余り侍~喧嘩仲裁稼業~

たい陸

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 やっと辿り着いた伊賀崎の屋敷は、変わり果てた姿をしていた。
「どうしたというのだ?」
 蔵は打ち壊され、屋敷が荒らされていたのだ。

「奴ら、庄屋も商家も、見境い無しで襲っているのです」
 顔見知りの女中が泣きながら、教えてくれた。一揆は日に日に数を増してきて、今も近隣の村々から、この内之子へ集まっているとか。

「惣太郎兄上は?」
 余一郎を迎えた者たちの中に、惣太郎の顔が見当たらない。それどころか、余一郎の問いに、皆一応に黙って、下を向いている。

「惣兄!」
 惣太郎は、意識不明の重体となって、屋敷の一室で眠ったままであった。一揆勢が屋敷を襲った際に犠牲となったのだ。

「旦那様のお蔭で、私らは生き延びたのです」
 だけども、私らを逃がす際に、旦那様は一人屋敷に残られて、私らが屋敷の戻った時にはもう。

 あの優しい惣太郎が、傷だらけの顔をしている。余一郎は、無意識に両手を強く握り締めた。そのまま黙って、何やら思案すると、急に屋敷を飛び出す。後ろから、使用人たちに声を掛けられるも、その声は余一郎には、すでに届かない。怒りが頂点に達すると、途端に無口となって、周りが見えなくなる余一郎の癖が出ていた。

「おい、一揆の者たちは一体どこに?」
 村々を周っては、一揆の状況を確かめようとするのだが、いつもは、人のよい長閑な内之子の人々が、どうも様子がおかしい。誰一人として、余一郎の言葉に耳を傾ける者はなく、何やら脅えた様子なのだ。

「貴方様に言う事はねえ」
 顔見知りの婆様を捕まえて聞いてみても、この調子である。この村で少年時代を過ごした余一郎にとって、この村は故郷である。しかし、この村で代々暮らす百姓たちから見れば、余一郎は一時期、伊賀崎の御屋敷に居た、どこぞの若様でしかなく、余所様であった。

 そんな奥底にある気持ちの微小な因子が、この非情時に、表へ顔を覗かせてしまったのだろう。余一郎は、民を恨む気持ちにはなれなかった。

 余一郎が探す一揆勢は、内之子村の中心を流れる小田川の下流に集まっていた。その数はすでに数千人まで膨らみ、尚も増え続けていた。
「清兵衛さん、これからどうするんだ?」

 一揆の首謀者である清兵衛は、河原にいる集団の中心に座して、百姓たちに、この一揆が如何に重要で、自分たちが正しいかを説き続けていた。
「明日の夜明けを待って、小津城下へ向かう」

 清兵衛は、皆に告げる。数千の人数で、小津城下へ迎えば、城へ到着する時には、万を超える人数になるに違いなかった。今の一揆勢には、それだけの勢いが感じられる。
「奴らを許す訳にはいかねえ」

 清兵衛は、いつ頃からか、この藩の倹約令に対する疑念を持ち、それを百姓仲間に語って聞かせていた。藩の連中は、民に質素倹約だと言って、税を搾り取るが、藩に税を収めるまでに、年貢や税を管理する役人や、庄屋、大商人達に、自分達が汗水垂らして、作り上げた物を奪われている。

「オラ達の物を取り返すんじゃ」
 清兵衛の懐には、二十九条にもなる意見書が大事に収められていた。これを藩の殿様へ示して、自分達の強訴が、一方的な物でなない、やむにやまれぬ叫びである事を認めて貰いたい。その為には、命とて賭けよう。

「すべて清兵衛さんのおかげじゃ」
 一揆仲間が涙を流す。最初は小さな寄合のような物でしかなかった。村の若人たちが、酒を呑みながら、現状に対する憤りをぶつけて、憂さを晴らすだけであったのが、清兵衛の巧みな話術と、情熱とに動かされて、一人、また一人と集団の数は増えていったのだ。

