まっていた事、それら全てが、自らの運命を受け入れていたからではなかっただろうか。

 一蔵は、わしに言ったのだ。
「自分のせいで、息子は死んだのだと」
 自分と殿様(泰英)のせいで、大勢の人が死んだと。

 一蔵は、それ以上の事を話そうとはしなかった。いくら聞いても、どうしても話さない。涙ながらに、申し訳ないと、繰り返すばかりだった。
「今から思えば、あれは死を覚悟した、己の懺悔だったのだろう」

 それから、すぐに一蔵が殺された。そして、この寺に、お前とあんずが訪ねて来た。わしは、一蔵の言葉の意味を解き明かさねばならないと考えた。
「そして、知ったのだ」

 正貫和尚は、目を閉じて、一つ息をゆっくりと吐いた。
「きっかけは、吾郎佐と話した事だ」
 幕府から下賜された五千両を盗んだ犯人は、前藩主泰英公だ。そして、その片棒を担いだのが、あんずの義父一蔵だった。

「あんず、すまなかった」
 拙僧がもっと早く、吾郎佐にこの事を聞いておけば良かったのだ。そうすれば、一蔵は死ななくとも良かったもしれない。和尚は、深々とあんずに頭を下げた。

 あんずは、和尚の言葉に混乱して、訳も分からず、頭を下げていた。あんずだけではない。余一郎も勘一郎も、ここに居る誰もが、和尚の言葉に、ただただ黙っていたのだった。

「それは、間違いないのか?」
 暫くの沈黙の後、ようやく口を開いたのは、余一郎であった。疑うか?無理もない。しかし、吾郎佐とわしの知り得た事を繋ぎ合わせれば、そうとしか考えられぬのだ。

 和尚の言葉が真実であろうと、三人も思っていた。今までに起った、様々な事柄が、その事実を語っていた。一蔵殺しに、泰英の変死、泰文に吾郎佐、事件に関わったと思われる藩の大物が相次いで死んでいる。そして、その死の全てに、香戸晋太郎と葦の女が絡んでいる。

「だとすると、晋太郎はこの事を知っているのか?」
 それは、当然と言うべきであっただろう。晋太郎は、泰英も一蔵も親の仇だと言った。そして、泰文を殺した事も、復讐に違いなかった。だとすれば、彼の復讐は全て終わったのだろうか。

「晋太郎を内之子村へ送ったのは、儂じゃ」
 奴の父が死んだ後に、縁合って、わしが伊賀崎のお主の縁者へ頼んだのだ。これも、余一郎が初めて知る事であった。

「無論、奴に事件の事を話した事はない」
 香戸晋太郎という男は、真っ直ぐな侍じゃ。純粋過ぎる程にな。それが、いつしか、大それた事をしでかしてしまいよったわい。和尚は、口惜しそうに言う。

 晋太郎は、父の死に疑問を持ち、己で調べていく内に、真実へ辿り着いたのだろう。それは、父に全ての濡れ衣を着せて殺し、自分達だけのうのうと生きている絶対である筈だった、主への憎悪へと昇華されたのだ。

「おい、糞坊主よ。富之助にこの事を話したな」
 余一郎は、確信に近い思いを和尚にぶつけた。それを聞いた正貫は、ただ黙って頷いた。全く何て事だ。あの野郎は、自分だけ先に真実を知った上で、父親の悪事を隠すつもりなのだ。自分の悪名と引き換えにして。

「話しは終わった。養生しろよ、糞坊主」
 最後まで悪態をついて、余一郎はあんずと勘一郎に行くぞと声を掛けると、忙しく部屋を出て行ってしまった。あんずは、和尚にお礼と言うと、余一郎を慌てて追いかける。最後に残った勘一郎は、先程の会話でも、一言も話さなかったが、和尚と目線を交わすと、やはり何も語らず、一礼だけを残して、去って行くのだった。

「会わずとも良かったのか?」
 誰も居なくなった一室で、和尚は、隣室の方へ向かって、独り言のように呟く。すると、隣室の襖が動いて、一人の男が和尚の側へとやって来た。香戸晋太郎であった。

