「鏡像のイデア」 難解な推理小説

序章

歪んだ放課後

夕暮れの帳が静かに下り始め、教室の窓から差し込む西日が、赤みを帯びた光で神藤葉羽の机を照らしていた。放課後の喧騒も次第に遠のき、教室には彼と数人の生徒が残るのみとなっていた。葉羽は、古書店で見つけた一冊の古い推理小説に没頭していた。ページを繰る指先は、物語の謎を解き明かす興奮で微かに震えている。推理小説を読むこと、それは葉羽にとって何よりも心躍る時間であり、現実の喧騒を忘れさせてくれる唯一の逃避行でもあった。

「葉羽くん、またそんな難しそうな本読んでるの？」

ふいに、明るく弾むような声が葉羽の意識を現実へと引き戻した。声の主は、幼馴染の望月彩由美だった。彼女は好奇心旺盛な瞳を輝かせ、葉羽の手元にある古びた本を覗き込んだ。

「ああ、彩由美。これ、昭和初期に書かれた本格ミステリーなんだけど、トリックが本当に秀逸でね。密室殺人の謎を解くために、登場人物たちの行動や心理を緻密に分析していく過程が、たまらなく面白いんだよ」

葉羽は興奮気味に語り始めた。推理小説の話になると、彼はいつも饒舌になる。彩由美は少し困ったような、それでいて温かな笑顔を浮かべた。彼女は推理小説にあまり興味がないことは葉羽も知っていたが、それでも彼の話をいつも真剣に聞いてくれる。

「私には難しすぎてよく分からないけど、葉羽くんが楽しそうならいいかな。ところで、明日一緒に映画を見に行かない？最近話題の恋愛映画なんだけど、すごく評判いいんだよ」

「恋愛映画か。たまにはそういうのもいいかもしれないな。トリックや謎解きはないだろうけど、たまには現実逃避も必要だしね」

葉羽は彩由美の誘いを快諾した。彩由美は嬉しそうに微笑み、胸をなでおろす。二人の間には、幼い頃から変わらない穏やかな空気が流れていた。彩由美は葉羽にとって、心を許せる数少ない存在だった。

「そういえば、葉羽くんの家に大きな鏡が届いたって聞いたけど、どんな鏡なの？お母様が海外の骨董市で見つけて、わざわざ取り寄せたって聞いたけど」

彩由美の何気ない一言に、葉羽の表情が曇った。

「ああ、あれか。確かに変な鏡なんだ。何というか、映っている自分自身なのに、どこか違和感があるというか…うまく言葉にできないんだけど」

「違和感って、どんな感じなの？」

彩由美は首を傾げ、不思議そうに尋ねた。葉羽は言葉を選びながら、慎重に答えた。

「鏡に映る自分が、俺じゃないような気がするんだ。顔も体つきも同じなのに、表情とか、醸し出す雰囲気が、普段の自分とは全く違う。まるで、別の存在がそこにいるみたいなんだ。それに、鏡をじっと見ていると、めまいのような感覚に襲われることもあって…」

葉羽の言葉に、彩由美は不安そうな表情を浮かべた。夕暮れ時の教室に、不穏な影が忍び寄る。普段は冷静沈着な葉羽が、戸惑いを隠せない様子を見せていることが、彼女をより一層不安にさせた。

「葉羽くん、大丈夫？なんだか顔色も悪いみたいだけど…」

「ああ、少し疲れているだけだよ。心配ない」

葉羽は無理に笑顔を作り、彩由美を安心させようとした。しかし、彩由美の不安は拭えないようだった。

「でも…もし何かあったら、すぐに私に相談してね。葉羽くんは一人暮らしだし、何かあったときに頼れる人がいないと心配だから」

「ありがとう、彩由美。何かあったら、必ず君に相談するよ」

葉羽は彩由美の優しさに感謝しつつも、心の中では不安が膨らんでいた。あの鏡は、一体何なのだろうか。鏡に映る自分は、本当に自分自身なのか。

放課後、葉羽は豪邸と呼ぶに相応しい自宅へと帰宅した。両親は海外に滞在しており、広い屋敷には彼一人しかいない。玄関ホールに足を踏み入れると、彩由美が言っていた巨大な鏡が目に飛び込んできた。それは壁一面を覆うほどの大きさで、黒檀の重厚なフレームに縁取られている。フレームには、見たこともない異国の文字のようなものが細かく彫り込まれており、妖しげな雰囲気を醸し出していた。

葉羽は恐る恐る鏡に近づき、自分の姿を映し出した。鏡の中の自分は、確かに葉羽と同じ顔立ちをしている。しかし、その表情には見覚えのない冷たさが宿っていた。唇は僅かに歪み、瞳の奥には嘲笑うような光が宿っているように見える。

