裏切りの騎士は悪役令嬢を溺愛していた

桜井ことり

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暖炉の火が爆ぜる音が、静かな書斎に響く。

アテナはソファに深く腰掛け、向かい側で甲斐甲斐しく茶を淹れるローレンスの姿を眺めていた。

王都を離れてから、彼の献身は増すばかりだ。けれど、アテナの胸の中には、どうしても拭えない違和感があった。

「ねえ、ローレンス。一つ提案があるのだけれど」

「何でしょうか、アテナ様。もっと甘いお菓子がご入用ですか?」

「……それよ。その『アテナ様』という呼び方、もうやめてくれないかしら」

ローレンスがティーポットを傾ける手を、ぴたりと止めた。
彼は不思議そうに首を傾げ、アテナの瞳を覗き込む。

「それは……どういう意味でしょうか。私は貴女の騎士であり、貴女は私の守るべき主君です。呼び方を変える理由が見当たりませんが」

「私はもう公爵令嬢ではないわ。国を追われた身なのよ? そんな風に敬称をつけて呼ばれると、自分がまだあの窮屈な城に縛られているような気がするの」

「……」

「それに、これほど尽くしてくれている貴方に『様』付けで呼ばれるのは、何だか距離を感じて寂しいわ。……ただの『アテナ』と呼んで」

アテナは勇気を出してそう告げた。
頬が熱くなるのを感じたが、視線は逸らさなかった。

しかし、ローレンスの反応は意外なものだった。
彼は深く溜息をつき、茶をテーブルに置くと、ゆっくりとアテナの足元に膝をついた。

「アテナ様。私にとって貴女は、称号や身分に関係なく、生涯をかけて傅くべき唯一の女神なのです」

「女神だなんて……。私はただの、不器用な女よ」

「いいえ。貴女は私の魂の光だ。その光を呼び捨てにするなど、私には畏れ多い。……貴女を『様』なしで呼ぶことは、私自身の信仰を汚すことに等しいのです」

「信仰って……。大げさだと言っているでしょう?」

アテナは彼の肩を掴み、無理やり視線を合わせようとした。
頑固なまでに「騎士」を演じようとする彼に、少しだけ腹が立ってきたのだ。

「いい? これは命令よ。ローレンス、私の名前を呼んで。……呼び捨てで」

ローレンスが息を呑むのが分かった。
彼は苦渋に満ちた表情で眉根を寄せ、何かを耐えるように拳を握りしめている。

「……命令、ですか。貴女は私に、理性を捨てろと仰るのですか」

「名前を呼ぶだけで、どうして理性を捨てることになるのよ」

「アテナ様は……本当に分かっていない。私がどれほどの覚悟を持って、貴女をその敬称で呼び、一歩引いた場所に留まっているかを」

ローレンスが、アテナの膝に顔を埋めた。
その仕草は酷く脆そうで、それでいて危うい熱を帯びている。

「貴女を『アテナ』と呼び捨てにすれば……私はもう、自分を抑えられなくなる。貴女を『主』としてではなく、ただの『一人の女』として、獣のようにむさぼり尽くしたくなってしまう」

「ローレンス……?」

「その名前を呼ぶ時は、貴女の全てを、髪の先からつま先まで私の色に染め上げた時だけだと……そう決めているのです。……それでも、呼ばせたいのですか?」

ローレンスが顔を上げた。
その瞳は、いつもの穏やかな琥珀色ではなく、暗く深い欲望に濁っている。

アテナは背筋に冷たいものが走るのを感じたが、同時に、今まで感じたことのない高揚感が胸を突き上げた。

「……ええ。構わないわ。貴方が私の騎士をやめて、ただのローレンスになるというのなら」

沈黙が二人の間に流れる。
やがて、ローレンスは憑き物が落ちたようにふっと笑うと、アテナの手首を掴み、引き寄せた。

「……分かりました。貴女の望み通りに。……アテナ」

初めて、敬称なしで呼ばれた自分の名前。
その響きは、甘い毒のようにアテナの耳に溶け込んだ。

「アテナ。……もう、後悔しても遅いですよ。貴女が私のリミッターを壊したのですから」

ローレンスの腕に力がこもり、アテナは彼の胸の中へと閉じ込められた。
今までよりもずっと荒々しく、独占欲を剥き出しにした抱擁。

「あ……っ、ローレンス……」

「これからは、その唇からこぼれる名前も、私だけのものにしてください。……いいですね?」

アテナは、自分の選択が正しかったのかは分からなかった。
けれど、首筋に落とされる熱い口づけを受け入れながら、彼女はこの「裏切りの騎士」との心中を、密かに覚悟するのだった。
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