「今はまだ決着の刻では無い」
 晋太郎は、どかりと枕元へ腰を降ろす。一つ言わなかったな。和尚の顔を覗くと、不敵な笑みを浮かべる。

「何のことだ?」
 惚けやがる。禅問答のつもりかと晋太郎が返す。盗まれた五千両の行方の事だ。

「和尚には、見当がついているのではないか?」
 今度は、険しい表情で、寝たままの和尚を覗き込む。

「何でもかんでも、拙僧に聞くな。仏様とて、分からぬ事もある」
 だがな知っておるのではないか?今度は、和尚が晋太郎の顔を覗き込む番であった。

「お主の身近に居る者がな」
 お主には、とうに分かっておるのではないか?真の敵が誰であるかを。

 そこまで語った後、和尚は疲れたので眠ると言ったきり、横を向いてしまった。言葉の真意を計りかねたが、晋太郎はそのまま寺を去った。

 高昌寺の正貫和尚が亡くなったのは、それから数日後の事であった。いつものように、寺男が起こしに行くと、眠ったままの姿で、何とも安らかな表情をしたまま亡くなっていたという。小津が大霧に包まれたある日の早朝の事であった。



「勘一郎、謎が残ったままだぞ」
 吾郎佐、正貫和尚と真相を知る人達を相次いで亡くし、余一郎は焦っていた。そうだ。盗まれた五千両は一体どこへ消えたのだろうか。

 公金が盗まれたせいで、あんずの実父も、晋太郎の父も死なねばならなかったのだ。そして、その金の穴埋めの為に、泰英は重税を民に課した。この根底が崩れようとしている。泰英が遊興をしていたという証拠も無い。ならば、五千両もの大金を着服した動機はなんだったのだろうか。

「これを知る可能性があるのは…」
 やはり富之助であるだろう。もう一度、袂を別った筈の弟と、相見えなければならない。

「嫌だね。絶対に」
 勘一郎にもう一度殿様に会いに行けと言われて、余一郎は駄々を捏ね出した。お前、そんな事を言っても、話しが先に進まないではないか。

 行け!行かぬ!これを長屋中に聞こえるような大声で、二人で繰り返している。そんな侍達の様子を大笑いしながら、あんずは見守っている。そんないつもの日常を送っていた時であった。

「また揉めているの?相変わらずね」
 気が付くと、開け放たれた長屋の今にも壊れそうな戸が開かれていて、そこには、小柄な笠を挿した人物が一人立っていた。

「そんな事では、喧嘩仲裁屋の看板が泣いていますよ」
 笠を少し上に向けると、見たことがある顔が、というかよく知った顔、まさかここに居る筈がない顔がそこにはあった。

「東姫様!」
 最初に気づいたのは、あんずであった。気付いて直ぐに姫に抱きついたのだ。普通なら、大名の奥方に抱きつく事など許されない事であったが、東はあんずを本当に愛おしそうに抱きしめたのだった。

「お、お、おまっお前な!」
 指さして、言葉にならない声を発する余一郎であった。

 一体どうして、何故お前が小津に居るんだ?余一郎からの質問攻めに、東姫は素知らぬ顔で、旅の埃りを落している。男装して、江戸より旅をしてきたのだろうという事は、一目で分かる。あんずが、姫の脚を洗う為に、桶に水を汲んでいる。

「江戸から抜けて来ました」
 あんずに桶の礼を言うのと、同じ口調で、とんでもない事を口走る。

「東の方様、抜けて来たとは?」
 思わず勘一郎が口を挟む。東姫は、富之助が新藩主となって後は、東の方様と呼称されるようになっていた。

「このような文を受け取ったからには、大人しくしてられないでしょう?」
 東姫が余一郎の目の前に出したのは、あんずから姫へ充てた文であった。そこには、余一郎と富之助の不和に関する事や、今までに起った事が認められていたのだった。

 大丈夫です。影武者?影姫の立て方は、一郎殿の時で学びましたから。姫はそう言って、胸を張る。しかし、大名の身内が江戸を抜けるというのは、この時代の誰しもが知っている重罪であった。人質が勝手に抜けては、国の統制が取れる筈も無く、もしも露見すれば、姫の命どころか、藩の行く末に関わる大事となるだろう。

「そこまでして何故?この事、富之助は知っているのか」
「貴方達兄弟の不和が、この藩の大事ではないのですか?」
 余一郎は呆れながら、姫のいつもの我儘だという口調で言ったのだが、それに対する姫の答えは、怒気が含まれていたものだった。

「私が勝手に姫様に文を送ったから…御免なさい」
 二人の間に流れる不穏な空気を察して、居たたまれなくなったあんずが口を開いた。
 あんずは、そのまま下を向いて黙ってしまう。
「とにかく、お前はすぐに江戸へ戻れ」
 これ以上の面倒は御免だ。そう言い放って、あんずに声を掛けず、余一郎は部屋を出て行ってしまった。