「やっぱり、何か変だ…」

葉羽は鏡面に手を触れた。ひんやりとした金属の感触が指先に伝わる。その瞬間、鏡の奥から微かな声が聞こえたような気がした。それは人の声というよりも、風が隙間を通り抜けるような、あるいは遠くで波が打ち寄せるような、かすかな音だった。

葉羽は手を引っ込め、周囲を警戒した。しかし、そこには誰もいない。ただ、広い玄関ホールに静寂が広がっているだけだった。

「気のせいか…？疲れているのかもしれないな」

葉羽は自分に言い聞かせ、鏡から離れようとした。しかし、何かに引き寄せられるように、再び鏡に視線を戻してしまう。鏡の中の自分もまた、葉羽を見つめ返していた。その視線は、葉羽を嘲笑っているようでもあり、何かを訴えかけているようでもあった。

「君は誰だ？」

葉羽は思わず、鏡像の自分に問いかけた。もちろん、返事があるとは思っていなかった。しかし、次の瞬間、葉羽の耳に微かな声が届いた。それは、鏡の奥底から響いてくるような、微かだが確かに聞き取れる声だった。

「私は…君だ…」

声は風の囁きのように微かだったが、葉羽の耳にははっきりと届いた。その声は、葉羽自身の声と全く同じだった。しかし、その声には、葉羽の声にはない冷たさと、どこか人間離れした響きが混じっていた。

葉羽は背筋に冷たいものが流れるのを感じた。鏡に映る自分自身が、自分に話しかけてきたのだ。これは一体どういうことなのか。幻聴なのか、それとも…

葉羽は鏡から目を離すことができなくなった。鏡の中の自分は、薄く笑っているように見える。その表情は、葉羽の知る自分の表情ではなかった。それは、まるで別の存在が葉羽の姿を借りて、そこにいるかのようだった。

「君は、本当に俺なのか？」

葉羽は再び問いかけた。しかし、鏡像は答えなかった。代わりに、鏡の表面が波打つように揺らみ始めた。鏡に映る葉羽の姿が歪み、まるで別の空間に引き込まれていくかのようだ。

葉羽は驚きに目を見開き、後ずさった。鏡の中から、先ほど聞いた囁き声が、より鮮明に聞こえてくる。それは、まるで葉羽を誘惑するかのように、甘く危険な響きを帯びていた。

「こちらへ…おいで…」

声は葉羽の心を揺さぶるような力を持っていた。葉羽は一瞬、その声に導かれるままに鏡の中へ足を踏み入れそうになった。しかし、理性を取り戻し、かろうじて踏みとどまった。

鏡の異変は数秒で収まった。再び静寂が訪れたが、葉羽の心には言いようのない不安が広がっていた。この鏡は、一体何を意味するのか。鏡に映る自分は、本当に自分自身なのか。それとも、別の何かが自分の姿を借りているのか。

葉羽は推理小説で培った論理的思考を働かせ、この奇妙な現象の解明に挑むことを決意した。まずは、鏡そのものを詳しく調べる必要がある。そして、鏡像が何を意味するのか、なぜ自分に話しかけてきたのかを突き止めなければならない。

葉羽は鏡の周囲を注意深く観察し始めた。鏡を支える台座には、複雑な紋様が彫り込まれていることに気づいた。それは、先ほどフレームに刻まれていた文字とは異なるものだったが、やはり見たこともない不思議な紋様だった。

次に、鏡面を詳しく調べるために、葉羽は書斎からルーペを取り出した。鏡面に顔を近づけ、ルーペで表面を拡大して観察する。すると、鏡の表面には微細な傷のようなものが無数に刻まれていることに気づいた。それは一見、単なる経年劣化による傷のようにも見えるが、よく見ると、一定の規則に従って刻まれていることがわかった。それはまるで、複雑な回路図のようにも見える。

葉羽はルーペを手に、鏡面全体をくまなく調べ始めた。傷のパターンは複雑で、一見ランダムに見えるが、葉羽は何かしらの規則性があるはずだと直感した。彼は推理小説で培った分析力と洞察力を駆使し、傷のパターンを解読しようと試みる。