「この世はな、不条理で出来ているんじゃ」
 清く正しく生きる者が、私利私欲を肥やす者に、喰い物にされる。そんな世の中など、オラ達で壊してしまおうぞ。清兵衛の言葉に、皆が喝采の声を上げる。

 それにしても、清兵衛さんが、こんなにも博学だったとは驚いたよ。そうだ、今までは、村の外れに一人で住んで、誰とも混じろうとしなかった清兵衛の変貌ぶりに、皆が口ぐちに驚嘆の声を上げる。

 皆の気勢を誇らしげに見ながら、清兵衛は考えていた。自分にこの国と、この藩の真実を伝えてくれたあの女性の事を。
「この藩はもう駄目です。いずれ、その波は、新野も飲み込み、やがて、民百姓をも滅ぼすでしょう」

 そう語るあの女性は、儚げに微笑み、だがしかし、その微笑がどこか妖艶に感じられた。女は新野藩の者だと語っていた。香戸の亡くなった主である香戸直之の事を存じていると。

「香戸の旦那様には、よくして頂きました」
 だから、とても残念です。あのような実直な御方が、無実の罪で、死ななければならないなどと。

 それは、清兵衛にとっても、衝撃の真実であった。女は更にこう続けた。
「この藩は腐っている。民百姓が立ち上がらねば、この藩は駄目になる」

 それを何度も何度も、寝物語に、清兵衛の耳元で囁き続けた。そして、その女が清兵衛の元から姿を消す頃には、立派な若き指導者が誕生していたのだった。

「今頃、どうしているのか?」
 突然姿を見せなくなった想い人に、心を馳せながら、清兵衛は今の自分をあの人が見たならば、どう思うだろうかと夢想する。誉めてくれるだろうか?それとも、叱られるだろうか?きっと誉めてくれるに違いない。

 今の自分は、あの時、あの人が語っていた事を体現しようとしているのだから。清兵衛は閉じていた目を開ける。その瞳は、自信に満ちていたのだった。

 主が不在となっている新野藩のある廃寺にて、香戸晋太郎は一人潜んでいた。先の争いの際に受けた傷は、思いの外深く、特に右肩の傷が思わしくない。着物を脱いで、自らの右肩の傷を見る。傷口が化膿し、変色すると共に、強く拳を握ると、激痛が右半身を走る。

「もう長い事はないだろうな…」
 自分の剣士としての寿命が尽きつつある事を自覚せざるをえない。しかし、今はそんな泣き言を言っている時ではなかった。

「早く内之子村へ行かねば」
 自分で無ければ、清兵衛たちを止める事は出来ない筈だ。今回ばかりは、あの兄弟でも難しいだろう。葦の女が、あの女が清兵衛にかけた呪縛を解き放てる者は、香戸家に産まれた自分に課せられた使命であり、罪であるのだから。

 さて行くか!晋太郎は、愛刀に寄りかかりながら、立ち上がる。外へ出ると、もう陽が傾いている。しかし、この闇に乗じて進めばいい。晋太郎は構わず一歩を踏み出す。

「香戸晋太郎だな?」
 晋太郎が廃寺を出た所であった。数名の侍姿の男達が行く手を遮る。

「何用だ?」
 男達の顔に、見知る者がいる。幾人かは、新野藩士の者だ。そして、

「お前らは、幕府の犬だな?」
 侍姿をしているが、間違いない。死んだ葦の女の復讐か、それとも、忠実に任務を全うしようとしているのか。だとしたら、敵ながら見上げたものである。

「貴様が生きていると、何かと都合が悪いのでな」
 なるほどと晋太郎は思った。確かに、幕府と新野藩が、裏で繋がっていた事を示す事が出来る証人である自分が生きているのは、幕府にとっても、新野藩にとっても都合が悪い筈であった。

 しかし、だからと言って、そう易々と、斬られてやる理由はどこにも無かった。
「その傷では、居合いは使えまい」
 大人しくするのであれば、一思いに殺してやろう。相手は、何とも優しい事を言う。晋太郎は、妙に可笑しくなってきた。