「大丈夫よ。私がきっと仲直りさせるから」
 私はその為に、戻ってきたのだから。不安な表情のあんずを気付かうように、東姫は笑顔を向ける。そして、その笑顔を後ろに居た勘一郎にも向ける。

「井上殿、手伝って頂けますか?私に考えがあります」
 勘一郎は、困惑した。こういう時、こういう言い方をする姫が、騒動を巻き起こす事を、経験上知っていたからだった。姫の話しを聞いた勘一郎は、分かりましたとだけ言うと、部屋を出たのだった。

 翌朝、勘一郎は城へと向かっていた。御勤めの為の登城ではあったが、それ以外にも目的があった。それは、昨日、東姫に頼まれた事が関係していたのだった。
「さぞ、驚かれる事だろう」
 一つ溜息を付いて、城の大手門を潜る。気が乗らないのは自分でもよく分かって居た事であった。自分は一体、何をやっているのだろうか?本気で心配になってくる。

 城内で御勤めを終えた勘一郎は、そのまま下城せず、人目を気にしながら、ある一室へ忍び入る。そして、室内を見渡し、ある小箱に目を止めると、それを開けて、懐より出した紙を丁重に小箱に入れると、また元に戻した。その部屋は、以前余一郎らと供に訪れた富之助の私室であった。

「クソ、何をしているだ一体」
 思わず悪態をついてしまう。自分がやっている事に疑問を持ちながら、勘一郎はその部屋から、人目を避けて出るのだった。

 とおりゃんせ、とおりゃんせ、ここは、どこの細道じゃ。わらべ歌が聞こえてくる。長屋の近くで、遊び戯れる子供達の様子を、余一郎は腰かけて、酒の肴にして眺めている。輪の中心には、あんずの姿が見える。時折、こちらを見ては、楽しげに手を振っている。

「今はまだ子供だが、大人となるのはすぐだぞ」
 いつの間にやら、城の御勤めから戻った勘一郎が、立っていた。余一郎は何も答えない代わりに、酒で満たした杯を勘一郎の前に、無造作に突き出した。

「分かっているさ」
 それだけを言うと、勘一郎が呑んで返した杯を再び満たし、また杯を傾ける。余一郎の分かっているという言葉が、どこまでの意味か、勘一郎には計りかねたが、奴なりにこの先の事を考えてはいるのだろうと、理解する事にしたのだった。

「何だこれは?」
「何って?貴様宛ての恋文だな」
 懐より差し出した文を余一郎の鼻先にチラつかせる。毟り取るように受け取ると、中に目を通す。一目すると、チラリと勘一郎を見る。

「俺は頼まれただけだ。中は知らぬぞ」
 俺に凄まれても、筋違いとばかりに、勘一郎は両手の平を余一郎に示して見せた。
「分かったと伝えておけ」
 どうせ、お転婆姫の差し金だろう。そう余一郎は言った。そして、残った徳利の酒を杯に注がず、直に胃袋へと流し込むのだった。
 
 明日、亥の刻に彼の地にて、会いまみえし候、必ずお一人にて、お願い申し上げ候、そう認められた文を握り締めながら、富之助は城を一人で抜け出していた。警護の家臣には、申し訳ないが、抜け出す事にすっかりと慣れてしまっていた。

「確かめねば、ならぬだろう」
 文には、東と記してあった。思いがけない、江戸に居る筈の妻からの文に、罠を疑ったものの、文と一緒に包まれるようにあった椿の花の模様を施した見事なかんざしを見て、これは、東からの文に違いないと確信したのだった。

 もし違ってとしても、彼女に身に何等かの事態が起こった結果である事は、容易に予想出来た。つまりは、行くしかないのだ。
「少し早く着き過ぎたか…」

 生真面目な性格である富之助らしく、予定の時刻より、随分と早く着いてしまったようだ。文に書かれた彼の地とは、二人がまだ夫婦となる前の時期に、始めて出会った高昌寺の近くにある小高い丘の上に植えられた椿の樹の事を指していた。この樹は、小津藩初代藩主加戸泰光が、小津藩の未来を見守る守り神になるようにと、思いを込めて植えたものであった。その樹の下に腰掛けながら、富之助は、薄霧のかかった月をぼんやりと眺めていた。