その時、再び鏡の表面が波打つように揺らぎ始めた。鏡に映る葉羽の姿が歪み、まるで液状化していくかのようだ。そして、鏡の奥から、あの声が再び聞こえてきた。

「もうすぐ…もうすぐだ…」

声は先ほどよりも大きく、力強い響きを持っていた。鏡の表面の揺らぎは激しくなり、鏡全体が光を放ち始めた。葉羽は眩しさに目を細め、思わず後ずさりした。

鏡の光は次第に強まり、部屋全体を包み込む。葉羽は光に包まれ、意識が朦朧としていくのを感じた。そして、次の瞬間、葉羽は激しいめまいと共に、意識を失った。

どれくらいの時間が経っただろうか。葉羽が意識を取り戻すと、彼は見慣れない場所にいた。そこは、葉羽の自宅とは全く異なる、薄暗い異様な空間だった。壁は奇妙な模様で覆われており、床はぬかるんだ泥のようなもので覆われている。空気は重く、生臭い匂いが漂っていた。

「ここは…どこだ…？」

葉羽は混乱しながら、周囲を見回した。そして、自分の姿が映る鏡があることに気づいた。しかし、その鏡に映る自分の姿は、葉羽の知る自分の姿ではなかった。

鏡に映っていたのは、葉羽と同じ顔立ちをしているものの、表情は冷酷で、瞳は異様な光を放っていた。まるで、別人格が葉羽の肉体を乗っ取ったかのようだった。

葉羽は鏡に映る自分に、恐怖と嫌悪感を覚えた。これは一体どういうことなのか。なぜ自分はこんな場所にいて、なぜ鏡に映る自分はこんな姿になっているのか。

その時、葉羽の脳裏に、鏡像の言葉が蘇ってきた。

「君が見ている世界は、ほんの一面に過ぎない。鏡の向こうには、真実の世界が広がっている」

まさか、鏡像の言っていた世界とは、この場所のことなのか？そして、鏡に映る自分は、鏡像が言っていた「真実の自分」なのか？

葉羽は混乱と恐怖に苛まれながらも、この奇妙な状況を理解しようと試みる。彼は推理小説で培った論理的思考力を駆使し、一つずつ手がかりを集めていく。

まず、この場所がどこなのかを特定する必要がある。葉羽は周囲を観察し、手がかりを探した。壁の模様、床の材質、空気の匂い、そして鏡に映る自分の姿。これらの情報を総合的に判断し、葉羽はある仮説を立てた。

ここは、鏡の向こう側にある、異次元の世界ではないだろうか。そして、鏡に映る自分は、この異次元世界における自分の姿、つまり「虚像」なのではないだろうか。

葉羽の仮説が正しければ、鏡像融合は実際に起こりうる現象であり、自分は鏡像融合によって異次元世界へと引き込まれたことになる。そして、鏡に映る自分は、異次元世界における自分の分身、つまり「虚像」なのだ。

しかし、なぜ自分が鏡像融合に巻き込まれたのか。そして、鏡像融合を起こした者の目的は何なのか。葉羽にはまだ、多くの謎が残されていた。

葉羽は謎を解き明かすため、この異次元世界を探索することにした。彼は恐る恐る足を踏み出し、薄暗い空間を進んでいく。壁には奇妙な模様が刻まれており、床には得体の知れない液体が溜まっている場所もあった。空気は重苦しく、異様な匂いが鼻をつく。

葉羽は緊張しながらも、冷静さを保ち、周囲を観察し続けた。推理小説で培った観察眼と分析力は、この異次元世界でも役に立つはずだ。

しばらく歩いていると、葉羽は前方で何かが動く気配を感じた。彼は身をかがめ、物陰に隠れて様子を伺った。すると、暗闇の中から、人影が現れた。

人影はゆっくりと近づいてくる。葉羽は息を潜め、人影の正体を見極めようとした。そして、人影が葉羽の目の前に現れた瞬間、葉羽は息を呑んだ。

人影は、葉羽自身だった。しかし、その姿は鏡に映っていた虚像とは異なり、葉羽の知る自分自身とも違っていた。その姿は、まるで異形の怪物だった。

肌は青白く、目は血走っており、口からは鋭い牙が覗いている。手足は異様に長く、爪は鋭く尖っている。そして、全身からは黒い煙のようなものが立ち上っていた。

葉羽は恐怖に慄きながらも、必死に冷静さを保とうとした。これは一体どういうことなのか。なぜ自分自身が違う姿で現れたのか。

その時、怪物の口が開き、嗄れた声が響き渡った。

「ようこそ…私の世界へ…」

声は葉羽の声と同じだったが、その響きには、狂気と憎しみが込められていた。葉羽は、この怪物が自分自身の闇の部分、あるいは異次元世界によって歪められた自分の姿なのではないかと直感した。

葉羽は怪物との対決を覚悟した。彼は推理小説で得た知識と知恵を武器に、この異次元世界から脱出し、元の自分自身を取り戻すために、戦わなければならない。