「俺が居合いだけの男だと?」
 そう言うと、晋太郎は、鞘から刀を抜くと、その鞘を放り投げる。そして、正面に立つ男に向かって、正眼の構えを取る。

「往生際が悪いぞ!」
 言うが早いか、正面の男が斬りかかる。しかし、晋太郎は見事に後ろへ飛ぶと、それを躱してみせた。

「どこまでも足掻いてみせるさ」
 とても諦めの悪い兄弟を知っているのでな。晋太郎は叫ぶと、正面の男へ斬りかかるのだった。



 余一郎は、再び駆け続けていた。一揆の集団がいる場所がようやく分かったからだ。何の事はない。街道を進んで、内之子村へ入れば、おのずと至る河原に集結しているというではないか。山間の抜け道を来たのが仇となった。しかし、今はそんな事を言っている時ではない。

「やいやい、お前ら一体何をやってやがる?」
 伊賀崎の屋敷を襲った事への怒りか、それとも、無駄な労力を使わされた事に対する思いをぶつけたかったのか、余一郎が最初に放った言葉は、一揆を止める立場の者からすれば、最悪な言葉であっただろう。

「何だ貴様は?」
 すぐに余一郎を数名の屈強な若者たちが囲む。
「お前らの頭領は誰じゃ?」
 構わず集団の中に、ズンズンと入っていく。

「おや、貴方様は?」
 集団の中心で座していた男が立ちあがり声を上げる。その男は集団の中で、一際大柄で、だが目はまん丸として、どこか愛嬌があった。

「清兵衛か?まさかお前が…」
 余一郎は絶句していた。まさか、あの腰が低く、慇懃で、人の良さをその大柄な身体いっぱいに詰め込んだような男が、この一揆の首謀者だとは。

「これは、余り侍様、御無沙汰しております」
 清兵衛は、あの時と変わらぬ態度で、余一郎に対して、丁寧な言葉と態度を示す。しかし、以前の清兵衛とはどこか違って見える。人を寄せ付けなかった男が、何やら自信に溢れるというか、一人の男として、その大柄な身体が、より一層大きく見えるのだ。

「清兵衛よ、こんな事をして何になる?」
 今、この藩は貧している。民百姓の暮らしが厳しいのは分かる。だが、こんなやり方では、犠牲になる者が増えるだけだ。
「貴方様は、殿様の御兄弟とか?」
 ならば、我々の敵だ。清兵衛が合図をすると、余一郎の両腕を先程の若者たちが、取り押さえる。

「何故、その事を知っている?」
 清兵衛、それを誰に聞いた?もしや、葦の女か?余一郎の問いに、清兵衛は、答える代わりに、腹に強烈な一撃を見舞う。激痛と共に、余一郎の視界は、急速に暗くなるのだった。

 小津城下に取り残されて、あんずは、怒っていた。
「全く、あの余り者は!」
 あんずが置いてけぼりにされたと知ったのは、城から戻ったすぐ後であった。富之助から託された伝言と共に長屋へ戻り、そこで、余一郎が旅立った事を長屋の住人から聞かされたのだ。

 あんずは、すぐに長屋を後にすると、余一郎を追いかけた。行き先は分かっていた。あんずは一人で駆けた。もう勘一郎もいない。吾郎佐も東姫も側にはいない。自分が行って、一体何が出来るだろうか?邪魔になるだけではないだろうか。

 だが、あんずは足を止めない。もう待つだけの夜を過ごすのは、御免だった。義父の一蔵が帰らなかった夜の日、余一郎が戻らぬ夜を待ち続ける日々、それらを考えれば、今度は自分が迎えに行く番だ。今回は、きっと幾分かマシであろう。あんずは駆けながら、そうな事を思っていたのだった。