「富之助か?」
 暗がりの中から声がする。提灯の明るさが目に染みた。
「兄上…何故?」
 余一郎が目の前に立っている。富之助の頭の中に、疑問が広がる。この文は兄が、東の名を語って記した事か?一体、何の為に。

「こんな時刻に一体何の用だ?」
 月明りに照らされた余一郎は、富之助の疑念を更に膨らませる事を言う。見れば、兄一人だけの様子だ。明らかに、機嫌の悪そうな顔をし、決して自分とは、目線を合わそうとはしない。嫌々この場に来ている事が明白であった。

「どうやら、兄弟二人して嵌められたようです」
 余一郎の様子に、可笑しくなって少し笑ってしまう。

「貴様が呼んだのだろう?」
 何を言ってやがる。余一郎は腕を組んで、鼻を鳴らす。その様子に、富之助は増々可笑しさを感じていた。だが、それから兄弟は、何も言わず、語らず、ただ黙ってぼんやりとした月を見上げているのだった。

「もうじれったい。二人とも何をやっているのです」
 暗闇から声が聞こえると、東姫がもう見てられないとばかりに、姿を現した。その後ろには、申し訳なさそうな顔をしたあんずと、勘一郎も居た。

「東、やはりか。一体どうして?」
「その話は後で。今は二人の和解こそ、肝要ではないですか?」
 夫からの問いかけよりも、二人に仲直りして欲しい。それが東姫の願いであった。その為に、彼女は江戸から抜けて来たのだから。

「私は特に何も、仲違いなどしておらぬ」
「またそのような事を」
 兄弟喧嘩の仲裁であった筈が、何やら夫婦による喧嘩が勃発しそうな勢いであった。

「殿、東の方様のお話しによれば、何やら幕府の動きが怪しゅう御座る」
 殿様と正室との事に口を挟むのは憚られるが、勘一郎は仲裁に乗り出す。今はそんな余裕など無いのだ。

 東姫の話しを聞けば、どうやら、この小津藩へ、幕府の密偵が入り込んでいる様子なのだ。そして、江戸でその動きを察知した頃、あんずより、兄弟の不和が知らされる。もしや、余一郎の存在が幕府に知られて、それを元に何等かの暗躍で、小津藩を貶めるつもりかもしれない。

「だとすれば、一郎殿を江戸へ行かせた私の責任です」
そう思うと、東姫は、居てもたってもいられなくなってしまったのだ。

 小津へ大名の正室が抜け出して来る事の方が、危ない橋ではないのか?と富之助は言った。余りにも危険過ぎると。
「私しか、お二人の間を取り纏め出来ぬでしょう」
 したり顔で東姫がそう言うのを見て、東姫らしいと余一郎は思った。

「皆、何をごちゃごちゃ言ってやがる」
 だいたい、富之助と俺は仲違いした訳では無いぞ。殿様の政が気に入らないだけだ。もっと民を労わる殿様であると、民百姓が勝手に思っていただけだ。

 余一郎は、そう言うと、その場に腰をおろした。兄のこの言葉は、どうやら、富之助はの胸に深く響いた様子であった。
「兄上、今すぐは駄目かもしれませぬが、これからの私を見て、御判断頂きたい」
 懸命な弟の問いかけであったが、当の兄は、月を見たまま何も答えようとはしなかった。

「何をやっているのは、余り侍よ!」
 皆が心配して、私もいっぱい心配して、東姫様も戻って来てくれたの。これ以上何を望むの?喧嘩仲裁の余り侍が、喧嘩を仲裁されてどうするの?

 あんずは、気持ちの限り、精いっぱいの声と表情で、目に涙を浮かべながら、余一郎に語りかけた。それまで、誰が何を言っても、動く気配の無かった余り侍は、それを言われちゃしょうがないと、ゆっくりと立ち上がる。

「おい、富之助よ。俺が気に食わぬ事をしてみろ。いつでも殿様を交代してやるぞ」
ようやく、兄弟が目線を合わせて、まともな会話を交わした。余一郎からの答えに、富之助は、一言「はい」と、短く応じた。だがそれで、この二人には十分であった。

 東姫は、ぎごちない兄弟の様子をじっと眺めていた。これでいい。自分が江戸より来なくとも、この二人は強い絆で結ばれた兄弟だから、きっと和解した筈だ。しかし、私はこの瞬間だけは、どうしても見ておきたかったのだ。本当に良かった。東姫は頬に流れる涙を拭いながら、それが人に知られぬよう、その場をそっと離れた。

