霧崎時計塔の裂け目

2章

亡霊のささやき

霧に包まれた街で、異変は加速し続けていた。神藤葉羽は、転校生の霧崎璃久が街に現れたその日から、何かがおかしいと確信していた。異常なほど濃い霧は一向に晴れる気配がなく、街全体がまるで外界から遮断されているかのような閉塞感に包まれていた。だが、それはまだ序章に過ぎなかった。

翌朝、葉羽は目を覚ました瞬間から、違和感を感じ取っていた。豪邸の窓から外を眺めると、霧は昨日よりもさらに濃くなっており、まるで白い壁のように視界を覆っていた。太陽の光は弱々しく、その存在すら疑わしい。街はますます異質な雰囲気に包まれていた。

葉羽は、いつものように朝食を手早く済ませると、学校へ向かう準備を整えた。しかし、家を出る前にふと、玄関の前に誰かが立っていることに気がついた。

「彩由美？」

ドアを開けると、そこには望月彩由美が立っていた。彼女は不安げな表情で、手に小さなバッグを抱えている。

「葉羽……、話したいことがあるの。ちょっといいかな？」

葉羽はすぐに彼女を家の中に招き入れた。彼女の様子がいつもと違う。いつも笑顔でいるはずの彩由美が、どこか怯えているように見えた。葉羽は不安を感じながらも、彩由美が話し出すのを待った。

「昨日の夜、私の家で……変なことがあったの」

彩由美は、震える声で話し始めた。彼女の話によると、昨夜、家の中で奇妙な音を聞いたというのだ。寝室で一人横になっていると、隣の部屋から誰かが囁くような声が聞こえてきたという。

「誰もいないはずなのに、まるで壁越しに誰かが囁いてるみたいだったの。最初は風の音か何かだと思ったんだけど、何度も繰り返して聞こえてきて……怖くてたまらなかった」

彩由美の瞳には、明らかな恐怖が浮かんでいた。普段は少し天然で、怖がりな彼女がここまで怯えることは珍しい。葉羽は、自分の中で何かが繋がっていく感覚を覚えた。この街で起こっている異常な現象、そして彩由美が体験した不気味な出来事……それらは単なる偶然ではない。

「それって、霧が関係してるんじゃないか？ 何か、霧の中にあるものが音を立ててるとか」葉羽は自分の推測を口にした。

「でも……そんなはずないよね、普通は。でも、昨日の夜のあれは、普通じゃなかった……。それだけじゃないの。なんか、家の中が妙に冷たくなってきて、空気が重いっていうか……」

彼女の言葉に、葉羽はさらに緊張感を覚えた。彩由美の家は、古い造りではあるが、そんな異常な現象が起こるような場所ではなかった。彼は、彩由美の話をただの恐怖心から来る思い込みだと片付けることができなかった。

「わかった。今日放課後、君の家に一緒に行ってみよう。その音の正体を確かめる」葉羽は冷静に言った。

彼の中ではすでに、一つの推理が形成されつつあった。霧と共に街に漂い始めた不気味な空気、そして彩由美の家での異常な現象。それらは全て、転校生・霧崎璃久の登場と同じタイミングで起こり始めた。彼は直感的に、この謎めいた少年が何かを隠していると感じていた。

その日の放課後、葉羽と彩由美は彼女の家へ向かった。霧は昼間でも一向に晴れる気配がなく、むしろさらに濃くなっているようだった。家々の輪郭がぼんやりとしか見えず、街全体が夢の中に迷い込んだかのような不気味な静けさに包まれていた。

「ここだよ……私が音を聞いた部屋は」

彩由美の家は、伝統的な和風建築で、木のぬくもりを感じる落ち着いた雰囲気だった。しかし、今はその家も、何か冷たい陰気を帯びているように見えた。彼女が案内したのは、二階の奥にある小さな客間だった。

「ここにいたとき、隣の部屋から聞こえてきたの……。今は何もないと思うけど、あのときは本当に……」

彩由美は言葉を詰まらせながらも、葉羽に状況を説明した。葉羽は壁に耳を当て、隣の部屋の音を注意深く聞き取ろうとした。だが、今は何も聞こえない。ただ、静寂が広がるばかりだった。

「本当にここで聞いたのか？」葉羽は念のために確認する。

「うん、間違いない。昨日は確かに……でも、今は……」

その時だった。突然、葉羽の耳に、かすかだが確かに「囁き声」が聞こえてきた。まるで何者かが壁越しに話しかけているかのように、途切れ途切れに、か細い声が耳元に届く。

「……た……す……け……て……」

「彩由美、これだ……」葉羽は驚きながらも声を潜めた。確かに、壁越しに何かがささやいている。

彩由美も驚いた顔で葉羽を見つめた。「本当に聞こえたの……？」

二人は目を見合わせた。静かな家の中に、そのささやき声は不気味に響いている。だが、葉羽は恐怖よりも好奇心が勝っていた。この現象の背後にある真実を暴き出すという強い意志が、彼を突き動かしていた。

「この部屋……おかしい。何かがある」葉羽は断言した。

壁を調べていると、葉羽は何かが隠されていることに気付いた。壁の板が微妙にずれており、その隙間に薄い紙片が挟まっているのだ。彼はそれを慎重に引き出した。紙には、古い文字で何かが書かれていた。

「……これって……？」

それは、街に古くから伝わる一族にまつわる伝承だった。この一族は「時間を操る力」を持ち、その術によって不老不死を追い求めたという。しかし、その代償として、彼らは「永遠に時の狭間に囚われる運命」にあった。街に漂う霧は、その呪われた時間の一端であり、失踪者たちは時間の狭間に引きずり込まれていたのだ。

「まさか……この霧は、ただの自然現象じゃない。これは……時間の裂け目だ」葉羽は小声で呟いた。

その時、外から何かが揺れる音が聞こえた。窓の外に目を向けると、濃霧の中に、ぼんやりと人影が浮かび上がっている。まるで、霧の中から何者かがこちらを見つめているようだった。

「葉羽、あれ……誰かいる……？」彩由美が震える声で言った。

葉羽はじっと霧の中を見つめた。しかし、その人影はすぐに霧に溶け込むように消えてしまった。葉羽は、何かが自分たちを監視しているのを感じた。そして、この街で起こっているすべての現象が、ただの偶然ではないことを確信した。

「彩由美、この霧の正体を突き止めないと、俺たちも……時間の狭間に囚われるかもしれない」

その言葉に、彩由美は驚きつつも、頷いた。二人は、街に広がる謎の解明に向けて一歩を踏み出すことを決意した。

その時、再びささやき声が聞こえてきた。

「……た……す……け……て……」

だが、それはもう二人に助けを求めるものではなかった。