「あれは?ひょっとして…」
 息を切らして街道を進むと、街道側の大きな木の下で、一人の侍が腰を降ろしている姿が目に入る。

「香戸晋太郎?」
 晋太郎は、大樹の下で深く座したまま動かない。見れば、身体のあちこちが血で汚れ、着物は黒く変色していて、浅い呼吸を繰り返している。
「お前は一蔵の…」
 晋太郎はあんずの姿を認めると、何を思ったのか、自分の愛刀を目の前に差し出した。

「これで仇を取れ。今取らねば、機会を逸するぞ」
 絞り出すように出す声に、力が感じられない。
「貴方様は、もう思い残す事は無いのですか?」
 あんずの言葉に、晋太郎は少しの間を置いてから、ある!と一言だけ発する。

「なら、こんな所で何をしているの?」
 あんずはそう言うと、晋太郎の差し出した刀ではなく、彼の腰に手を回し身体を支える。戸惑う晋太郎に、行き先は同じでしょう?そのあんずの問いに、晋太郎は首を一つ縦に振るのだった。

 余一郎は、何やら騒がしい辺りの様子に目を覚ました。まだ頭がフラついて、視点が定まるのに時を要した。口の中が切れているのか、血の味がする。どうやら、腹に一撃をもらった後に、したたかにやられたらしく、身体中のあちこちに擦り傷や、打撲の後があった。なるほど痛い筈だ。身体を起そうと試みるが、上手く起き上がれない。見れば、後ろ手に紐で縛られていて、身動きがとれない。

 何とか身体の体勢を起こそうと、不格好な姿を晒していると、辺りの騒がしさの原因が目に入る。強訴をする為に集まった一揆の集団内で、諍いが起っていたのだ。
「なんだ?どうしたのだ?」
 余一郎の頭は、疑念だらけとなる。この機に抜け出さねば。余一郎が更にもがいていると、

「おい、何だこいつは?」
 どうやら縛られて動けないみたいだ。今の内に殺るんだ。動けぬ余一郎の前に、二人男が、刀を振り上げて迫ってくる。万事休すかと思われたその時であった。

「貴様、その愉快な恰好はなんだ?」
 声がした方を見れば、そこに立っているのは、晋太郎であった。相も変わらず、ふざけた野郎だな。余一郎の姿を見て、呆れた表情を浮かべる。

「これは、その、て、敵状視察じゃ」
 どこに敵状視察をして、縄で縛られる者があるだろうか。余一郎は、自分でも滑稽な事を言っている自覚はあるのだが、何か言ってやらねばと思って、放った言葉であった。

「あんず、早くそのアホの縄を解いてやれ」
 敵と正対しながら、晋太郎は側にいるあんずに声をかける。すると、すでにあんずは、余一郎の縄を切り始めていた。

「全く、貴方様という御方は、いつも、いつも…」
 何でこう、大人しくしていてくれませぬか。あんずは、縄を切りながら、ぶつくさと言ってやる。すまぬ!縄を解いて貰った余一郎が立ち上がる。すると、あんずは、奪われていた彼の愛槍をその手に渡してやるのだった。

「おい、何だこいつらは?」
 晋太郎と背中合わせになって、お互いに正面の敵に対峙する。
「こいつらは、俺のやり残した仕事だ!」
 そう言うと、晋太郎が相手に向かっていく。

「貴様、その傷は?」
「お主よりはマシじゃ!」
 自然と笑みが零れる。二人は敵を蹴散らしながら、進んでいく。

「一体、何じゃ?どうしてこうなった?」
 その頃、一揆の首謀者である清兵衛は、強固な団結を誇った一揆勢が、どうして、こんなにも悲惨な争いを引き起こしたのか、理解出来ずにいた。ある者は、隣人に殴られ、ある者は、無我夢中で振った鍬が、兄弟に当ってしまう始末であった。

「清兵衛というはお前だな?」
 二人の男が、刀を持って、清兵衛に迫っていた。何だお主らは?始めて見る顔じゃ。どうして、オラを狙う。清兵衛の問いに、男達は答えない。その代わりに、ヒタリ、ヒタリという死の音と共に、近づいてくるのだった。