「今夜はもう遅い。勘一郎の驕りで一杯やろう」
 余一郎からの提案に、勘弁してくれと、勘一郎が応じる。それを見て、富之助も笑っている。三人の侍は、まるで、童の遊び仲間ようだと、あんずは、思っていたのだった。

 あんずは、三人の後をついて行きながら、ふと、東姫が居ない事に気が付く。
「姫様は?」
 東、姫様、東の方様、皆で手分けして探すが、東姫の姿は、どこにも見当たらなかった。

「どうなってやがる」
 余一郎は激昂し、富之助は妻の身を静かに案じる。今から思えば、この姫の失踪が、これから起こる悲劇の始まりであった。


 
 余一郎らは、長屋に戻っていた。姫が戻っているかもしれないと考えたからだ。しかし、ここには、東姫の姿は無い。城に戻った形跡も無く、心当たりを探すも、手掛かりは無い。致し方なく、明るくなってから、手分けして探そうと考えていた時であった。何かが当った音がした。見ると、戸の障子を突き破って、小石が入ってきたのだ。

「何奴か?」
 三人の男で、すぐに外へ飛び出すが、この暗闇の中、小石を投げ込んだ犯人を捜すのは、不可能であった。部屋へ戻ると、先程投げ込まれた小石をあんずが拾っていた。その手の中には、小石を包んでいた紙があった。その紙には、こう記されていた。

(か弱き方をお預かりし候)

 か弱き方が、東姫を指している事は、言わずとも分かっていた。攫われた。誰に?どこで?愚問であった。こんな事を今の段階で仕掛けてくる者は限られている。

「行くぞ」
 余一郎が皆に言う。辺りには、いつのまにか大霧が発生し、隣家を確認するのも困難な状況であった。もうすぐ夜が明ける。それまでに決着をつける。余一郎の言葉に、その場に居た者で、反論する者などいない。

 東姫は、暗闇の中を一人で歩を進める。行き先を照らす、僅かな月灯りだけが頼りだ。だが、姫の足取りが、決して緩まる事は無い。急がねばならない。そうして、ようやく目的の場所に辿り着くと、ある一人の人物が姫を待ち構えていた。

「約束通り来たわね」
 姿を現したのは、葦の女であった。東姫は、下唇を噛みしめながら、女を真正面で見据える。ここは、小津城下を少し離れた場所にある廃寺であった。

「約束は守って貰うわよ」
 東姫は一人で、葦の女に対峙している。それは、お姫様次第よと、嫌味たっぷりにお姫様を繰り返す。人を見下し、嘲笑う女の声が耳障りだ。この女を野放しのは出来ない。姫は自らの懐に手を伸ばす。暗闇の中、その瞳が、決意に燃えているように、光って見えた。

 葦の女が一瞬、目線を外した。その隙を狙って、短刀を突き出す。覚悟!姫の決死の言葉と共に、葦の女は崩れ落ちる筈であった。
「そうはいかないわよ」

 それは、女の誘いの隙であった。姫は簡単に短刀を弾かれると、憐れにも、縛り上げられてしまった。葦の女は、弾いた短刀を拾い上げると、姫の首元へ突き付ける。
「覚悟は出来ております」
 姫は目を閉じると、自ら首を短刀へ差し出す。姫の首の皮膚が短刀へ密着すると、そこから、血が滴り首元を濡らしたのだった。

「それでは面白くないんでね」
 そう言うと、女は短刀を引っ込める。これから、あの兄弟は、お前を助けに来るだろう。そうしたら、一網打尽にしてくれる。お前は、あの兄弟の死を目撃した後に、嬲り殺しにしてくれるわ。

「卑怯者!約束が違う」
 葦の女の言葉に、姫は激しく抵抗しようとするが、縛られた身ではどうする事も出来なかった。

 あんずからの文を受け取った姫は、単身で江戸より小津へ帰った。その道中に、この女は、突如現れた。そして言ったのだ。小津に帰って思いを遂げたら、自分の元へ来るように。そうすれば、兄弟にも、小津藩にも、今後一切の手出しをしないと。

 この一方的な申し出が、罠である事は東姫にも分かっていた。しかし、姫は隙を見て葦の女を殺す事を決意し、それを実行する為に、女からの提案を受け入れたのだった。
「お前の命だけでも飽き足らぬ。あの兄弟も殺す。小津の全てを奪ってやる」
 葦の女の凄まじいまでの憎悪を姫は身体に感じていた。これが、この女の本性であった。しかし、一体何がこの女をここまでの化物に変えてしまったというのか。