「おい、貴様らの相手はこっちじゃ」
 背後より声を掛けられ、清兵衛を狙う刺客が見れば、すでにボロボロで、今にも倒れそうな二人の侍であった。

「貴様、まだ生きておったか」
 晋太郎の姿を認めた男が、呆れたように言う。死にぞこないが、何の用だ?どうやら、この男が、この刺客達の頭目らしい。

 晋太郎は、一度刀を鞘に収めようとするも、返り血と刃こぼれで、主同様ボロボロなその刀を何とか鞘に収める。その様を見た頭目からは、嘲笑が漏れる。しかし、相手の事など気にする事もなく、晋太郎独特の低い構えを取った。そして、次の瞬間、横一線に駆け抜けると、男はうめき声と共に、倒れたのだった。

「今度はお前の番じゃ!」
 余一郎は叫ぶと、大車輪に回した双頭の槍をもう一人の刺客に対して、力いっぱい投げつけるのだった。その槍は、見事、刺客の首元へ深々と刺さり、憐れな男はそのまま仰向けに倒れた。

「貴様の槍術は、いつ見ても品のない」
「何を?貴様こそ、もう余裕が無いくせに」
 そうだ、余裕など当にない。だから、貴様の肩を今なら借りてやるぞ。仇敵の思いがけない申し出に、少し戸惑いながらも、肩を貸す。大の男が、二人して歩くのがやっとの有様であった。

「若様、なんというお姿で…」
 ボロボロになってまで、自分の命を救ってくれた旧主を見て、清兵衛の頬に涙が流れる。
「清兵衛、遅れた事すまぬ」
 これで、あらかた敵は倒した筈だ。この一揆は仕組まれた物だ。お前たちは騙されたのだ。それを止めに来た。

 争いを止めよ。もうお前たちが争う必要は無い。晋太郎の話しに、清兵衛は耳を傾けた。あれだけ頑なだった男が、素直に聞いている。それだけ、この二人には、余人が入れぬ絆があるのだろう。

「戦は終わった!」
 もう止めじゃ!清兵衛は声を張り上げる。どうか止めてください!あんずも、精いっぱいの声を上げるが、混乱の極みにいる者達には、その声が届かない。もう打つ手は無いのか、そう思われたその時であった。ドボンッ、バシャーッという音と共に、何やら悲鳴も聞こえてくる。

 その音は、余一郎が手当り次第に、人々を川に叩き落としている音であった。
「お前らは、間者の策に嵌ったんじゃ。静まれ、静まれ!」
 そう言いながら、理不尽に川へ一人、また一人と叩きこんでいく。叩き込まれた者は、雪解け水が混ざった冷たい川に晒されて、冷たい!と悲鳴をあげた。

 それを見た清兵衛も、この手があったか!と、馬鹿力を発揮して、一人、二人と川へ投げ込んでいく。晋太郎は、傷が痛むのか、片膝をついて、その様子を見守り、あんずは、そんな晋太郎の背を擦っているのだった。

「俺は喧嘩仲裁屋の伊賀崎余一郎だ!」
 まだ喧嘩し足りない奴がいたら、名乗り出ろ。俺が仲裁してやるぞ。余一郎が大見得を切ると、辺りは嘘のように静まり返るのだった。

 気が付けば、争いはいつの間にか、治まっていた。
「わしら、どうすればいいんじゃ?」
 事情を聞いた、一揆に集まった者達は、皆口ぐちに不安や不満を吐き始めた。そして、それは一揆の首謀者であった清兵衛に向けられ始めていた。

 そんな民達の態度を見て、余一郎は腹を立てていた。何だそれは!全て他人のせいか!自分たちは何も悪くないというのか!余一郎は何か言ってやろうと立ち上がる。

「この一揆に参加せし者の罪は問わぬ」
 それは、静かだが、とても透き通るような穏やかな声をしていた。見れば、川の対岸に十騎程の集団がいつのまにか到着していた。

 その集団は、浅瀬を馬のまま渡り、こちらの岸までやってきた。近くまで来れば、そのが誰だか分かった者も居たであろう。殿の御成りである!馬上より、石田俊介が、この藩の主の来訪を告げる。その場に居た者達は、驚嘆すると同時に、その場に平伏すのだった。