「貴女は一体何者なの?」
 東姫が言葉にした謎が、事態の核心を思わず突いていた事に、姫自身も気づいていなかった。この女が新野藩の葦の女であれば、主である筈の泰文が死んだ今、一体何を目的として動いているというのか。

「お前には、関係の無い事だ」
 姫の言葉に、女は珍しく語気を荒げる。いつもは、人を嘲るような言葉を並べるのに。女にいつもの余裕が無くなっているのが見てとれた。

「是非に話して貰おうか?」
 大霧の中、寺の外より声が聞こえてきた。葦の女が慌てて、寺の朽ちかけた戸を開けると、そこに立っていたのは、香戸晋太郎であった。見れば、刀の柄に両手を当てて、いつでも抜刀出来る体勢を取っている。

「詳しく聞かせて貰おうか。お前は一体何者なのだ?」
 姫を放せと、晋太郎が迫る。葦の女は、姫の喉元に、再び短刀を突きつける。

「貴方様は、やはり悪人に為りきれぬ。姫を害する気など、最初から無かった」
「貴様に何が分かるか!」
 葦の女が言った事は、東姫にも薄々分かっていた。晋太郎は認めないだろうが、ひょっとすると、自分を害する者がいると噂を流して、警護を強化させる事で、自分の身を守ってくれたのかもしれない。その証拠に、余一郎が警護役に加わるのを待ってから、襲撃を掛けた過去があった。それは、余一郎と決着を着けたい一心であったかもしれなかったが。

「晋太、私はどうなっても構いません」
 瞬間、晋太郎と東姫の目線が交差する。姫はゆっくりと一つ頷く。
「観念するんだな」
 姫の覚悟を受け入れた晋太郎は、葦の女へ迫る。その殺気の凄まじさから、本気である事が明らかであった。

「観念するのは、貴様の方だ」
 女が左手を挙げると、数名の男達が、廃寺内へ侵入してくる。見れば、晋太郎が知っている顔ぶれであった。

「お前たちか。一体今までどこにいた?」
 その男達は、小津にて東姫を襲撃しようとした際に、雇った浪人たちであった。あの時は、何の役にも立たぬ者達ばかりであったので、すぐに見切りをつけたものと思っていたが、今日はどうにも様子が違った。

「貴様らも忍びか?」
 その身のこなしと、只ならぬ様子に、晋太郎は全てを悟った。これら全ての事が葦の女が仕組んだ陰謀であったのだ。役に立たぬ浪人を演じて、小津藩へ忍びこむ事に成功すると忽然と姿を消して、今再び現れたのだ。

「今一度聞くぞ。一体、今までこの藩で何をやっていた」
 言うが早いか、壮絶な斬撃の音と共に、晋太郎は正面に立っていた一人の男を、その居合いの業を持って、一撃に倒して見せた。

「流石は晋太郎様、だがここまでね」
 先手を取る事に成功した。狭い屋内での戦いは、居合いが有利なのが幸いした。しかし、抜刀してしまっては、居合いの業は使えない。女はそれを言ったのだ。葦の女を含めた手練れの忍び複数を相手に、一人で東姫の身を案じて戦うは、易しくはないだろう。

 晋太郎に忍び達がにじり寄る。じりじりと間合いを詰めて、一気に襲いかかる気なのだ。そうすれば、いかな達人と言えど、一溜りも無いだろう。

「来い!」
 それは、短いが覚悟を決めた男の咆哮であった。晋太郎の叫びと共に、忍び達は、容赦の無い攻撃を繰り返し、晋太郎の肩や腕を脚を斬りつけていく。晋太郎も斬られっぱなしでなるものかと、反撃を繰り出し、相手に手傷を負わせるが、致命傷までは与えられずにいた。

「晋太逃げて!」
 姫の叫びが、事態の切迫を示していた。万事休すか。次の攻撃が自分の最期となるかもしれない。晋太郎が覚悟を決めたその時であった。

 何かの大きな金属の当る音がした。その音のした方を見ると、見覚えがある槍が壁に突き刺さっていた。
「やれやれ、何とか間に合ったか」
 そこには、余一郎と富之助、勘一郎にあんずの姿があった。

「あんずは下がっていろ」
 優しく声を掛けると、まるで緊張感がない様子の余一郎が、壁に刺さった槍を抜く。
「晋太郎、小津に一体廃寺がいくつあると思ってやがる」
 この場所を報せた晋太郎に対する、それが、余一郎なりの礼であった。

「さてと、何だか見たことあるような顔ぶれだが、この双頭の槍の味を忘れたとは言わせぬぞ」
 余一郎からの戦闘開始の合図と共に、両軍は入り乱れて戦う。室内を飛び出した余一郎は、敵を数名引き連れて、槍が奮い易い境内を戦場と定めたようだ。

 そして、余一郎と背向いに、晋太郎が敵と対峙する。
「貴様、その傷で何の真似だ?」
 足手まといだ。ぬかせ!貴様こそ遅れを取るなよ。仇敵との思いがけない共闘に、余一郎の槍が唸りを上げて、暴れ始めた。

 一方、室内では東姫を人質に取る葦の女と対峙するように、富之助と勘一郎がいた。
「東、無事か?」
「はい、申し訳ございませぬ」
夫婦の会話は短いが、そこには、情愛が深く込められていた。

「女、お前は幕府の間者だな?」
 勘一郎は、蔑むような憐れむような口調で女に問う。それは、しかし、問いと言うよりも、確認という方が正しかったかもしれない。

「お前が幕府の忍びとして、新野藩へ入り、葦の者を演じていた事は分かっている。我が父を殺し、小津と新野を混乱させ、一体これ以上何が望みだ?」

 柔らかな物言いだが、それは鋭い指摘であった。富之助は亡くなった正貫和尚や、吾郎佐爺と、そして、父である泰英らの生前の言葉を紡ぎ、自分なりに整理して、この事実に至ったのであった。

「小津も新野も、全てを崩壊させる。それが我が望み」
 女はこれ以上に無い冷たい眼をしていた。貴様の父親は、殺したのではない。殺そうとしたら、勝手に倒れて死んでしまったわ。

 あの夜、江戸の小津藩上屋敷に忍び込んだ女は、藩主泰英の室内へ入り込む。そこで、余一郎と富之助が、双子の兄弟である事実を語り、泰英を脅したのだ。
「そして、あの消えた五千両の真実を突きつけた」
 泰英は激昂し、刀に手を掛けるが、そのまま倒れて、亡くなってしまったのだった。

「父は五千両を何に使ったのだ?」
「幕府重臣への賄賂さ」
 富之助の問いに、女は汚物を吐き出すかのように答えた。小津で双子の兄弟が禁忌である事は、幕府の重臣なら知っている。泰英は余一郎を殺したくなかった。亡くなった妻との約束を果たす為に。しかし、これが公となれば、小津藩に叛意ありと見なされてしまうだろう。幕府からの疑念を除く為に、泰英は我が子達の将来を五千両で買ったのだった。民への重税という鎖を代償として。

「貴様がこの藩へ仇なすのは、最早、幕府に戻れぬからだろう?」
 女の話しを聞いた勘一郎が、女の心情の奥底を突いた。幕府は新野藩の池之端泰文を籠絡し、小津藩の藩主にしてやると唆した。その為の工作を、女ら間者を使ってしていたのだ。しかし、賄賂を受け取り、後に泰英と泰文が死ぬと、用済みとなった潜入させた忍びたちを切り捨てた。この非情過ぎる仕打ちに、ついに女が事を起こしたのだ。

「総てだ!全て道ずれだ」
 女は狂ったかのように、絶叫した。いつの間にか、敵を全て倒した余一郎と晋太郎も駆けつけていた。

「許さぬぞ。今まで騙していたのか!」
 傷だらけになりながらも、敵を倒し息も上がっているが、晋太郎は女に迫る。
「可愛い晋太郎坊ちゃま。貴様が一番の滑稽だったわ」
 女が侮辱するように嘲笑する。女からのこれ以上に無い嘲りが、かえって晋太郎を冷静にさせたのか、反論せず、乱れた息を整えて、その時を待っている。

 何も言わない様子の晋太郎をせせら笑いながら、女は東姫を楯にした。
「兄弟で殺し合え。兄を刺せ!弟がやれ!」
 そうすれば、大事なお姫様は助けてやる。女はとんでもない事を迫る。さあどうする。すぐに姫様のか細い首に、突き立ててもいいんだぞ。