「あっ伝言…」
 いつの間にか、余一郎の横にいるあんずが、口に手を当てる。後で自分も行くからって、殿様が…遅ればせながら伝える。あんずは舌を出して、誤魔化した。

「清兵衛…」
 もう立ち上がる事が出来ない晋太郎が呼ぶと、若様の顔を見て、大きく頷いた清兵衛が富之助の前に進み出る。

「お殿様へ、言上仕りまする」
 平伏しながら、懐に入っていた意見書を恭しく差し出す。すると、下馬した俊介がそれを受取り、富之助へ渡すのだった。

「相分かった。全て許そう」
 富之助は、受け取った意見書に目を通さず、懐にしまうと、そう宣言する。

「殿、見もせずにでするか?」
「そうじゃ!見もせずにじゃ」
 俊介の悲鳴に近い問いに、富之助は笑顔でそう返す。

「だが、一つだけ条件がある」
 打ち壊した庄屋や商家への謝罪と、建物の復旧、怪我を負った者に対する補償、それらを行うこと。そうすれば、この一揆の首謀者を含めた皆の罪は問わない。

「商家、庄屋、代官などに、不都合あれば遠慮なく申し出るべし」
 この加戸富之助が成敗してくれよう。そう言うと、弟は兄に向って、右手を突き出した。それを見て、兄も同じように、拳を強く握って、突き出すのだった。

 殿様からの思いがけない声明に、その場で歓喜の渦が起っていた。とても敵わない。その渦の中心にいる弟の姿を眺めながら、兄は何とも誇らしいと思っていた。



 小津藩を震撼させた内之子騒動は、幕を閉じた。伊賀崎の屋敷も無事再建されて、主の惣太郎の傷も回復した。余一郎はほっと胸を撫で下ろすのだった。一揆の首謀者であった清兵衛は、免罪の代わりに、藩の開拓事業に、従事する日々を送っている。

 そして、香戸晋太郎であるが…
「あの後、すぐだったものね」
 線香に火をつけて、手を合わせる。墓石には、香戸家之墓と記してある。

 香戸晋太郎は、一揆の際の傷が元で、三日後に死んだ。
「もう休ませろ。貴様の遊び相手は、ウンザリじゃ」
 最後まで、余一郎に悪態を吐きながら、だがその死に顔は穏やかであった。
「奴なりの本懐を遂げたのだろう」
 余一郎は、それだけを言うと、晋太郎の事を二度と口にする事はなかった。

 富之助は、東姫を連れて、江戸へ再び旅立たねばならない。
「一郎殿はこれからどうなさるの?」
 小津城下へ戻った際に、東姫に問われて、余一郎はニヤリと笑ったまま答えなかった。東姫は、晋太郎の訃報を知らされると、特に取り乱す事もなく、そうですか。と一言だけ呟くと、暫く喪に服して、誰とも会わなかったという。

「兄上には、新野藩をお任せしたい」
 一揆終息後に、富之助から、内々にそんな打診を受けたのだが、余一郎は、馬鹿言うな!と、一頻り笑い転げると、弟に何も告げずに、内之子村を後にするのだった。

「ねぇ、余り侍、本当にどうするの?」
 小津を出る大名行列を眺めながら、あんずは問いかける。
「あんず、江戸の街が見たいか?」
 余一郎からの思いがけない言葉に、見たい!と元気の良い返事をする。

「よし、参ろう!」
 二人は街道を往く。霧の季節が過ぎて、もう数日すれば、神南山にも、椿の花が咲き誇るだろう。それを見て進めばいい。それを感じて歩けばいい。小津に少し遅めの春が訪れようとしていた。


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