 女の鬼の形相に、皆動けないでいた。唯一人を除いては。余一郎は、愛槍を富之助に放ると、自らの左胸を右拳で、一回叩いた。
「それでここを突け。お前がやるんだ」
 お前はこの藩の主だ。それに、東姫はお前と夫婦だ。お前が助けないでどうする。余一郎は笑って言った。俺は喧嘩仲裁屋の余り侍だ。俺がやらなくてどうする。

「馬鹿な事を、今まで兄上がご苦労をされてきたのです」
 これ以上の犠牲を兄上に負わせる訳には参りません。富之助は即座に反論する。私はこの藩の主として、藩の者達を守る責務がございます。それには、兄上の命も入っておりまする。

 俺が私がと、互いに譲ろうとしない。いつも、相手を想うばかりに、反目しあってしまう。それが、この兄弟の絆であっただろう。
「いつまでやっている」
 これ以上、容赦はせぬぞ。痺れを切らした女が、姫の喉元に短刀を突き立てようとした瞬間であった。いつの間にか、余一郎の双頭の槍を手にしていた勘一郎が、女に向けて放ったのだ。放たれた槍は、見事に女の左肩を貫いた。

 反動で女は後ろに倒れた。その刹那、右手に持っていた小刀を余一郎目掛けて投げる。捕まっていた東姫は、富之助が見事に助けていた。機会を伺っていた晋太郎が、倒れた女の首元に剣先を突きつけていた。
 
「勘一郎!」
 余一郎を狙った小刀は、何と余一郎の前に立ちはだかった勘一郎の腹に、深く刺さっていたのだった。

「お前、何故?」
 崩れ落ちる勘一郎を抱きかかえるように、余一郎は勘一郎を床にそっと寝かせる。そして、小刀の刺さったままの腹部は、みるみる赤く染まっていく。余一郎は、その腹部へ、両手に力を込めて抑え込む。

「田嶋様の仇を取れました。私と田嶋様は、葦の者です。そして、余一郎様を守る護り人」
 息も絶え絶えに、勘一郎は自らの事を話し始めた。田嶋吾郎佐は、富之助の傅役となった時に、前藩主泰英より、もう一つのある重要な役目を課せられていたのだ。それは、忘れられた兄である余一郎を護り、葦の者として、新野藩を監視する役目であった。

「余一郎様の護り人である役目を果たせました。これで、田嶋の御頭に怒られずに済む」
「何を勝手な事を言ってやがる。勘一郎、貴様は俺の友じゃ。護り人など知るものか」
 それから程なくして、井上勘一郎は目を閉じた。余一郎の叫びに、友という言葉に、少し微笑んだかに見えた。

「井上様!」
 あんずの叫び声が、室内へ響いた。東姫は、富之助の胸の中で、嗚咽を漏らしていた。

「最後に言い残す事があるか?」
 剣先を光らせながら、晋太郎は怒気を含んだ言葉を女に投げかける。
「何を怒る?晋太郎様、貴様はよく踊ってくれた。お蔭で本懐を遂げられる」

 絶体絶命である筈の女であったが、これが、今より殺される者の態度かと思うほど、落ち着いて見えた。先程、勘一郎が投げた槍が、まだ左肩に刺さったままとなっているにも関わらずだ。

「まさか、あれを起こす気か?」
 女の言葉に、晋太郎が慌てる。ここまで、晋太郎が慌てる姿を見せた事はない。
「小津も新野も、加戸家も香戸家も滅びてしまえ」
 それが、葦の女と言われた、幕府の間者であった女の最期の言葉となった。言葉の途中で、晋太郎が女の左胸を正確に貫くと、そのまま仰向けに倒れたのだった。

 凄惨な幕切れであった。その場に生き残った者の中で、すぐに言葉を発する者が居なかった事が、その場の悲惨さを物語っていたようであった。

「おい、晋太郎よ、傷を見せてみよ」
 愛槍を回収した余一郎が、傷だらけの晋太郎へ声を掛ける。
「情けは無用だ。全てだ、全て滅びるぞ」
 血と油で汚れた刀を拭い、鞘へ収めると、晋太郎は去り際にそれだけを言った。これは脅しなどではないと。血走った眼で、狂ったのかと思わせる程の危機迫った表情で。思わず、余一郎が怯んでしまう程、晋太郎は張りつめた表情をしていた。

「一体、何の事だ?申せ」
 背中越しに、晋太郎へ投げかけるが、今に分かるとだけ残すと、晋太郎は身体を引きずるようにその場を去って行くのだった。辺りは、いつの間にか、大霧が晴れて、その隙間より、朝陽が見え始めていたのだった。
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